星流夜



 その町には、雪が降り続けて止まらない。


 どうしてそうなってしまったのか、誰にも原因はわからなかった。かつては普通の町であったらしいが、いつのころからか朝から晩まで雪が降るようになり、春になっても夏になっても細々と雪は降りつづけ、冬になると家が雪で埋もれてしまう家が町中に溢れた。
 ――この町は少しずつ死に向かっている。
 そう思ったお父さんは、お母さんと、まだ小学生だったわたしを連れて生まれ故郷だったその町を飛び出した。そのときにお父さんの唯一の肉親であるおじいちゃんも来るように誘ったが、おじいちゃんは決して首を縦には降らず、その町に留まった。


 それから十年が経った。わたしは年々その生まれた町の記憶が頭から消えていくのを感じていたが、その町の名は、雪が降る頻度と量が年々酷くなっているというアナウンサーの嘆きとともに、テレビのニュースで度々耳にした。今となっては季節関係なく、酷い雪が降る日もあるのだという。
 若い人間には、面白がってその町に住もうとしている者もいるらしかった。しかし冬になった際に空から降るその雪の量は深刻で、面白半分で意気揚々と住もうとした人間でさえ、一年で根をあげて去ってしまう者も多いという。
 そんな環境は年を取った人間にとってはさらに過酷で、十年前まではどの地方の例にも漏れず高齢者で溢れかけていたその町であったが、そこ一帯が避難地域になってしまったかのように、高齢者はほぼほぼその町から撤退した。
 町に残されている高齢者は、おそらくおじいちゃんだけだ。
 そのことを気に病んだお母さんがお父さんに時折その話題を口に出すことはあったが、いつもお父さんの答えは同じだった。

「父さんはあの町と心中したいんだ。それが父さんの望みならば、放っていけばいい」

 お父さんは吐き捨てるように言った。あの町を出る際にも、そして飛び出してからも初めの数年は何度もおじいちゃんのところに電話をかけては必死に説得をしていたのは他でもないお父さんであることを知っているお母さんは、何も言わずに黙り込んだ。

 町を出たとき幼い子供だったわたしは高校生になっていた。
 その年の冬、ある日の朝にまたしてもその町のニュースを目にしたとき、わたしは不意にその町に行くことを思いついた。
 一度考えついてしまえばそれは揺るぎない計画となり、溜めていたお小遣いを元に、新幹線にのってその年の冬休みにおじいちゃんの家に行くことに決めた。
 両親にその町に行くと言えば危ないからと必ず止められることは分かっていたので、友達とスキー旅行に行くと嘘をついて、家を出た。四季がはっきりしていることで有名な日本に年中雪が降るという町があるということで、世界でも有名なその小さな町は、少しネットを駆使すれば行き方もすぐに調べ上げることができた。一応観光地として有名になっているそうなのだが、それでも冬にはかなり人気が少なくなるのだという。



 長旅を終え、電車を降りたわたしは、町に降りたった瞬間に身を切るような寒さに思わず全身を竦ませた。
 ある程度覚悟をし、防寒には念には念を入れたつもりであったが、それでも服の繊維を突き抜けるような寒さがわたしを襲った。
 母から仕入れていた住所を頼りに、わたしはその町を歩いた。そしてようやく、雪でほとんど埋もれてしまっている、かつての私の生まれた家、そしておじいちゃんが現在住んでいる家が見えてきた。
 雪を掻き分けて進むと、その屋根の上には人影があった。思わずあっと声を上げたが、その声は降り積もる雪が吸い取ってしまい、相手に届くことはなかった。
 わたしのところからは背中しか見えなかったが、わたしは確信をもって、それが誰であるか分かっていた。

「おじいちゃん」

 その背中に大きな声で呼びかけた。そうして、ようやくその相手はこちらを振り向いた。



 おじいちゃんには、事前にわたしが来ることは言っていなかった。だが冬のあいだであればおじいちゃんがその家を留守にすることはないので特に問題はないかと思っていた。これもニュースからの情報だったが、冬のこの時期になると一日中酷い雪が降るため、最低でも十回は雪かきをしなければならず、家が潰れてしまう危険性がかなり高いので一日も家を空けることができないのだという。だからこの町に住む人間は冬には旅行に行くことすらできないのだと、いかにも哀れそうにアナウンサーがこの町の現状を伝え、それがこの町から高齢者がいなくなった理由の一つであると最後に付け加えていた。
 おじいちゃんは突然現れたわたしを見てかなり驚いたようだった。
 しかし十年の期間でわたしの存在を忘れたわけではなく、やがて自分の孫として正しく認識してくれ、雪かきを中断してわたしを家の中に招いた。



 慣れない極寒に終始身体を震わせるわたしにストーブを向け、熱いお茶も淹れてくれた。

「久しぶりだな。……といっても、お前はわしをあまり覚えとらんだろうな」

 おじいちゃんは久しぶりに会った親類がよく言いがちな「しばらく見ないうちに大きくなったな」とか「わしも年を取るはずだ」などという常套句は口にしなかった。
 元々無口なのか、それとも日々あまり人と会話する機会がないために口が重くなってしまったのかは分からないが、初めにそう言ったまま黙り込んでしまった。それでも不思議と気まずさは感じられず、わたしは正座をして机を挟んでおじいちゃんと向き合ったまま、その後にもぽつりぽつりとわたしの学校のことや家族のことについて質問するおじいちゃんに応えていった。
 やがて会話が途切れると、おじいちゃんは膝に手をやって立ち上がった。

「寒いだろう。風呂を沸かしてやるから、ちょっと待ってなさい」

 古い家にはわたしの家のようなボタン一つで沸くような便利な機能は搭載されていないらしく、薪でお風呂を沸かしてくれた。
 おじいちゃんはわたしに先にお風呂に入るように言った。言葉に甘え、教科書でしか見たことがないような古いお風呂に内心恐々しながらも、わたしは全裸になって湯舟に身体を浸した。
 そして熱いお湯に身を委ねながら、わたしは今日、どうしてここに来たのだろう、と考えていた。
 おじいちゃんとは小学生以来会っていないし、そんなに遊んでもらった思い出もなかった。だから正直普段もおじいちゃんのことを思い出すこともないし、お母さんほどおじいちゃんのことを心配しているわけでもなかった。
 ただこの町に、興味半分、面白半分で来たのか。……わたしは自分でも分からなかった。



 風呂から上がると、おじいちゃんはもう夜遅くにも拘わらず、外に出る格好をして、玄関に立っていた。

「雪かきをしてくる」

 それだけを言ってすぐに背を向けると外へ出た。咄嗟に「わたしがしようか」と言いかけたがタイミングを逃した。
 やがて、どさ、どさ、と何かが落ちる音が窓の外から聞こえてきた。
 わたしはその音を机の前で座ってぼうっとしながら聞いていたが、不意に立ち上がると、玄関から外に出て、家の横に回った。
 家の側面には大きな梯子が設置されていた。毎日の作業に使っているからかかなりしっかりとしたもので、わたしは何の恐怖を抱くこともなく、その梯子を上った。
 屋根の上で雪をかいていたおじいちゃんは、わたしの存在に気づくと一瞬手を止めたが、「来たのか」と短く言っただけで、すぐにまた作業に戻った。
 何も考えずに上ってしまったものの、わたしは何も道具を持っておらず、結局わたしはおじいちゃんが雪かきをする姿を見ていることしかできなかった。「わたしが代わりにしようか」と言い出せずにいたのは、おじいちゃんからは年を取った人間特有の手助けを必要するような悲壮感は一切感じられなかったからだ。むしろそうするのは失礼な気がした。
 それでもやはり、雪かきはわたしの想像をするよりもはるかに重労働に見えた。ある程度おじいちゃんが雪かきをしたタイミングで、わたしは思わず口に出していた。

「……ねえ、おじいちゃん。どうしてこの町を出ないの?」

 しかし、おじいちゃんはその質問に応えなかった。



 雪かきを終えると、屋根の上には雪がほとんどなくなった。おじいちゃんは持っていた道具を下の地面に落とすと、おもむろに屋根に座り込んだ。わたしはそうするのが自然だと感じ、その隣に座った。

「わあ……」

 座ると自然に空を見上げる形になり、わたしは感嘆の声を上げていた。
 屋根の上に立っているとき、そしてこの家に来る途中ですら、寒さにずっと俯いていたわたしはまったくその存在に気づかなかったのだが、この町の夜空には満天の星がちりばめられていた。わたしの住む東京の町にも星はあるが、まったく比べ物にならない量の多さであり、輝きもこっちの方が光に満ちているような気がした。

「きれいだろう」

 溜息しかでずに言葉にならない感動を噛み締めているわたしに、おじいちゃんは穏やかに言った。

「わしが子供の頃は、もっと綺麗に見えとった。子供の頃から、冬になると毎日のようにこうして屋根にのぼっては、まぶしいほどに輝く星を見上げていた。あの時代は嫌なことがたくさんあったが、どんなにつらいことがあっても、夜になってこの星たちを見上げると、不思議となにもかも忘れて、次の日にはまた生きることができた」

 おじいちゃんは昔を懐かしむように目を細めた。
 しばらく黙ったが、やがておもむろに口を開いて言った。

「わしはな、この町と心中したいわけじゃないんだ。――ただ、恩返したいんだ。この町にずっといてくれて、わしの人生に寄り添ってくれたあの星たちに。……この町を、この星空を捨てて出て行くことが、どうしても出来ないんだ」

 ――ああ、そうだ。わたしは唐突に思い出した。
 わたしは小さい頃、おじいちゃんに何度か山に連れられて、この澄んだ星空を見上げたことがあった。
 寡黙なおじいちゃんは何も話さなかったけれど、黙って星を見上げるその横顔は幼いわたしの記憶の底にこびりついていた。星空の綺麗さなんてものに感動するほど大人ではなかったわたしだけれど、おじいちゃんのその横顔を見るのは、なんとなく好きだったのだ。


「……おじいちゃん、わたしの家の庭にはね、大きな桜の木があるの」

 突然、そんなことを言い出したわたしに、おじいちゃんは不思議そうな目を向けた。

「春になると、満開に桜の花が咲くの。風がふくと花びらが庭中に舞い散って、それがすごく綺麗で。わたしはそれが見るのが、毎年すごく楽しみなの」

 その桜の木を植えたのは十年前のこと。この町を捨て、今住んでいる家に引っ越したその年に、わたしとお父さんはその桜の木を植えた。
 春になれば桜が咲くことを願って。
 立派な桜の木になったその枝からは春になると花が咲き庭を華やかに彩り、淡い桃色の花弁がその場に舞い上がる。その光景は、何度見ても、そしてどのくらい眺めていても飽きない、囚われてしまうような美しい光景だった。

「おじいちゃんも春になったらわたしの家に遊びにきて、その桜を見に来てよ。……お父さんも、おじいちゃんを待ってるから」

 おじいちゃんは驚いたように目を開き、提案したわたしの顔を凝視していた。
 だがやがてゆるりと頬を緩ませた。
 それは今回初めてみるおじいちゃんの柔らかな表情であり、そして幼いわたしの記憶にもないおじいちゃんの笑みだった。

「ああ、そうだな。……行かせてもらおう」

 そう言って、おじいちゃんは再び星の流れる夜を見上げた。

 
 その横顔を見ながら、今、目の前の満天の星がおじいちゃんの瞳を輝かせているように、わたしの家に舞うあのうつくしい桜吹雪が、おじいちゃんの心を掴めばいい。そう思った。



 

 



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