セイくん@明治リセイ2


「じゃあ、今日も行ってきます」
「……うん、ほどほどにね」
「大丈夫さ!潰れたらリセイ君にどうにかしてもらうよ」
「どこも大丈夫なもんか、なおだめだよ」

大丈夫ですよ、坊ちゃん。とまるでそれが使命であるかのように、介抱(の予約)を仰せつかったことにほんの少しだけ嬉しさを滲ませた声で、リセイは俺を制した。
まあ、結局のところ見送るのだからこのやりとりは出かける前のお遊び程度のものなのだけれど。それを、リセイも分かってて――分かり慣れてて、止めるタイミングも絶妙になりつつあった。

「……、リセイさん、不本意ですが父をよろしくお願いします」
「セイったらリセイくんに対して包み隠さなくなってきたねえ」
「オブラートって水に溶けやすいから仕方がないよ」
「あはは、まあいい事がないわけでもないさ」
「もう、いいから行ってきなよ。そして仕事して!」

そう言って二人の背を押すと、くすくすと柔らかな笑い声を流しながら、父とリセイは家を後にした。
ガラガラと立て付けの悪くなってきた扉の閉まる音が鼓膜を乱雑に叩く。もう夜もたけなわ、多く民家のほとんどが電気を消して寝息を立てている。遠くの街は真新しいネオンの光でほのかに空を明るくしていて、おそらく父たちはあそこに行くのだと察した。
つっかけを脱いでがらんどうになった居間に座る。息をすればそれだけが空気を震わせるこの時間にはもう慣れっこだ。リセイがいない頃から、父の絵の研究――基、夜のそぞろ歩きはよくあることだったのだから。
父は、いつだってどんな時だって、俺をその歩みに相伴させてくれない。ためしに年甲斐もなく駄々をこねてみたけれど、結果的に行き着いたのは「一緒にお留守番をする」ということだった。
いやいや一緒に行きたいし一緒にいたいとは言ったけれどそういうことじゃないから。何の為に一緒にいたいだなんて小っ恥ずかしい台詞を口にしたと思っているんだ――と。
まあ、そんなわけで俺はそれを境に父と一緒にどこかに行くというのを、とりわけ夜遊びに同行したいなどという我儘を言うのをやめたのである。あまりにも、あまりにも、俺と外出することを良しとしない父に不満がない訳では無いけれど、そもそも夜遊びなんてするものではないししなくたっていいものなんだよ、と寂しそうに眉尻を下げられてしまったらファザコンの俺は何も言えなくなってしまったのだった。
だから僕は、夜遊びは父ひとりで楽しむ悪いことだと、知っていたし、違うことも何となく察してはいたけれど言い聞かせてきた。
――それなのに。
それなのに、どうしてリセイは連れていくの?
そんな言葉を、もう何度この静寂の中に溶いたことだろう。最初の1週間は説いても説いても湧き出てくるものだから、無駄にじたばたと暴れてみたものだ。まあ、虚しくなってやめたのだけれど。だってあれ、落ち着いてみるとすごく虚しいんだよ。分かって。
ひと月も経てば、ああそういってらっしゃい、なんて口さがないことを言いつつも見送ることに抵抗はなくなっていた。
ああ、慣れってこわい。
何もないちゃぶ台に目をやって、やっぱり思案に暮れるものではないなと、少しだけ虚しくなった。

「……うん、お茶でも入れよう」

と、独りごちる。
俺は立ち上がって厨へと向かった。

暖かいお茶を飲むと、喉の当たりが一瞬熱に驚いたあとじんわりと広がっていく感覚が良くわかる。その伸縮に心を向けるからこそ、落ち着いて物事を考えることが出来るのではないかと、なんの根拠もないけれど俺は思う。
リセイと言う男について、最近、よく考える。
俺の悪勘定がなければ、彼は魅力的な男性だと思う。モボとも右翼とも違うその言動は好感が持てるものだろう。あのたまに見せるけれん味のある笑顔だって、彼の端正な面立ちに振りかければミステリアスとして女性が黙っていないはすだ。いや、1部の男とて、なにかに目覚めるかもしれない。
そんな彼は、おそらく夜の街では大人気だろうし、父が「描かせてくれないか」と声をかけるよりリセイが「描かせていただけませんか」なんて目線を低くして恭しくお願いする方が成功率は高いだろう。人の内面とか、かくも簡単なものなのだから。
とはいえ、だろうとかきっととかおそらくとかもしかしてとか、憶測の範疇を超えられないのは、面映ゆいことに、そして惜しむらくも俺はその世界を知らないしそんな一面も知らないことだった。この平和で害虫から守ってくれる夏の味方、蚊帳の中でじっとしている俺には、そんなリセイのふしだらっぷりを公に諌めることはできないのである。そんなのは、単なる言いがかりになってしまう。
根拠がないとは言わないけれど、それもまた、言い訳をされたり、あるいは父に鼻薬をかがせて言いくるめたりしていれば、分が悪いのは僕の方なのだ。

「はあ」

そこでふと、俺は何でこんなにも人に対して分析をしているのだろうと、我に返った。たしかに俺を頑なに連れて行きたがらなかった父が二つ返事どころか自分から誘っていたのには有り体に言って嫉妬したものだが、それ以上は生活になんの支障もないただの一書生なのだ。むしろ、弟子を取っては巣立ち、それを見送り、時折裏切りにも似た言葉を浴びせられることもあって弟子を取らなくなっていたあの精神的出不精の父を思い出せば、悪いことなどないはずなのだ。
それじゃあ――それじゃあ何故、俺はこんなにもリセイというたかが一人の人間について考察し考案し思案し思想し想像し想定し定義を決めているのだろう。そんなことに、どうしてこんなにも時間を費やしているのだろう。
そう、考え≠ヘじめたら、また止まらなくて。
やめられない止まらない。
リセイと父≠ェ帰ってくるまであと――


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