セイくん@明治リセイ4
そろそろ蚊帳も役目を果たし、しばしの休息をとる時期である。換気の為に開けた窓からは渇いた風がカーテンを揺らしていた。
そろそろ冬が来るのかもしれない。庭で揺れる紅の残る葉っぱを見つめながら、そんなことを呟いた。
寒いな、なんて。
最近、色々なことを考えるようになった。考えて、考えて、その間は何も手につかない日々を送っている。物思いに耽るには夜寒が過ぎる温度の中でストーブも付けず、夜な夜な目を閉じては開きを繰り返し、俺は思考の渦にぐるぐると流されていた。
文字通りの意味での渦中の人間は、いみじくもリセイで。いや、ここは彼が来てからを鑑みるとすべからくと置き換えるべきか。訂正。
渦中の人間は、すべからくリセイである。
父の夜遊びも、気温と共に頻度が落ち、3日に1回くらいになっていた。三人で囲む食卓も悪いものでは無い。鍋の日は囲炉裏に日をくべて皆で座って食べるのを風情があって良いものだとも思う。今までは2人だったということを重ねると、これは楽しいと言い切ってもいいだろう。
そう、俺はすごく楽しかった。
リセイを、受け入れていた。
父はあの日から常にリセイを家族のように迎え入れ、時には師匠の名に恥じぬ指導(と夜遊び)をしてきたし、リセイもまた、それに倦まず弛まず努力し付いて回っている。俺を交える時は家族として、けれど1歩必ず下がる謙虚さを備え、弟子としている時は真剣に絵と向き合っているのを俺はこの数ヶ月でよく存じていた。
何か彼らにできるわけではないし、俺の踏み込める領域ではないから岡目八目とはいかないけれど、そんな父とリセイの関係を存分にまっとうしてほしいという思いはある。その思いが、なんと、この俺に芽生えていたのだ。びっくりである。誰がって?俺が。
心境の変化というととても陳腐なものに受け取られがちだけれど、そんな凡庸な言葉が当てはまってしまうくらい当たり前の戸惑いを、俺は感じていた。
気がつけば、また窓枠に手をかけたままぼうっと思案に暮れているではないか。木枯らしを呼ぶ風で揺れるシャツが肌を撫ぜるたびにひんやりと時間の経過を教えてくれている。人は思い始めると途端にその神経が過敏になる生き物だ。気の持ちようとは、むべなるかなである。本当はいの一番に感じるべき指先の冷たさが今になってやってきたことにくすりとおかしさがこみ上げてきて、俺は一人、頬の筋肉を緩ませながら窓を閉めた。
「え?今日はリセイさん遅くなるの?」
いざ晩ご飯を拵ようと厨へ向かうと、漬物石を避けている父がいた。突然、漬物石と力比べをしたくなったというわけではないだろう。俺を見るなりバツが悪そうに持ち上げていた漬物石を戻す素振りがそれを物語っている。そして、いつも通り――ここ数ヶ月のいつも通り、ニラを3束掴む俺に、父はそう言えばと間延びした声を上げた。
「あれ?言ってなかったっけ?今日は知り合いと会う約束があるからいらないって話、した気がしたんだけど……」
「それ、いつの話?」
「うーんと、昨日の夕方頃だったかなあ。言ってなかったか!ごめんね!てへ」
「ここまで可愛くないテヘを俺は未だかつて聞いたことがない」
「ひどい」
まあ、一人分なんてさして不満をあげつらうほどの量でもない。父のこういう言った言わないの問答は昔からよくあることで、俺も父ももう慣れてしまっている。どちらかが悪いとか、そういうのは決めず、こうやってなあなあでおどけてみせて、終わるのが通例だ。だから、父も俺も、口調ほど表情は固くない。
「もう。しょうがないな。ちょっと量が増えるけれど、食べきってよね」
しょうがない。その言葉は我が家の魔法の言葉である。
俺の言葉に、父も自分のお腹を叩いて「任せろ!お腹は響くほど空いているよ!」と音を立てて笑ってみせた。
「というか、あの人――リセイさんってこの辺の人なの?知り合いって……そりゃあ数ヶ月もいれば夕食を外で食べるような仲の人もできるかもしれないけれど、そういうの抜きにしても、そのへんの交友関係とか住んでいた地域とか、彼の根底みたいなものって見えてこないんだよね」
「まあ、リセイくん自身あんまり話したがらないからねえ。こうやって晩ご飯をせっせと作りながらからからと話すことでもないのかもね」
「父さんは知ってるの?」
「そりゃあ、大事な息子がいる家で一緒に住むんだから、何処の馬の骨とも分からない人間に敷居を跨がせるわけには行かないよね。第一、弟子にするって決めた日に言った言葉通りだよ。家族としても色んなことを知らなきゃいけないのさ」
「……確かに、何も知らないっていうのは、ありえないよね、うん」
――大事な息子。言われ慣れてる言葉でも、言われる度にむずがゆい。
父は漬物樽からしんなりと味の染み込んだ白菜を取り出して、流しにおいてあったザルの中に入れた。それ今から湯切りに使おうとしてたんだけど、と言うとしょぼくれ謝罪と共にいそいそと食器を出して乗せていた。最初からそうしてくれ。
たった二人分(量は3人分)の食事の用意は思いのほか早く済むもので、少しだけ山になったふろふき大根とか、父が出しすぎた白菜とか、三尾を二つに分けた不格好な鮭とか、並べられたそれらがなんだか物悲しく感じて、急いで腰を下ろす。待ってましたと言わんばかりに先に座っていた父が箸を持つ。
「いただきます」
いつの間に、三人が普通になったんだろう。
自分以外の声が1つしか重ならない挨拶を耳にながしながら、大根に箸を通した。
昆布とかつお節からとったダシは我ながらいい出来で、慣れたものだと舌鼓を弱くうつ。うんうん、味噌ダレも良い塩梅である。
そんな静かな食卓で、箸の音と咀嚼音だけが響く食卓で、俺達はどちらともなく気まずく目を合わせては逸らすを繰り返していた。親子なのだから、気まずさなんて本当はないはずなのだけれど、ここ数ヶ月、もう1人の穏やかで子気味いい盛り上げ役がいたものだから、この凪いだ空気がどうも静かすぎて、久しぶりに顔を合わせた反抗期後の親子のような気分になる。
チラチラとこちらの機嫌を伺う父親に、味噌汁のお椀をくわえながらそんな父親の様子を伺う息子。そしてゆくりなく父親が口を開くのだ。
「最近、楽しいかい?」
そうそう、こんな感じで不器用に――っておいおい。口八丁手八丁で女性を口説いて絵を描いてる夜遊び親父が何を言っているんだ。不器用か!いや、器用な方ではないけれどそうではなく。
俺は味噌汁を下ろして、どうだろう?と続けた。
「とりたてて評ほどでは無いけれど、平和ではあるよ。学校でも特に問題なく、いざこざなく、波風なく、適度な刺激が適切な時にほんの少しだけピリッとやってくる」
「それは、楽しいではないのかい?」
「うーん、そう言われればそうだな。平和って、楽しいってことなのかも。けれど、学校で楽しいことがあっても家に帰るまでには冷静にならないといけないからね。やっぱり終日総じて考えたら平和、これに尽きるよ」
「そうだね、セイくらいの年齢は悩むこともまた当たり前で適切で適正で正しくて平和な証拠だから。けれど、私みたいな枯木から言わせて貰えるならば、セイはもうちょっとはしゃいで悩んで平和なんて!って言うくらいでもいいと思うな」
箸を持つ手が止まる。別に苦言を呈したい訳では無いよ、と漬物に箸を伸ばす父を目で追う。
――ただね。その声はひどく優しい。
「ただ、もっと見据えないで今を生きたっていいと思うんだ。確かにセイの未来は長いよ?私なんかよりずっとずっと長いから先を考えてたら暗いのか明るいのか分からなくなって怖くなってしまうのかもしれないけれど、リセイくんが来た3ヶ月が当たり前になるように、見据えたってゆくりなく変わってしまうことがあるんだからさ、いいんだよ。愚痴とか喧嘩とか不満とか、楽しくないことだって、言えば楽しくなるかもしれないでしょ」
だってセイったら滅多に不平不満を言わないんだもの――と。父は久しぶりに見せるあのちょっと寂しそうな顔で言った。
不平不満は言っているつもりだけれど、確かに、茶化して言うきらいはあるのではないかと俺は鑑みる。さらに思い返せば、学友達が母親がどうのとか国がどうのとか声高に右翼の発言をするのを、俺はただ遠目に見ていただけで、それを否定的に思うことも、賛美して和に入ることもしていない。それは別に嫌われているということとイコールではないが、なるほど、確かに雑誌で読むような一般的な<tレッシュさはないかもしれない。
お行儀が悪いとは存じているものの、うーん、と箸を咥えながら、俺は自分の記憶をぐりぐりと漁った。
不満、不満……。反抗期が過ぎてしまった今では父に対する文句もそんなにないし、仕方がないと諦めている節も多々ある。それを混ぜっ返して改めてイラつけというのもまた難しい話だろうし、そんなことを言ってくるならそれはそれで、それに苛立ちを覚えて言葉を返すだろうけれど、そもそも父はそこまで言うことはないので杞憂だ。
「わざわざ、手間をかけてまで文句を絞り出すとすれば――やっぱり、リセイさんかな」
「おや、そうなのかい?」
「そうも何も、元々俺は人見知りしやすいんだから。それにあの人、完璧って感じだし」
完璧?父がきょとんとその言葉を汲み取った。
「そう、完璧。面立ちは二枚目俳優みたいだし、性格は優しくて、言葉使いも丁寧で気遣いも出来て、家事もできるだなんて、いい人や素敵な人を卓越して、超越して、いっそ不信感を煽るうろんな人に思えてくるよ」
「まあ、たしかに育ちがいいからね、彼は」
「え?そうなの?それなのにこんなところに弟子入り?そうなるとまじで意味わかんない 」
「こんなとこって……まあ、育ちとかそういうのは置いておいてさ、意見を覆すようで申し訳ないけれど、ああ見えてリセイくんって結構ドジなところもあるんだよ?私からしたら完璧なんかじゃあないんじゃないかなって思うなあ」
「知ってる――知ってるよ。だからこそじゃん。どんな巧妙な詐欺師だって、欠点がひとつもない人間を装うならまだまだ半人前なんだよ。どこか抜けてて放っておけない、そんな半人前を演じてこそ1人前なんだって警察だか軍だか知らないお姉さんが言ってた。父さんには申し訳ないけどさ、リセイさんを見ているとたしかにそうだと思ってしまうんだよね。寝ぼけて合わせを逆に着てきたりとか、寝巻きにそのまま袴履いてみたり、洗濯物干すのだってけつまづいて1人で転んでたりするし、猫と遊んでたら木に髪の毛が絡まって身動き取れなくなってたり、そういうの見てるとしょうがないなーなんて思っちゃうんだよ、どうするの?それが全部ハッタリだったら。とんだ1人前だよ」
何をムキになっているんだ俺は。はっと我に返った時にはきょとん顔のまま微動だにしない父とすっかり冷めてしまった夕飯がちゃぶ台に広がっていた。
――はは。
本心とはいえ、せっかく久しぶりに父が弟子入りを許して心を砕いて手塩にかけている人に対して、主観的でへそ曲がりなことを吐き捨てるだなんて、なんて失礼なことをしてしまったのだろう。いくら父とて、親しき中にも礼儀ありである。しかも、他人から聞いた話をまるで自分で学んだかのような賢しらな物言いまでして。
言った後に自己嫌悪というのはいささかどころではなく遅すぎるのだけれど、それでもばつが悪そうに目を泳がせる俺に、父は声を上げて笑った。
ちょっと待って、何がおかしいの?としどろもどろになる俺に目もくれず、父はついに膝を叩いて爆笑しはじめてしまった。
「いやー、嬉しいものだね、弟子と息子がこんなに仲良くなってくれるなんて思っても見なかったよ」
「はあ?今の話聞いてた?!俺は仲良くしてないの!あやしんでるの!!!」
父はくすくすと湧き出る笑いを抑えながら、そうだねそうだね、なんて頷いていて、まともに話を聞いている素振りはない。
まともに話しを聞いてくれそうになるまで放っておくことにして、俺は味噌汁に口をつけた。
「だってさ、セイ」
急に穏やかになった父の声に、箸が止まる。けれど、目を合わせて膝を正して聞くのには、反抗的な抵抗があったので、耳だけをそちらに向けた。
父はそんなことお見通しと言わんばかりに、気にせず続ける。
「私だってそんなリセイくんは知らなかったのに、セイはいっぱい見てるんだもの。つむじ曲がりなことを言いつつも、信用したいから信用できない部分をノミ取り眼で探しては潰してさ、優しいね、セイは」
それってさ――リセイくんのこと大好きってことじゃない。
――は。
汁ばかり飲んでいたものだから、もうほとんどニラだけになってしまった味噌汁が手から滑り落ちる。シャツとズボンと取り皿に入ってた食べ差しの大根にニラがべちゃりと降り注いでしまったけれど、そんなことに意識を向けるほど俺に余裕は無かった。にべもなく反論しようにも、どうしてかこれだ!と思う言い訳が見つからなくて、ただ口をぱくぱくと開いてはしきりに赤くなっていく頬を見ようと目を泳がせることしかできなかった。
1人、ささっと余裕綽々で自分のご飯と取り皿を持ち上げた父を睨め付ける。けれど、投げ返されたのはやんわりとした微笑みで、なんだか煮え切らない思いのまま、そのくせこの場を冗談で切り抜けられるようないなせな台詞も浮かばないまま、俺はいたたまれなくなって立ち上がった。
「ば、ばっかじゃないの!」
とりあえず――このニラの惨状をどうにかしなければならないのだから。
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