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12.もう、ちょっと黙って(至いづ)

 悶々とした思いが頭の中を支配する。やらしい、までは言わないにしても、恋人である以上まぁそれなりのことはしたくなるのが一般的であって、それなのにここ数日彼女のことを抱きしめることさえできていない。そんな現状を誰にも相談できず、とは言えどこにも捨てられないで抱え続けた至は、ついに我慢の限界を迎えてしまった。

「抱きしめたいんですよ、今すぐに」
「……どうしてそれを俺に言うんだ」

 至の真剣な悩みを、呆れを通り越した冷たい声で迎え撃ったのは同室の千景だった。
 ただ、声が冷たいわりに聞く耳は持って貰えたらしい。至が勧めた悪魔のキャラクターを模したクッション(ゲームセンターでの戦利品)は断られたものの、一旦は自スペースの椅子に腰を下ろし、話を聞く姿勢を取ってくれた。
 珍しく洗濯物を散らかすのではなく部屋の隅に寄せ、ゲームカセットも散らばすのではなく積み重ね、菓子のごみをきちんと片付けた誠意が伝わったのだろうと小さくガッツポーズする至の思考を先回りして、千景は「こんなのは片付けた内に入らないからな」とまた冷たい声で告げた。
 しかし至はへこたれない。そもそも千景の塩対応に耐えることなど最早デイリーを消化するのと同レベルだ。いっそ夏の高気温のことを考えれば涼しくて好都合かもしれないと、至はめげずに食らいつく。

「あのですね、ハグできない事情があるけどどうしても今日抱き締めたいからこうして先輩を頼ってるんじゃないですか」
「どうしても今日?」
「え、そこからですか? だってハグの日ですよ? 先輩わかってないなぁ」
「ハグの日……あぁ、八月九日だからか」
「はい。因みに二日はバニーの日だったんですが、バニーコスは顔を真っ赤にして断られました。変態だと勘違いされたかもしれない傷心の俺ですが、それならばここは優しく抱きしめて名誉挽回したいんです。ハグの日だけに」

 くだらない言葉遊びだと一蹴されるところまでは予想通り。本題はそんなところではないのだ。
「というわけで助けてさい」
「別に付き合ってるんだから好きにしたらいいだろ。それとも何か? いちいち俺の許可がないとハグも出来ないのか」
「そうじゃなくてですね……」

 恥も何もかも捨てて、腹を括ってこの冷たい先輩を頼った。そのはずなのにいざとなれば言葉に詰まってしまう。自分の情けなさなんて嫌でも知っているし、目の前の先輩だってそんなこと重々承知しているだろうに、長年外面と言う仮面をかぶっていた至にとって自身の情けなさを晒すことはそれなりに覚悟がいることだった。怖気づくのも仕方がない。饒舌に、早口に千景のことを捲し立てていた口が急速にその切れ味を落としていく。歯切れ悪く口籠り、それでもやっとの思いで悩みを口にする。

「……ちょーっとですね、最近の俺、その、マシュマロボディと言うか」
「は?」
「あー、その、腹周りがですね、カッコつかない感じに仕上がってるんですよ。そんな装備した覚えないのに」
「……そう言うことか。あのな、コーラ、ポテチ、ピザ、食玩付きの菓子の山。贅肉を装備するのには十分すぎる脂質糖質カロリーだ」
「ギクッ」

 わざとらしく声に出しながら肩を跳ね上げる至。その耳に深く冷たい溜め息が聞こえた。どうやら言いたい旨はすべて伝わったようだ、と前向きに解釈をしていると、解釈通りの言葉が千景の口から零れ始めた。

「つまり『監督さんのことハグしたいけど、自堕落な生活の末手に入れただらしない腹の肉を彼女に知られたくないからどうにかしろ』ってことか?」

 さすがチート先輩は話が早い。感謝の念を込めてコーラを差し出しながら営業スマイルも差し上げる。

「はい。即効成果が出て楽にできるヤツをお願いします」
「……それならまずその色のついた砂糖水をやめたらどうだ」
「それが嫌だから先輩なんですって。栄養バランスの取れた食事を、なんて決意ができるなら頼るのは先輩じゃなくて臣でしょ」

 その言葉に千景のこめかみの辺りがピクピク動くのが見える。さすがに雷が落ちるか、と千景にフラれたクッションを盾の代わりに頭にかぶせる。
 しかし今日の千景は何かいいことでもあったのか、溜め息を吐きながらも別の手段を打ち出してくれようとしていた。何か変なものでも食べたのかもしれない。砂糖とか。
 茶化しつつ千景を観察してみるが特に変わった様子は見られなかった。咳も出ていない、鼻詰まりもない、熱が出ている様子もない。体調不良もなくただ優しい千景と言うのも気味が悪いが、それを指摘すればろくなことにならないことも重々承知していたので口を噤むことにした。

「丞を頼らないってことは運動する気もないってことだな?」
「当然」
「食べても太りたくないなら代謝を上げるべきだな」
「そんな一朝一夕でどうにもならないでしょ」
「ならはじめから頼るな」

 ジロリと睨まれ肩を竦める。優しいだなんて前言撤回。これはそれなりにイライラはしているような気がする。キツく言ったところで無駄だから付き合ってくれているだけ、要は呆れられて叱る気にもなれないのかもしれない、と至は思った。現に千景は次の策を打ち出している。

「まぁ代謝を上げるならそうだな、とりあえず汗をかくといい」
「汗……まさか冷房切るつもりじゃ……」
「それじゃ俺まで暑いだろ」
「じゃあどうやって……」

 すると千景は組んでいた足をほどき居住まいを正した。つられて至も猫背気味になっていた背筋を伸ばす。しかし、何となく嫌な予感がしたからクッションは胸に抱いたままだった。
 しばらくの沈黙の後、神妙な面持ちの千景は小さく深呼吸をして重々しく口を開く。

「これは本当にあった話なんだけど」
「……え? 怪談ですか? それって逆効果では?」
「まぁ、聞けよ。いい汗がかけるから。――これはとある劇団の団員寮で付き合ってる男女の話だ。男は『太った自分に彼女を抱きしめる資格なんてない』と思っていて、女は『太った自分じゃバニーのコスプレはできない』と……」
「ちっ、千景さんっ!」

 どこかで聞いたことがある、それどころか身に覚えが有り余る千景の怪談噺の最中、大きな音を立てて扉が開いた。その音に驚き振り向けば、そこにはいつの日かのように顔を真っ赤にしたいづみの姿。

「か、監督さん……? いつから聞いてたの?」
「そ、それは……」

 口籠り、俯き、頬染める姿があまりに愛らしい。庇護欲が掻き立てられ、彼女を守るためなら丞の筋トレに付き合うのもいいかもしれない、週休五日で。
 そんな騎士的誓いを打ち立てる至の目の前で、にやりとヒール役のごとき笑みを浮かべた千景がいづみを追い詰め始める。

「『せめてハグの日くらいはハグしたいんですけど、どうにかしてください』って頼み込んで来たときの威勢はどうしたの?」
「千景さん!」
「……監督さん、そんなこと考えてたの。マジか……」

 恋人の愛らしさにくらくらしながら、もうこのまま彼女を攫ってどこかで八月九日を堪能しよう、と企む至を阻むように、悪役は言葉を並べるのを辞めなかった。

「ちなみに聞いてたと思うけど、茅ヶ崎が最近監督さんとのハグを避けてるのはそういう理由だから……」
「ちょ、先輩! ストップ!」

 二人から必死に制止を訴えかけられて千景の口が止まる。目の前で行き絶え絶えになっている恋人たちを見て、千景は笑った。――この上なく、悪い笑顔だった。

「汗――冷や汗をかくのにはちょうどいいだろ? そうだ。とっておきのネタが……」

 そんな悪役の言葉を、至といづみは遮るべく声を揃える。

「もう、ちょっと黙ってください!!」






花の壁