(最近会わないなあ)
女郎蜘蛛のことである。
おおもり山の登山道を大分歩いて、名前は滝のある吊り橋の近くまで来ていた。
「え?」
ぼんやりと流れ落ちる滝を眺めていると、一瞬黒い影のようなものが横切った気がした。
気のせいかもしれない。
が、なんとなく不安になって、名前は道を引き返そうとした。
「っ、きゃっ――」
ぐん、と突然強い力に引っ張られるような感覚。
目を開けると、目の前には流れ落ちていく滝。
それは変わらないのに、その風景は先ほどまでの表からではなく、裏からの景色。
滝の裏の洞窟のような場所に名前はいた。
「なんで……」
混乱と恐怖で体が震える。
と、目の端に黒い影のようなものが映って、体が固まる。
それはゆっくりと近づいてきて、のそり、のそりと名前に覆いかぶさっていく。
「ひ、や……」
声もうまく出せず、影に押し倒された名前は震える手でなんとか影を押し返そうとする。
「っ、痛……」
ひゅっと風を切る音がして、肌からじわりと血がにじむ。
大した傷ではないはずなのに、切られたという事実にさらに恐怖が増す。
「――殺すぞ」
地を這うような低い声が聞こえた。
影が名前の上からさっと逃げるようにいなくなった。
と、その方向に向かって大きな岩が次々に落ちていく。
土煙で何も見えないが、影の気配はもうないように思えた。
「名前、」
「あ……」
女郎蜘蛛だった。
名前に駆け寄ると、苦しげな表情で言った。
「怪我させちゃったわね。これは――」
女郎蜘蛛が険しい顔になる。
「応急処置だけど……」
「いっ……」
女郎蜘蛛は傷口に唇を寄せて血を吸い出すと、すぐにそれを吐き出した。
痛みに顔を歪める名前を見て、女郎蜘蛛はまた苦しそうな顔をした。
「……毒だわ。ここじゃ手当てできない」
そう言って、女郎蜘蛛は名前を抱き上げる。
「大丈夫。私に解毒できない毒はないのよ」
安心させるように女郎蜘蛛が笑いかけた。


「ーー大将」
「なんだ」
すっと襖が開く。
「あの、申し上げにくいのですが……」
オロチが言いにくそうに視線を彷徨わせるのを見て、土蜘蛛は言った。
「女郎蜘蛛だろう」
「はい。屋敷に人間がいるということで、他のものたちが浮ついているのですが」
「人払いだけしておいてやれ」
「はっ」
そう言って、オロチは下がった。
「ふう……」
書き物を止めて、土蜘蛛は顔を上げた。
屋敷に駆け込んできたときの女郎蜘蛛の顔を思い出す。
「久々に見たな」
男の顔をしていた。
まあ、元々男なのだが。
くっと、喉元で笑って、土蜘蛛は再び筆を取った。


布団に横になった名前はぐったりとしていた。
傷口から広がった毒で、体は熱を持ち、苦しげな呼吸を繰り返している。
「うっ、はぁっ……」
「名前、もう少しだけ、我慢してちょうだいね」
女郎蜘蛛の言葉に、名前がかすかに頷く。
毒を分析して、体内で抗体を作るまではできた。
が、これを名前にどう投与するかーー。
「……名前、目瞑っててね」
「う、ん……」
言われるままに、目を閉じる名前に唇を重ねる。
ーー熱い。
少しずつ、少しずつ、解毒剤を流し込んでいく。
「ん、っ、はぁっ……」
苦しそうに息をする名前に、唇を離すと、うっすらと目を開けて女郎蜘蛛を見た。
「もう少しだから、ね……」
もう一度、唇を重ねる。
「ん、ん、……っ……」
十分な量の解毒剤を飲みこんだのを確認して、唇を離した。
「名前?」
涙の滲んだ目で女郎蜘蛛を見て、名前はかすかに微笑んで言った。
「……女郎蜘蛛、ありがと……」
目を閉じると、名前はすぐに寝息を立て始めた。
体力の限界だったのだろう。
顔色をよくなってきているし、このまま寝ていればよくなるだろう。
襖の外から声が聞こえた。
「ーーいいか」
「だめ」
「馬鹿か、お前は」
呆れた顔で土蜘蛛が襖を開けた。
「うるさいわね〜。だから、駄目って言ったでしょ」
不機嫌そうな顔で女郎蜘蛛は土蜘蛛を睨みつける。
「人払いしてやったのだ。有り難く思え」
「それは……感謝するわ」
「それで、」
ちらりと土蜘蛛が名前のほうを見る。
「回復したら、人間界に帰すわ」
「それはそうだろうが……また同じようなことが起こるぞ」
女郎蜘蛛が苦い顔をする。
土蜘蛛が言った。
「どうも、体質のようだな。お前が接触を控えてもあまり意味はない。むしろ、今まで何事もなかったのが不思議なくらいだ」
「…………」
「変な顔をするな」
苦しげな顔をする女郎蜘蛛を見て、土蜘蛛は苦笑いした。
「対処法はいくらでもあるだろう。まあ、大事にしてやれ」
土蜘蛛をそう言うと、部屋を出ていった。
土蜘蛛なりに慰めにきたのだと、女郎蜘蛛は少しだけ気が楽になった気がした。
「はぁ、土蜘蛛ちゃんにまで心配されてたらおしまいよねぇ」
本人がいたら殴られそうなことを言って、女郎蜘蛛は苦笑いした。


体が重い。
意識が戻ってきて、そっと目を開ける。
「あ……」
女郎蜘蛛が名前に覆いかぶさるようにして寝ていた。
(これは、重いわけだ)
よく見ると、手もぎゅっと握られている。
名前はなんだか心が和むようなそんな心地がした。
「ん……名前……?」
薄く女郎蜘蛛の目が開いたかと思うと、ばっと勢いよく起き上がった。
「目を覚ましたのねっ。ど、どこも痛くない? どこか違和感のあるところとかは……」
慌てたように、矢継ぎ早に質問されて、名前は目を瞬いた後、くすくすと笑って言った。
「もう、大丈夫だよ」
「そ、そう、よかったわ〜」
気が抜けたように女郎蜘蛛が言った。
「ここは……?」
見慣れない和室を名前がきょろきょろと見渡す。
「ああ、元祖軍のお屋敷……って言ってもわかんないわよね。まあ、とにかく、私の部屋よ」
「そうなんだ」
「あのね、名前」
女郎蜘蛛が真面目そうな顔をして言った。
「今回のこともあって、その、……」
気合を入れるように、女郎蜘蛛が言う。
「これ、使ってほしいの」
差し出されたのは、腕時計。
「時計……?」
盤面は大きく、横には何かの差込口のようなものもある。
「ここにメダルを入れるのよ。こうやって……」
がしゃんと、何かのメダルを女郎蜘蛛が差し込んだ。
「で、このボタンを押してみて」
「こう?」
ボタンを押すと、軽快なメロディとともに、時計から光が溢れ出してくる。
と、目の前に誰かが現れた。
眉間に皺を寄せた、いかにも不機嫌そうな女郎蜘蛛と瓜二つな青年。
「ーー土蜘蛛。……おい、吾輩のメダルを勝手に使うな」
「あら、練習に丁度いいかと思って〜」
はあ、と青年が重い溜息をついた後、名前のほうを見て言った。
「顔を合わせるのは初めてだな。元祖軍の大将、土蜘蛛だ」
「あ、名前です。よろしくお願いします」
威厳のある風格に思わず畏まってしまう。
「だから、堅苦しいってば」
「お前が軽すぎるのだ」
二人の会話に、思わず笑ってしまう。
「仲がいいんですね」
「そうよ〜」
「どこがだ」
くすくすと笑う名前に、二人は言い争うのをやめる。
「ーーごほん。体調はもうよいのか?」
「はい。おかげさまで」
「そうか。他にも世話をした妖怪がいくらかいる。声だけ掛けてやってくれ」
「あ、はい。ありがとうございます」
「ああ、ではな。……それと、メダルはやろう」
最後に少しだけ表情を和らげると、土蜘蛛は部屋を出て行った。
「なんだかんだ面倒見いいのよね〜、土蜘蛛ちゃん」
女郎蜘蛛が優しい表情になる。
「名前、立てる?」
手を引かれて、立ち上がる。
「じゃあ、挨拶だけしたら、帰りましょうか。あんまりここにいると、宴会とか開かれちゃいそうだし」
女郎蜘蛛が笑う。
屋敷内を歩いていると、いろんな妖怪に声を掛けられた。
ここでは名前は妖怪が見えてしまうらしい。
一通り挨拶を済ませた後、名前は一枚の鏡の前へと案内された。
「人間界まで、よろしくね」
「ぺろ〜ん。畏まりました」
鏡も妖怪だった。
「おおもり神社の横に出るはずだからーー」
名前が不安げな顔で見上げると、女郎蜘蛛はくすりと笑った。
「大丈夫よ。それに、何かあったら、その時計で私を呼んでちょうだい。あ、何もなくても呼んでいいのよ」
名前は腕の時計を見て、こくりと頷いた。
鏡を抜けて、名前の姿が消えるまで、女郎蜘蛛はひらひらと手を振り続けていた。


空間を抜けていく不思議な感覚が終わって、目の前の景色が開ける。
おおもり神社のすぐ横の草むらだった。
「名前くん?」
「あ……」
理科の先生だった。
理科の先生は一瞬名前の腕についた時計を見て、すぐに目を離して言った。
「少し顔色がよくないね。送っていくから、今日はもう帰りなさい」
「あ、いえ、……」
さすがに送ってもらうのは申し訳ないと名前が断ろうとすると、先生の言うことは聞くものだよ、とやんわりと有無を言わさぬ笑顔を浮かべられ、断りきれなかった。
歩きながら、先生が言った。
「あれから、不思議なことはあったのかい?」
「えっと……」
色々ありすぎて、話しきれそうになかった。
「何もないのならいいけどね」
にこりと先生が微笑んで言った。
「ーーいつかボクにも会えるかもしれないね」
「え?」
うまく聞き取れなくて聞き返すと、なんでもないよ、と先生は笑った。