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9.ここがユートピア!(一いづ)
廊下を歩くペタリ、ペタリと足音が聞こえた。描くことに集中していたらきっと聞こえなかっただろう、小さくて可愛らしいその足音に耳を傾ける。そう言えば今日は一日かかりきりだったから彼女の顔を見ていない、といづみの顔を思い浮かべる。
今から現れる彼女はどんな顔をしているだろう。もう夜だから化粧を落としているかな。髪の毛は下ろしているか、それともポニーテールか。ジャージかな、パジャマかな。想像するだけで胸が弾んで早く顔が見たいと心待ちにしてしまう。
それをグッと堪える。敢えて扉が開いたときに死角になる位置を選んで立つ。もう一度耳を澄ませると、彼女はもうすぐそばまで来ているようだった。
数秒後、コン、コン、コンと扉を叩く音がする。それに続く彼女の声に心と頬が緩んでしまう。それが声に滲み出ないように気を付けながら入室を促せば、お説教モードのいづみがドアを開けた。
「一成くん、ちゃんと休憩して……って、あれ? 一成くん?」
死角になるということは、こちらからも相手が見えないと言うこと。いづみが今どんな顔をしているのかはわからない。しかしそれでも声は聞こえる。朝からずっと倉庫に閉じこもりきりで作業する一成を叱りに来たのに、肝心の一成がいないことに戸惑っている。そんな声だ。さっきノックに返事をしたばかりなのだからおかしく思うのも仕方がない。
そんな彼女の表情を想像して、見たくなって、それでもやはりまだ姿は見せない。こうして姿を隠す目的はまだ果たされていない。すぐに来るはずの『その時』までばれないように、と息を殺す。
じっと耐えて待ち構える。それほど長くはかからないはずだ。なぜなら目的は……。
「あ、これ……」
目論見通りいづみが声を上げた。
一成の目的。それはいづみに絵を見て貰うこと。ちょうど先ほど出来上がったこの絵を、誰より最初に見て欲しくて、ただ忌憚ない意見を聞きたかったから自分は姿を隠そうと企んでいた。彼女の素直な、第一印象を知りたかった。
静かな倉庫。聞こえるのは緊張で高鳴る自分の心臓の音と、小さく息を飲む彼女の息遣いだけ。それに続く言葉を待つ。どんな言葉であっても大切に持っていたい。そう願ったとき、遂に彼女が口を開いた。
「キレイな絵……」
たったその一言が嬉しくて、次の瞬間には物陰から飛び出していた。
「ホント?」
「わっ! び、びっくりした……」
「へへっ、ゴメンね? 絵見たときのリアクション知りたくて!」
「それなら普通に聞いてくれたらいいのに……」
驚かされたことに抗議するような視線が刺さる。しかしそんな表情さえ見ていて飽きないのだからいくら睨まれたって逆効果だ。
それはいづみにも伝わったようで、彼女はスイッチを切り替えるように膨らませた頬から息を吐き出した。
「でも……本当にキレイな絵だね。抽象画? なのかな?」
はっきりとしたモチーフの見えない絵をじっと見ながらいづみは首を傾げた。
無理もない。具体的なモチーフは描かれていないのだから。色とりどりの顔料がキャンバスいっぱいに塗られているだけ、と見えなくもないだろう。
「そだね、抽象画かな。だけどちゃんとテーマはあるよん。カントクちゃんにはどう見える?」
「どう……うーん、よくわからないけど……」
腕組みをして唸り長く悩んだ後、いづみはようやく自分なりの答えを見つけた、と口を開いた。
「住みやすそうだなって。温かそうで、だけど風は爽やかで。あ、ほら。この辺の色とかちょっと美味しそうだからきっと実りも多くて、そんなのをみんなで寄り添って食べて過ごせたら楽しそうだなって」
「ははっ! さすがカントクちゃん」
「……見当違いだったかな?」
「ううん、大正解! テーマはね、ユートピア」
「ユートピア?」
首を傾げる彼女にそっと頷く。今回のテーマは理想郷、ユートピアだった。現実にはない夢のような場所。本当には存在しない場所を描くことがテーマだった。
数々の旅行で見つけた美しい場所、身近にある映えるスポット、実家、劇場、寮、大切な人の隣。美しい場所も居心地のいい場所もたくさん知っている一成にとって、具体的なユートピア像を描くことは出来ず、だからあえて抽象画を選んだ。どの色が何を示しているのかは見た人の感性に委ねて、だけどその絵の空気感は伝わるように、この絵の中に住みたいと思ってもらえるようにと筆を乗せた。
「本当にない場所ならさ、作っちゃえばよくないって思ってさ。キャンバス上ではあるけど、ここがオレのユートピア!」
「ふふっ、一成くんらしいね」
「でしょでしょ?」
本当はここにキミのことを描きたいんだと照れながら呟けば、彼女は「一人ぼっちじゃ寂しいな」とねだる様にこちらを見つめた。