テスト。


「さあ――始めようか」
 小さな少女が、美しい緑髪を揺らしてふっと顔を上げる。そうしようね、ね、と先程まで目を落としていたそれ≠ノ笑いかけた。ぱらぱらと捲る度に、世界を閉じ込めたような独特の風が仄かに頬を掠める。
 その匂いは、どこかで何かを懐かしむように濃密に香った。







 びゅうっ――と。一際強い風が鎖骨辺りまで伸びた僕の髪をさらうように駆け抜けていく。春日遅々という言葉の通り、とろりとした微睡みを含んだ空気が春独特の雰囲気を作り出していた。
 全てのものがう薄ら白んで見える、このささやかで微かな短い季節が、僕――神子柴璃央(みこしばりお)は嫌いではない。短い季節に詰め込まれた、そこはかとなく沸き立つ希望や期待、別れの寂寥感を誤魔化すように突きつけられる出会いに、人々は退屈を忘れる。むしろ、その退屈さえもが新しいなにかの前触れであるかのような錯覚を起こすのだ。朝の陽気も、春のせいでいつもよりどこか睡たげに首をもたげている。
 僕はそっと踵を揃えて立ち止まった。靴の音が抜けた空気はそれぞれの家の中から零れてくるこもった生活音だけを奏でていた。
 腕時計の針が指しているのは午前七時を少し右に過ぎたところ。なにかしらの部活動に所属している訳では無いのだけれど、僕は基本、毎日この時間に家を出ている。
 四季折々晴好雨奇。それぞれに魅力があるのだけれど、その中でも朝は格別だ。一日を人生に例えると、朝はまさに産声。目覚まし時計の鐘を止めて、身嗜みを整えてからしっかりと朝ごはんをいただいた後に家を出て、学舎に到着せんとする今の僕はさしずめ六、七歳と言ったところだろうか。(精神年齢ではなく、あくまでも例えである。)
 そんな何もかもが春の訪れに傾き、感覚や感情までもが飲み込まれた四月も残すところあと数日、僕は――僕達は私立麓咲高等学校の三年生を謳歌していた。
「おはよう、リオくん。つかぬ事をお尋ねしたいんだけれど、こんな何も無いところで何を黄昏ているの?」
 風で靡く後ろ髪を手で押さえつけながら散り際の桜に目を向けていると、後ろからころんとした声が僕の肩をつついた。
 振り返るまでもなく、聞きなれたそれにこちらも言葉で微笑みかける。
「おはよう、たるる」
彼女は在許紫和(ありもとしいな)。僕の幼馴染である。幼少の頃からずっと隣にいる、家族みたいな存在だ。へたをすれば家族よりも一緒にいる――というのは言い過ぎかもしれないけれど、そう言えるほど共有した時間が長いのは確かである。
 あだ名はたるる=B何故そんなゆるゆるでぐだぐだそうな、しかもまったくもって名前にちなんでいないあだ名が付いたのかは僕も――そして彼女自身も謎なところだが。けれどもそれがいみじくも馴染んでしまっているのだから、慣れというものはほとほと面白おかしいならぬ面白恐ろしい。
 たしかに、人懐っこい、ふわふわとした可愛らしい容姿はしているとは思うけれど。
 ややあって振り返ると、たるるはにっこりと声と同じように明るい笑顔で僕に笑いかけていた。時間帯はさてもとして、彼女の朝一番はいつもこうだ。快活で、眠気なんて言葉はベットに置いてきたような笑顔と挨拶。
 「早起きは三文の得という有名で高名な諺があるけれど、早起きでいることよりも、笑顔でいることのほうがずっとずっと――三文以上のお得があると思うの!」というのは当時小学四年生だった彼女の名言である。たしかに、せっかく早起きをしたのにずっと眠たくて不機嫌そうな顔をしているよりも、早起きなんてしなくても笑顔でいられるほうが自分も周りも気持ちがいいだろう。今さらながら、むべなるかなだ。
 たるるは皆から可愛いともてはやされる活発な笑顔をふんだんにあしらった顔色で、にこにこと言葉を続けた。
「ね、ね。質問した時に思ったんだけれど、いましがた私が言った言葉なんだけれど、朝なのに黄昏っていうのも中々おかしなものがあるなって思わない?」
「朝の会話第一号がそれ?!」
「いいじゃん、つきあいなさいよ。ね?」
「うーん、まあ、いいけれども。そもそも黄昏るって言葉がまず面白いなと僕は思っていたよ」
「ほへえ、それはまたどうして?」
「黄昏って元は夕暮れの薄暗くて相手が誰だかわからない――誰そ彼は、からきているじゃないか。そもそも動詞ではないわけだろ?」
「確かに。ほら。文字って遊ぶとかの文字ると同じニュアンスなのかしらねー」
「どうなんだろうね」
「じゃあさ! 朝は黄昏ているじゃなくて黎明ってるって言えばいいのかな?」
「いや、無知を指摘するようで、プライドを傷つけてしまうかもしれなくて申し訳ないんだけど、朝方のことは、かたわれ時って言うんだよ。変な言葉を作るな」
「あちゃあ。もうあったのね」
「あとね、たるる。黄昏るっていう言葉は物事が終わりに向かうって意味だから、君が僕に言うべきだった言葉は物思いに耽ける≠ェ正しいと思うのだけれど」
「ま、まじか······じゃあ今までの会話は何だったの」
「そんなことを僕に聞かれても」
「なによう、すげないわね」
この掛け合い漫才のようなやりとりも、もう慣れたものだ。なんてことない会話をひとしきりやり合った後、僕達は揃って散った桜の花びらが敷き詰められて絨毯のようになった通学路を歩く。新学期へと伸びるレッドカーペットならぬサクラカーペットに、何度目かの新鮮な気持ちになった。
「ところでさ、僕の方からもつかぬことを伺いたいのだけれど」
「なあに?」
突然畏まって色を正した僕に、きょとりとたるるもそれに倣った。ぼんやりと眉の浮いた顔は正したと言うにはなんだか間抜けである。けれど僕はそんなことを指摘しようとは思わなかった。さしたる問題ではない。いや――思考回路までもが表情通りであったならば、問題なのだけれども。話が進まなくなってしまうし、進められたとしても、アリもびっくりなレベルの鈍行になることだろう。
 とかなんとか思い合わせたところで、それらは全て杞憂として片付けることになるだろう戯言もいい所である。たるる――在許紫和という人間はそこまで脳みそがつるんつるんではない。学力や成績の話ではなく、彼女は地頭がいいのだ。突拍子もない馬鹿をやらかす事は少なくないけれど。それを加味したとしても、とどのつまり、僕がこれから渡す言葉の意図を、彼女は汲み取れないはずがない。
 そう、一言で表すならば、在許紫和は、聡明な人間である。
「······今日は、やけに早いじゃないか。僕が誘っても余裕を持って寝ていたいとか言って、何がなんでもって気合い入れないと、こんな時間には絶対に起きてこないのに」
何と言うこともなさげにいう。純粋な疑問だった。――いや、少し皮肉を含んだことは認めよう。
 日頃、アイドルのようにいつもにこにこ活発な彼女だが、四六時中ずっと元気溌剌な訳ではない。それはうざい。うざすぎて幼馴染というレッテルをべりべりと剥がしてやる所存である。そんな彼女はとりわけ朝に弱く――弱いと言っても、遅刻することはないのだけれど――僕と違ってわざわざ余計な早起きをしようとしないし、することもない。時間の使い方がとても上手な奴なのだ。
 ――そんな彼女が、だ。
 あくまで褒め言葉として計算高い彼女が、僕がそぞろ歩きを楽しんでいるだけの、まだ人のまばらなこの時間に起きている――どころかこんなところまで登校してきているだなんて。彼女が務めている生徒会長という役職を鑑みても、学校祭や議会前でもない今日この時間にたるるがここにいる理由が僕には明瞭には汲み取れなかった――何かがあったのだろうということは不明瞭には分かるのだけれど。
「······」
 返答が返ってこないまま、たるるが靴を鳴らして足を止めた。どうやら言い淀んでいるらしい。
「言いにくいのなら、無理に聞こうなんて思ってないよ。言い難いこととか、僕が関わってきてほしくないコミュニティが君の人間関係にあるというのも、至極真っ当なことだからね。ただ、話したいけどそれが今ではないっていうだけなら――言葉が上手く見つからないだけなら、僕は気長に待ってあげてもいいよ」
こちらがそう申し出てはしたものの、たるるはそうじゃあないんだけどねえ、と間延びした声で言い淀んだ。うん、ううん、と顎に手を当てて唸る彼女を黙って待つ。少し俯いたせいで腰まであるウェーブがかった髪が頬を隠している。つんと形のいい鼻先と、ケアを怠らない血色のいい唇が見えるだけで、その表情は窺えないけれど、言い出し口を探していることは察するに難くない。
 黙って待つこと、一分――いや、もしかしたら三十秒ほどかもしれないが(人は手持ち無沙汰で待つ時間ほど長く感じる生き物である)。ひとしきり第一声を考えあぐねたらしいたるるが、ぱっとスイッチを切り替えるように顔を上げた。そこには先程までの暗い色はない。光の加減と言われればそれまでのことなのだけれど、頬が、睫毛が、鼻先が明るんだのは確かである。
「待っててあげる、だなんてうざい一言を取り沙汰して文句の一つでもくべてあげようかと思ったけれど、まあ、いいわ。スルーしてあげる」
一歩先で振り返り立ち止まっていた僕の横に、たるるはそう言って跳ねるように並んだ。そのまま歩き出した後ろを、今度は僕が追う。並んだ横顔は、足取りとは裏腹に軽やかそうなものではなかった。僕の気遣いからくる言葉をうざいと一蹴したことへの罪悪感からくるものではないことは分かる。彼女はそういう奴だ。僕はさして気にすることもなく、歩き出す。僕の横に、今度はちゃんと並んで歩き出したたるるを流し見て、誰もいない通学路を視界に映した。そのまま、まるで今日の朝ご飯は?と聞くかのようなトーンで問いかける。
「スルーしてくれるなら、聞き出してしまおうかな。悩んでるのは生徒会長としてのお務め?」
「んー、そんなところかなあ」
「なんだよ、聞いてもいいって言ったくせに随分と言葉を濁すじゃないか」
「濁すべきことだし、本当は言わない方がいいんだった分かっていても、聞いてくれるなら言いたくなっちゃうものもあるのよ。吐き出したいけど、うーん、なんかなあ、ってなるの」
「なにそれ······」
もごもごと口先で言葉をたごませる様に、これは深刻そうだな、なんてわざとらしく肩をすくませる。間髪いれず「その仕草はうざい。それだけは言いたい」と真顔で言われて、何だよ大丈夫そうじゃないか、と返してしまいそうになった。すんでのところで咀嚼して喉の奥に追いやる。軽口を叩いて誤魔化して茶化して平然を装いたいと思うほどの、彼女なりの、やむにやまれぬよんどころない事情があるのだろう。それを汲み取るだけのすべてを、生憎と僕は持ち合わせていなかった。ほとんど目線の変わらない隣でぶちくされている言葉の端々に耳をそばだてながら、落ちかけたスクールバックの肩紐を直して、大粒の雨みたいな桜の花がらが、細かく視界で揺れるのを目で追う。またひとつ、花弁がアスファルトに臥した。
 その時だった。
「······今年の――いや、今月かな。今月に入ってから行方不明者が相次いでいるのはご存知のことよね?」
「ん? ――ああ、あれか。僕のクラスの子も一人隠れちゃったからね。記憶に新しいよ」
「まだ死んでないわよやめてよ不謹慎が過ぎる。隠れちゃってはいるけれどもそうじゃなくてね」
「え? そういうつもりは毛先程もなかったんだけどな。ごめんごめん。そうじゃあないことは百も承知さ。茶化してみただけなんだけど、誤解を招いたなら謝るよ。それで? 行方不明者が出ることによって、君が早起きをして泣きそうな顔をしながら努めなけばならない何かがあるっていうのかい?」
「別に泣きそうな顔なんてしてないもん! それにね、私がしなければならないことなんてほんの僅かでしかないの、でも私にしかできないことがあるから、こうしてらしくもないことをしているのよ。生徒会長として、私らしくあるために、普段しないようならしくないことをしているんだもの、そして、その繕った努力が報われている兆候もないんだから、嫌になっちゃう。日増しに目覚めが悪くなるのをひしひしと感じるわ······」
「······えも言われぬ有様だね」
はあ。僕が出だしに風呂敷を広げて語った魅力的な春の景色に似つかわしくないため息が、春めかしい魅力を持つ髪色の彼女から長く溢れた。
 先ほど「今日は随分と」、と言ったけれど、訂正する必要がありそうだ。たるるは「今日も」早起きをして、「今日も」も気が塞ぐ思いで何かとにらめっこをするのだろう。去年の晩秋に生徒会長から引継ぎをうけてからというもの、呆れるほど彼女の学生生活は忙しなかった。何事にも快活で中途半端に休むことを好まない――休むことが嫌いなわけでなく、休むとなったらとことん何もしない――彼女に無理をするなと釘を刺し続けて数ヶ月。反動の如く本当に何もせずにだらだらと過ごした春休みを経て、それが落ち着いたかと息をついた矢先にこれだ。この学校は、たるるに休息を与えるつもりがないらしい。その皺寄せを請け負う僕の気持ちにもなっていただきたい――と言いたいところだけれど、推薦されて一方的に任された会長の任を身を粉にして責め果たしている彼女を前に、僕の気苦労なんて取るに足らないこと甚だしいのだから、今は何も言うまい。
 たるるの長すぎないまつ毛が伏せられた目を翳らせている。ため息をついたまま、黙ってしまったたるるに仕方がない奴だと笑いかけると、何よ、とけんもほろろな答えが投げつけられた。ぷいっと顔を逸らしてしまったたるるに、どうやら僕の優しさをお気に召していただけたようでなによりだと口角を上げる。反応おかしいだなんて野暮で無粋なことは思わない。何、たるるは俗に言うツンデレでなのある。
 だから僕はもう一度、先程の笑みに重ねてにっこりと笑ってやった。
「たるる、まだ言いたいことがあるなら言ってごらんよ。幼馴染だろ? 君のためなら僕の労力は無尽蔵さ」
「けっ! 鼻を劈くようなくっさい台詞ねって罵倒してさしあげてもいいけど、やめておいてあげるわありがたく思いなさいよ感謝してあげるんだから調子乗んなよバーカ! 長髪野郎!! あーやだやだ! 普通にそういうこと口から出るの本当にもう心臓が持たないわ無理!」
「長髪は君もじゃん! つうか僕のはミディアムボブだ! ······って、うん? え? どっち?」
私は何にも気にしてませーん! 今日も強気に元気! とどこかの聖女の名前をした怪盗の決め台詞を叫びながら、たるるは生徒玄関のドアの向こうに走り去っていってしまった。······陸上部も脱帽する速さで。取り残された僕も、のったりと校門をくぐる。
「たるるの百メートルのタイムって何秒だったっけな」
別に競って追いつこうなどという向上心は、今は持ち合わせていないけれど。そんなことを思いながら生徒玄関の上で僕らを見下ろす大きな時計は――
 時刻は――七時と半分を回ろうとしていた。

■■■

 さようならのチャイムが人の間をかいくぐる。放課後の廊下はいつもごちゃごちゃと賑やかだ。
 他のクラスから友達を迎えに来ている者、先生に呼び止められている者、話が盛り上がって足が止まっている者。いましがた教室にいた生徒たちは我先にと細長い廊下に押しこまれていく。マンモス校ではないにしろ、それなりの人数が在籍しているこの学校で、いっせいに廊下にでれば、混雑することは火を見るより明らかだろう。それが、風情があって好きだと言う人にはそれでいいのかもしれないけれど。あとは、肩と肩がぶつかろうがどうでもいいような――人の横を通る度に「ちょっとごめんね、通してね」と断りを入れなければならないシチュエーションが気にならない人、苦に感じない人もいいのかもしれないけれど。僕はというと、きっちりとチャックの閉まった鞄を机に置いたまま、椅子に座り直していた。忌避の為に努力をする程ではないにしろ、そういう人間同士の面倒ごとの種は、撒くのも摘むのも避けたい派なのである。
 もう少し人気がなくなってからにしようかな――と、廊下を横目で流し見る。僕は、前述の通り、どうしてもという訳ではないのなら、できる限り人やものでごった返している場所には近づかないタイプである。夏祭りのように賑やかであることが風情となる例外もあるにはあるけれど(あれはたまに行くから許せるのであって、毎日お祭り騒ぎとなれば話は別だ)。
 ――今日はそれだけじゃないんだけど。
 さて。いつも通り暇ができてしまった。何ということもなく、ぼんやりと教室を見渡す。いつもは40人以上が窮屈に詰め込まれているこの室内も、今はそれが10人にも満たないが故に役不足さが否めない。あまつさえ廊下より広いのだから、ますますがらんどうに見える。寂寥感すら漂うそれも、風情と十把一絡げにしてしまえばその通りなのだが。
 ――ぐるりと見回したところで、いやがうえにも長身が目に止まる。そいつは、色素の薄い柔らかそうな御髪を片方だけ耳にかけていて、美少女と持て囃されるたるる達(僭越ながら僕を含めて)を見慣れている僕ですら目を見張るほど整った顔の配置とパーツの形をしている。それは造形美という言葉を使って賞賛してもいいくらいで、魅力的というにはどこか個性に欠けていた。非の打ち所がない美しさというのは、ほう······と息を吐いてしまいそうな染み渡るものこそあれど、ひどくつまらない――印象に残らないものなんだな、と思った。それくらい、そいつの外見は美しかった。明らかにインドアそうな白い肌も、この季節に懈たって薄れて消えてしまいそうだ。
 そいつ――そのイケメン――は転校生の八八花むつな(ややばなむつな)と言う、とあるボードゲームのスキル表示をお借りするならばAPP18という恐ろしい数値をたたき出すのだろう、男子生徒≠ナある。色素の薄い短髪と、さらに白くてさらさらの肌――本当にその下に血管が通っているのか疑うほどである――を持つ八八花君の、やんわりと伏せられた目は、睫毛に隠れてその虹彩は伺えねどもつやりと澄んでいることは想像に難くない。モナリザもまじかよと頬を引くつかせるレベルだ。
 新学期と同時に転入してきたことが幸をなしたのか、珍しがって教室の外やら机の周りやらに人間サークルができることはなかったけれど、しかしそれは、同時に彼にとって出会いが絶たれたということでもあった。とどのつまり、これだけ人気者になりそうなみてくれをしているにも拘わらず、八八花君にはそれらしい友人ができていないのだ。
 美人は一定のレベルを超えると近寄り難いオーラがあると仄聞したことがあるし、むべなるかなではあるのだけれど、彼の場合はそれだけではないと思う。言い訳として使うには、少々、役不足である。
 話しかけられなかったわけではない。むしろ、このクラスは友好的かつ社交的な性格の持ち主が多いと思う。自慢じゃないが、僕を含めて。しかしながら、繰り返すようだが、八八花君が休み時間を共に過ごすような友達といるところを惜しむらくも目にしたことがないし、僕がそうであるわけでもなかった。
 何故そんなことが断言できるのかと問われれば、答えば明白である。僕の席が――八八花君の隣だからだ。何の推理もいらない、簡単な答え合わせ。読み切り漫画だってもう少し考える余地を与えてくれるだろう。事実は小説よりも奇なり? 笑わせんな。
「······あの、えっと、何でしょうか······?」
 じっと何の熱意のない視線に耐えられなくなった八八花君がおずおずと首を傾げてこちらを向いた。やっぱり、長いまつ毛に縁取られたその虹彩はつややかで、網膜にライト機能でも搭載されているんじゃないかと巫山戯たことを考える。「ううん、なんでもないよ」とにっこり愛想のいい笑みを貼り付けて視線をは外す。八八花君は怪訝そうに、けれども気弱そうに苦笑いを浮かべて「そ、そう?」とそれ以上突っ込んでは来なかった。
 最高学年の、しかも生徒会長様であるたるるは、今年度に入ってからというもの生徒会室で昼食を摂っている。生徒会室は僕みたいな一般の生徒は足を踏み入れ難い場所だ。だからといって今更違う男子グループに飛び入り参加しても、話やノリについていけずに空気を壊してしまうだろう。だからここ最近は一人寂しくこの教室で昼食を摂っているのだ。時折、話しかけられて数人の寄せ集め集団で机を合わせたりもするけれど、そんなのは数えるほどしかないので割愛する。
 じゃあ隣の寂しい転校生でも誘って仲を深めたらいいじゃん――と思うかもしれない。僕だって最初は思った。けれど、彼のコミュニケーション能力は以下の通りである。
「か、帰らないの······? あっえっと、そうじゃなくて······帰って欲しいとかそういうんじゃあないんだけれど、えっと、その······ごめんなさい······」
「そんな吃らなくたって掴みかかったりしないよ。僕は善良で幸福な生徒ですよっ――と。で、まあ、質問に答えるとね、人を待っているんだ、幼馴染なんだけど、僕よりも忙しい子なんだよ。だからもう少ししたらお暇するつもり。そういう八八花君は?」
「えっ、お、おれ?」
「そう、君」
「おれも、もう少しやることがあるから、その······まだ帰らない、かな」
「そっか、やることって何か聞いてもいい?」
「えっと、うん、いや······ははは、そういう訳です、うん」
いやどういう訳だよ? 台詞の情報量が少なすぎるだろ。
 会話というものは――対話というものは、軽ければ軽いほど、テンポと口ぶりが大切である。どれだけ丁寧な物言いをしたとしても、他人に伝わる時のニュアンス(という名のアレンジ)は決められない。そニュアンス伝言ゲームに一番響くのは、会話のテンポであると、僕は思うのだ。まあ、のべつ幕無しに持論を並べ立てたが、それを誰かに押し付けるつもりは毛頭ないのだけれど。たとえ目の前にいるのが――すべてのテンポを崩してくる会話音痴だとしてもだ。僕は優しくて聡明なのだ。僕が気を付けていることを、他人が重要視しているわけではないことも、ちゃんと分かっている。なんちゃって。
 僕っていい子!――と、自分に言い聞かせながら、こちらから相手が答えやすい質問を渡して、どうしてそこで噛むんだよと後頭部を殴打したくなるほどしどろもどろになる彼の言葉を気長に紳士に待つ。
 こんなに会話が続かせることが出来るなんて、僕って実はすごく知識人で慈愛に満ちていて、いい人なんじゃないかと本気で思ってしまうほど時計が進んだ時、元気いっぱいの声ががらんどうなこの室内に飛んで入ってきた。
 言わずもがな、撫子色の髪を背に靡かせた彼女――たるるである。
「呼んだ? 呼んだよね! 呼、ん、だ、よ、ね!」
「なんでノリがお風呂大好きな牛さん風なんだよ。真面目に返すとしたら呼んではいないよ。待ってはいたけれど」
「知ってるってばよ! ······ってあれ?」
無駄にいなせな物言いで親指を立てたかと思うと、ぽとりと視線ごと言葉尻をすぼめた。かたや僕の隣を見遣ったまま、かたやチワワのように小刻みに震えながら、双方が首を傾げている。大型犬なんて目じゃないほどの長身である八八花君に対してチワワとは我ながらこれ如何に。
「たしか、このおっきい少年は転校生くんだよね?名前は確か、八八花むつな君――だっけ。リオくん隣の席だったんだ?」
「まあね」
「なるほど、リオくんの矮小さが顕著に伺える配置ですなあ」
「僕はこの中性的な身長で満足しているからいいんだよ。というか、テンションを考えてくれる?僕は慣れているからなんとも思わないけど、八八花君が着いていけていないだろ」
「んん?おお、それはそれは不調法なばかりに失礼しましたあ。リオ君を視界に入れたら一回はこういうのを挟まないとって思っちゃうのよね。発作みたいなものよ」
「人をアレルギー物質みたいに言わないでくれないかな」
「あ、そのっ、おれは、気にしてない、から」
 たるるの動きがゆくりなくぎこちなくなった。伊達に幼馴染を十七年もやっていない。彼女と僕は根本的な常識や感覚が似通っているきらいがある。つまるところ、先程の僕の持論は彼女の持論の一つでもあるのだ。
 ――分かるよ、その気持ちはおおいに分かるけれども、今は抑えるんだ。ハイテンションでビビらせたたるるにも原因があるのだから。
 そんな心の内を酌みとってくれたらしい。膨らんだ力を萎ませるようにひとつ、大きくため息をついて、たるるは八八花君に向き直った。その顔色は笑みで染められている。さすがアイドル気質だ。テレビにでている芸能人よりもずっとずっと貼り付けたほうの感情が読み取りやすい。笑み以外の感情の霊圧が消えいる――なんて。読み取ってほしい感情が読み取りやすすぎて八八花君がビビっているじゃないか。
「そう?気にしていないのならこちらも気にしないわね。改めまして、私は在許紫和。麓咲高校の生徒会長様だよ! この学校を牛耳っているの!」
「ええっ!?」
「えっ鵜呑みにしたの? そんなわけないだろ······」
「そう、なの? 在許さん、すごく仕切るの上手そうだし、似合ってると、思う、ます。え、えっと、変なこと言ってたらどうしよう······何の刑に処されてしまうんだ······?!」
「落ち着いて、色々ダダ漏れてる。全部声に出てるから。同級生に対して変なこと言わないようにしようっていう意気込みが既に変なことだって気づいて。それに、たるるは人畜無害でこそないけれど、凶暴ではないから安心していいよ。ほら、深呼吸して」
「う、うん。ふー······」
あからさまに撫で下ろされた胸をさする八八花君に苦笑いが漏れた。ごめん、慰めておいてとても申し訳ないのだけれど、ジャイアニズムを地で行く彼女の程度を弁えたギリギリの悪ふざけ≠僕は止められない。合掌。ご愁傷さま。死にはしないから安心してくれ。と、悪ぶった顔をしているたるるから目を逸らす。あーあ――この顔は、相手がビビり上がるだろうことを思い合わせたうえでの確信的な台詞を完璧に演じきった時の、さらに観客≠フ反応が予想通りだった時のそれだ。
 気がつけばチャイムが鳴る時刻になっていたらしい。廊下に敷き詰められていた人も、見渡せばまばらに減っていた。このくらいなら、下駄箱でたむろっている輩に気を配らなくてもよさそうだ。間延びした低い和音のチャイムにつられて黒板の上にある掛け時計を見上げる。四時二十五分――いい時間だ。
「じゃあ、そろそろ帰ろうか」
「ええー、もうちょっとだけこのビビりまんをいじり倒したい!」
「ひ、ひい······! ご勘弁を······!」
「いつの間にかよく分からない打ち解け方をしている、だと?」
「性格上、そして関係――肩書き上、なるべくしてなった結果だと思うのだけれど」
「いやいや、成り果てたというべきじゃないか?」
「成り、果てた、結果······仲良くなったわけじゃあ······なかった······?」
「え? 本当に? 本当に仲良くなった結果がこれなの? 思い直すべきだとかきくどきたいよ僕は。もっとまともな友人関係を君は知るべきだよ」
「ちょっと待ってよ。それは私がまともではないと言いたいわけ?」
「むべなるかなだね。わざわざ言葉を選ぶのも甚だしいよ」
「食らえ! コークスクリュー!」
「いってぇ!!!」
 ――殴られた。くっ······いいパンチ、もってんじゃねえか。
綺麗に圧迫された鳩尾を抱えて蹲る。言い喩える言葉を選ぶうんぬん以前に言葉が出ない。痛い。純然たる痛みである。
 たるるはそんな僕を鼻で笑うと八八花君に「そろそろかえるね」と笑みを振り撒いた。せっかく僕の知りえぬ友情が芽生えていたらしいというのに、隣の――今は体勢からして斜め上の彼は、僕にめり込んだ迷いなきコークスクリューに、か細く切るような悲鳴をあげてこれでもかというほど体をちじこませてしまっている。ファンブル、振り出しに戻る、といったところか。朗らかで理想的な友情の芽を育むには、どうやら土が合わないらしい。
 僕とたるるの関係が理想的かと言われたらそれもまた違うので、ようは苦ではない関係がだらだらと続くなら何だっていいのだろうし、それが理想的と言うことなのかもしれないけれど。と、いうことを踏まえても、やっぱりたるると八八花君の相性がそんなにいいとは思えなかった。今の時点では。
「私たちはそろそろお暇するけど、八八花君はどうするの?」
「ごめんなさ、ああいや、そ、そうなんだ。えっと、ね、神子柴くん······」
「今、反射で謝ろうとしなかった? ねって言われても、僕は君の用事を知らないから助け舟を浮かべることすらできないよ」
「し、してない! あっその、そうだった、ごめんね、おれは、えっと、これからまだ、用事があるから······」
「そう、残念だわ。とっても後ろ髪を引かれる思いだけれど、じゃあね!」
まったく残念そうな様子は伺えない声色で、言うが早いか、たるるは踵を返して教室のドアへと歩いていく。半開きだったそれに手をかけて、「じゃあね、じゃなくてこう言うべきだったわ――またね」と振り返った。ひらひらと手を振るさまは、まるでアニメのヒロインのように型にはまっていて、ついつい眉尻を下げた笑みがついて出た。だから彼女は憎めない。そんな自由気侭な一挙一動に意識を向けていた曖河君が、おそるそる机の下に隠れていた手をあげる。やっぱり挙動不審なまでにおどおどとしてはいるものの、ぎこちない笑みで手を振り返してきた。あまつさえ、ばいばい、なんて身丈に見合わない挨拶を選んで。(顔は似合っているというところが、筆舌に尽くし難いとことである。)
 どうやら、胸襟を開きかけているというのはたるるの独りよがりな主張じゃあなかったらしい。
「うん! ばいばーい!」
「また明日ね」
「う、うん。また――よろしくね」
気弱そうに伏せられていた視線がやっと繋がった。それに満足感をひしひしと感じながら、僕達はその視線を解いて廊下のざわつきに身をすべらせた。

■■■

 校門を出ると、地平線に暮れなずむ夕映えが赤く目に飛び込んできた。
 薄紙を剥ぐように、日増しに太陽が顔を出している時間が長くなってきている。この分だと、もうじき桜の花明りも見れなくなることだろう。春はすべてのものがめまぐるしく移ろっていく。せわしなく、けれどその先の幸先へ手をひくように。
 慣れ親しんだ声に適当に返事をしながら、隣を歩くたるるを見つめる。今朝の早起きなんてなんのその、あの暗い表情や雰囲気が夢だったんじゃないかと思うほど元気溌剌、いつもの通り、賢しらに止まるところも進むところも程度の分かっているまっすぐさ≠セ。そんな彼女は、そのフットワークの軽さで今日も八面六臂の大活躍をしたらしい。楽しそうに跳ねる語尾に、それとなくいいタイミングで「そうだね、君は凄いからねえ」と相槌を打つ(断じて聞き流してなどいない。いないったらいない)。
 ――よくそのテンションが夕方まで保てるものだ。疲れないのだろうか。話を聞いているだけで僕は疲れてきた。昼休みの生徒会室に三連続でなだれ込んできたサッカー部、吹奏楽部、文芸部のごたごた≠それはそれは素早く的確に適正に適当に解決したらしい。――ふうん、そっかそっかそれはたまげたね、と変わらぬトーンで切り返す。とくに部活動に所属していない僕と麓咲高校の生徒会長≠ナある彼女とでは、話題の量が違う。圧倒的に僕が聞き役に回ることが多いのは、それを鑑みればせんかたないことだし、たるるが楽しそうしているのは嫌いじゃないので――というか結構好き――なので、さしてドラマ性のない僕なんかの話をしなくたって苦言はないのだけれど、たるるは気にするみたいで、たまに御機嫌を伺うように背を屈めて低く見上げてくる。その視線に答えて、「今日の弁当はなんとキャラ弁だったんだよ――まあ、うちの母さんの画力覚えてるだろう?小さい時にさ、アンパンマンを書いてってせがんだら、隕石みたいなものを見せてきたあれね。そう――そういうことだよ」と僕のしがない話をして、それにたるるがひねりの効いた半畳を入れる――それを、いつも通り繰り返していた。
 それは善くも悪くもいつも通りで。
 今朝の――ここ最近の――重たい事件を省みると、気が咎めるほどいつも通りだった。
ほんの少しだけ遅い時間。思いのほか長くなってしまったね、そうだね、なんて言っていても、僕達の間には満更でもない空気が流れている。どちらもわざわざ口にはしないけれど、この何てことない時間や会話を――大事に大事に崩さないように踏み込まないようにしているこの無価値な時間が大好きなのだ。大好きで――安心する。
 これも春にめかしこまれて絆された、毎年の、ちょっとだけセンチメンタルないつも通り≠セった。
 ――いや、おセンチになっているのは僕だけかもしれない。
 たるるは目をぱっときらめかせて「あ!」とそれはそれは楽しそうに声をあげた。虫見つけた!とはしゃぐ子供みたいだと思ったのは、言い得て妙だろうか。
「これぞまさに黄昏!」
「その話は一過性のものじゃあなかったの? 朝の戯言をいつまでひっぱるのさ······」
「一過性のもだよう。一過性だからって、一度しか訪れないわけじゃないだけで。台風一過も、何号目だとかエリザベスだかカトリーンだとか、個体の名前はどうでもいいとして台風≠ニいうものが一過≠キるっていう事象は何度だって起こるじゃない。会話だって然りでしょう?」
「またさかしらなことを······」
「さかしらでもとさかでも結構コケコッコーよ。ね、今こそ黄昏時でしょう?」
――と。
 たるるは夕日を指差して、きらきらときらめいた目のまま僕に詰め寄ってきた。そ、そうだね――と気圧されながら答える。細かく言えば、今の時間は辞書に載っている描写よりも若干陽が高いのだけれど、まあ、とりたててあげつらうことでもあるまい。
 ――なんて言いながら――思いながら――歩く。
 僕達が生まれてからずっと慣れ親しんでいる道を親しい幼馴染と慣れた足取りで歩いていく。
 ごくごくありふれた、一般的なしたもやの細い十字路。角から三軒奥の赤い屋根の舶来風の一軒家は、こぢんまりと近代的な大量生産型の住宅と肩を並べている(馴染んでいるわけではない)。番犬らしく誰彼かまわず太く吠えることに定評のあるゴールデンレトリバー(ジョセ太郎、六歳)は、人通りがないからか、夕餉の時間だからなのか、今はおとなしくしているようだ。首輪に付いているチェーンの音すら聞こえない。
 時刻は十七時から少し頭をたれたところ。太陽が目をこすりながら今か今かと地平線に潜る準備をしている時間。夜が顔を出すのに比例して、ぽつらぽつらと街灯が点滅していく。もう幾分もなく、たるるの思い描く黄昏時が過ぎて等間隔に丸く灯りが道路を照らすことだろう。
 僕は気を向ける度に紺色に塗られていく空を見上げた。新学期に新調した赤いスニーカーはいささか歩きにくい。身に馴染むまでの辛抱だとアスファルトを叩いてつま先を整えながら、そういえば、と斜め前で髪の毛を指で弄っていたたるるの顔を覗き込んだ。さっきはあんなに嬉々として、爛々としていたのに、もう時間の描写にも、叙情的な心理描写にも興味が失せたようである。相変わらず気分屋だ。
 突然だか、僕の身長は百六十七センチである。そして、たるるの身長は百六十四センチである。なので、同い年(の女子)を相手取った場合、極端な身長差が出ない。そこまで屈まなくても――どころが少し首をかしげれば覗き込めてしまうだ。
 つまり、たるるに対して狙ってこういう仕草をしたわけではない。僕とたるるの身長差が三センチなので致し方ないだろう。
 ――言い訳じゃないって。違うから。僕が低いんじゃないから。僕が低くてたるるが高いんだってば。
「何? 僕って小さいでしょーって言いたいの? それなら安心して、そんな必要ないよ、そんなことしなくてもリオくんの小ささは水際立ってるから――色々と」
「どういう意味だコラ。なんで見上げただけでそこまで言われなきゃいけないのさ。違うよ」
「なあんだ。まあでも――リオくんはその身長の小ささも含めて憎からず思われているのだからいいじゃない······閻魔様早くこいつの名前をその帳簿に書いてくださらないかしら」
「ちょっとやめて? 丁寧かつストレートに人の死を願わないでくれる? ただ僕の僕なりの、もしかしたら与太話じゃんって言われるかもしれないけど重要な話をだな――······」
「ああもううるさい! いちいち反応がかまびすしいこと! お前は一昔前のお笑い芸人か!」
――それは君じゃん。
「アンタっていっつもそう! そんなしおらしい顔をするなら四六時中近くにいたらいいじゃん。生徒会だって、入ればよかったのに! ばーか! ちーび! ロン毛!」
「ロン毛は君もじゃん! つうか僕のはミディアムボブだ! ――ってあれ? このくだり、前にもやらなかった?」
「というかさ、というか――そんなに私って頼りないかなあ······」
 どうやら、僕がたるるを心配しすぎる節があることを、彼女は存分に見抜いていたらしい。まあ、僕自身も隠す気がないのでしまった!とは思わないが。憤懣を地団駄で表現していたかと思うと、たるるはたなごろをかえしたようにしおしおと下ろした足でアスファルトを弄り出した。たるるが足をずらす度に、じゃりじゃりと音がする。
 僕は彼女とのやりとりで投げ付けられる罵倒をそこまで間に受けているわけじゃあない。むしろ微笑ましいとすら感じる。何故ならば、在許紫和という人間は気配りをされると過剰に照れるきらいがあるからだ。けんもほろろな返答をしたかと思うと、こうやって「照れ隠しですよ」と言葉の端々で口を滑らせたり、大人になれない自立心を掲げて「私を甲斐甲斐しく子供扱いしないで!」と愚図ってみせたりするのだから、ついつい年相応に怒ってやる気にならないのだ。故に、ツッコミ以外の説教でそれをかきくどくことができない。まったくほとほと、なんとやらである。
 そんなたるるの葛藤と甘え≠見て見ぬふりをして、僕は「あのさ――」と爪の伸びかけた指先で彼女の下瞼を指した。
「――クマ、できてるよ。頼ってよ、君が頼りないんじゃなくて、頼られてる君が僕を頼って欲しいんだよ。それは、僕が同じフィールド――生徒会にいてしまったら出来ない事だと思わない? 僕は会長にはなれない≠だから。朝に言ったとおり、君が何かを抱えていて、それがあまりによんどころがない事情じゃあない限り、僕は力になりたいんだよ。僕らは産まれる前から一緒で、双子みたいなものなんだからさ、一人で倒れられたら困るんだよ」
「むう。じゃ、じゃあ――死なばもろともってことでひとつ」
「はあ? 人の話聞いてた? 耳ついてる?!」
 照れ隠しだとか、そういう言葉を免罪符に情状酌量を与えていたのが間違いだったのか。それとも、それは――その酌量というのは僕に対してのもので、僕がそう思うことで意地っ張りな彼女を許してあげようとしていたのか。何だかんだ言って、素直じゃないんだからと言って僕の心配や心労を――そして何よりも彼女のSOSをドブに捨てていたのは、僕だったのかもしれない。
 だからこれは。
 これは、たるるにぶつけて、僕に跳ねっ返ってくるもの。
「······こんっの、唐変木! そんなに一人で抱えこみたいのか? それなら僕に勘づかれないようにしろよ! 目に止まったら心配するに決まってるじゃん!! 隠せないなら隠すな、スルー出来ないなら、ちゃんと真正面からぶつけないと伝わらないんだよ······」
 ごめん、最後の台詞は僕に対してだ。とは、言わないけれど。言ってあげないけれど。
 たるるはびくりと肩を強ばらせて、見開いていた目をゆらゆらと彷徨わせながら、僕から視線を外した。
「別に、わざと分かりやすくしているわけじゃないわ。でも、ぐう……」
「ぐうの音は出るってか? 今は言葉遊びをするシチュエーションでもないだろ」
「違うって! ぐうの音しかでないの! もう! わかったわよ! 包み隠さず話すわよ! そのかわり、もう怒らないでよね」
いきったりたなごろを返したようにしおらしくしたり、忙しい奴だ。人のことは言えないけれど。
 怒らないってば。そう言って自分とあまり変わらない高さにある頭を撫でる。そして叩き落とされる前にその手を引っ込めた。
「えっとね、」
どこから話したものか、と十字路を渡りながら唸るたるると僕のすぐ後ろをトラックが横切る。あまり広くないこの道を通るにはいささか大きすぎるそれに、咄嗟に思案に暮れているたるるの手を引いた。
 ――その折りしも。
 たるるの後ろにある世界が――変わった。



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