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2.そこから一歩(さきょいづ)(春)


 他人から見ればたった一歩の距離に見えるのだろう。公道と私有地を分ける僅かな境界線。それをじっと見つめる。
 この境を初めて越えたのは強引に手を引かれたからで、それがなければ自分では踏み出すことさえできなかっただろう一歩。傍から見ればどれだけ小さな一歩でも、自分にとっては大きな一歩だった。
 それから月日が流れて少女の手がなくても一歩を踏み出すことが容易くなったかと思えば、今度は自身の行いによる後ろめたさから一歩を踏み出せなくなり、そうしているうちに気がつけばその境界線が崩壊しようとしていた。そんな昔のことを思い出す。
 劇場はバーレスクに改装できたとしても寮はそうもいかない。何かの店舗にするのには生活感がありすぎるが、一般の住宅にするのには広すぎる。寮として貸し出すにしてもこの大きさでは高熱給水費等の維持費がバカにならない。となれば取り壊さなければならなかったのだろう。
 それをせずに済んだのはあの春の日に足踏みしてしまったせいだ。
 聞いたところで無駄なはずの松川からの泣き言に一瞬でも耳を傾けてしまったせいだ。
 その隙を縫って通行人Aとやらが口を挟んで来たせいだ。
 たくさんの言い訳を並べながら、一歩を踏み出せた少年時代と、一歩を躊躇った春の日を
 踏み出せてよかった一歩と、踏み出さなくてよかった一歩。その両方があったから、左京の目の前に横たわる境界線は今日も健在だ。
 物思いに耽っていると春風が吹き付けた。その弾みに一片、桜の花びらが境界線に舞い落ちる。それと同時に春風に負けない温かな声が左京の鼓膜を揺らした。


「左京さん? 何してるんですか、こんなところで」


 振り返るとそこには立花いづみが両手に買い物袋を抱えて突っ立っていた。寮の前で俯いたままの左京が不審だったのか、首を傾げたまま左京を見つめている。

「何か変なことでもありました?」
「……何でもねぇよ」

 手を引いてくれたかつての少女と少年、借金取りと通行人A、総監督と役者、主催と経理担当。いつの間にかたくさんの関係ができていて、今はそれが少し煩わしい。
 目の前に散らばるたくさんの境界線。いっそ一歩を踏み出してやろうか、それとも今はもう少しこの関係を――。

「左京さん?」
「……荷物貸せ、つってもすぐそこまでだが」
「そうですよ、すぐそこだから大丈夫です」
「いいから寄こせ」

 決めかねる左京は今日も寮の敷居を跨ぐ。買い物袋を奪う際に触れた手の熱が、一歩踏み止まっていられるのもそう長くはないぞと教えてくれた。





花の壁