「ん……」
頭の中に霞がかかったようなぼんやりとした意識のまま名前は薄っすらと目を開く。
(……床……?)
まず初めに目に入ってきた景色に疑問符を浮かべるのと同時に、固い床の感触が体にも伝わってくる。
(体、動かせない……)
それもそのはずで、名前は後ろ手に縛られていて、どこか見知らぬ床に転がされているような状況だった。
「ーー目が覚めたか」
上から男の声が降ってきて、びくりと名前は体を竦ませる。
声がしたほうに目を向けると、人影が目に入るが、ゆらゆらと黒い影に覆われていて姿がはっきりとしない。
男は可笑しそうに言った。
「ーー妖魔界を人間が一人でふらふらと歩いているなど、襲ってくれと言っているようなものだぞ」
からかうような言葉を聞きながら、ここに至るまでの経緯を名前は思い出しつつあった。
(そうだ、私、急に後ろから誰かに何かを嗅がされて……)
「ーーさて、どうしようか。あの鬼にお前の首でも送りつければ面白い顔が見れるかもしれんな」
向けられる悪意に名前はぞっと背筋が凍るような心地がした。
「ーーその前に、便利そうな物は取っておくか」
言いながら、男が名前が手につけた妖怪ウォッチに手を伸ばす。
「ーーッ!」
が、バチッと電流が走るような音とともに男の手が弾かれる。
「チッ。忌々しい仕掛けがしてあるな」
男は苛立たしげに言うと、じっとりとした視線で名前を睨め付ける。
「ーーまあ、いい。恨むならあの鬼を恨むんだな」
ぬっと男の手が名前に向かって伸ばされる。
(嫌だ、助けて、誰か……)
恐怖で引きつる声を名前はなんとか絞り出して言った。
「酒呑童子……っ……」
瞬間、名前の声に応えるように、妖怪ウォッチにきらきらと光が集まる。
アークがひとりでにウォッチに差し込まれて、辺りを眩い光が覆い尽くしていく。
現れた酒呑童子は、名前と、目の前にいる黒い影に状況を察したのか、今まで見たことのないような冷たい視線を影に向けていた。
「ーー名前に何をしている」
酒呑童子が炎に包まれた剣を取り出したのと、剣を振り下ろしたのはほとんど同時だった。
瞬く間に炎に包まれていく黒い影はやがて炎に飲まれて跡形もなく消えてしまう。
酒呑童子はゆっくりと名前に近づくと、縛られた名前の手の縄を解き、名前を抱き起こす。
酒呑童子が忌々しげに言った。
「今のは、空亡の残り滓のようなものだろう。悪意の塊のようなものだ。……大王様と一緒ではなかったのか?」
うっ、と名前が言葉を詰まらせて、うろうろと視線を彷徨わせる。
「えっと、一人でも帰れそうだなと思って……ごめんなさい」
しゅんと項垂れる名前に、酒呑童子はなぜだか一度視線を逸らして、そして名前に視線を戻して言った。
「いや、オレが……お前のそばにいるべきだった」
酒呑童子はそう言いながら、そっと名前の手を取った。
「酒呑童子……?」
酒呑童子は名前の手を握ったまま独り言のように呟いた。
「オレの手は、いつも……肝心なところであと一歩、大事なものに届かない」
酒呑童子は名前の手を握り直して、名前を真摯な瞳で見つめて言った。
「ーーだが、お前の手だけは離さない」
酒呑童子の言葉に、名前の心臓がどきりと鳴った。
「う、うん。あの、……助けにきてくれて、ありがとう」
名前が言うと、酒呑童子がふっと微笑んだ。
さて、と酒呑童子が気を取り直したように言った。
「立てるか?」
「う、うん。……あ、あれ……」
うまく立ち上がれない名前を見て、ふう、と酒呑童子は溜め息を吐いて言った。
「ここに掴まれ」
酒呑童子は名前の手を首の後ろに回すように持っていき、名前の膝裏と背中に手を添えるとぐっとそのまま抱き上げた。
いわゆるお姫様抱っこに名前は少し顔を赤くして言った。
「っ……しゅ、酒呑童子、もう少ししたら歩けると思うから……」
「待てん。大人しくしていないと落とすぞ」
きっぱりとそう言われて、酒呑童子なら本当に落としかねないと思い名前はしっかりと酒呑童子にしがみつく。
酒呑童子はちらりと腕の中の名前を見て、すぐに前を向いて言った。
「……連れて行きたい場所がある」
酒呑童子の言葉に、名前はただ頷いた。
場所は言われなくとも分かる気がした。