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31.眠る(誉いづ)

 やってしまった。体を襲う気だるさに、一度開けたはずの目蓋をもう一度下ろす。熱はそれほど高くはなさそうだがどうにも体が重い。体を起こせばきっと目眩がするだろう。
 冬が終わって春を迎え、暖かくなったからと言って気を抜いていた。まさかこんなタイミングで風邪を引くなんて、と頭を抱える。
 数日続いた寝不足のせいか? それとも主宰が気難しいことで有名な劇団の手伝いで気を揉んだストレスのせいか? はたまた……。
 ありとあらゆる可能性を巡らせる。その事にまた目眩がした。今は情報をシャットアウトしたい。そんか体の悲鳴に耳を傾けつつ、気力を振り絞ってスマートフォンを手にする。もう漢字に変換するのも面倒だ、とひらがなだらけの文章をそのまま恋人に向けLIMEで送信した。
 そういえば、お付き合いを初めてから体調を崩すのは初めてだ。どんな反応を示すのだろう。お見舞いに来てくれるだろうか。
 総監督の立場で言えば、移る病気の可能性も考慮して見舞いはご遠慮願いたい。
 しかし恋人としてなら話は別だ。体調が悪くなるとどうにも心細い。そんなとき、あの優しいテノールが聞こえてきたらどれだけ心が休まるか――もっとも、口数次第なところではあるが。耳元で健康祈願の詩でも囁かれたら堪らない。
 そんな予測をするいづみだったが、返ってきたメッセージは至極真面目なものだった。

『稽古については監督くん不在で行えるよう、天馬くんや左京さん、丞くんの応援を手配済みだ。夕方には雄三さんにも指導いただけないか依頼をしている。安心してゆっくり休むといい』

 いづみが最も気にする稽古についてフォローを入れてくれている。それが嬉しい、はずなのに心のどこかでがっかりしてしまう。例えば心配してこのドアを叩いてくれる、とかそういうことはないのか。
 考えるとあまりの寂しさに押し潰されそうだ。そんな弱さも体調不良のせいだといづみは液晶から目を離して目蓋を閉じる。その拍子に頬を伝ったのはきっと汗だ。きっと、たぶん、絶対に。



「ん……?」
「おや、起こしてしまったかい?」

 ふわりと優しい香りがしていづみが目を覚ます。そのそばには何か飲み物を用意している誉の姿。
 会いたくて堪らなかった恋人。その顔を見て込み上げてきたのは安堵でも愛しさでもなく、なぜか怒りだった。
 なぜ、とすっとぼけてみたものの、いづみはきちんと理解していた。不幸なことにいづみの眠りは体調が芳しくないがために通常よりもかなり浅かった。部屋に誰かが来ればその気配や物音で気がついただろう。それを踏まえた上で、誉の肩越しに見える壁掛け時計に目をやる。彼がここに来るまで数時間はかかったことを時計の針が示していた。
 もっと早く来て欲しかったのに、もっと早く顔が見たかったのに。子どものようなわがままが胸に込み上げてくる。
 それを飲み込むだけの理性はまだ残っていて良かったとほっと息を吐いた。

「どうだい? よく眠れたかな?」

 いづみの髪を、誉の長い指が優しく掬う。その仕草にドキリとしながらいづみは首を横に振った。

「寝たり起きたり……眠りが浅いみたいで」
「それならちょうどよかった」

 そう言って誉は手に持っていたカップを差し出す。

「紬くんが教えてくれた。体を温めるジンジャーティーを飲むと安眠効果があるそうだよ。スパイスのブレンドは千景くん監修だ」
「そうなんですか、嬉しい。ありがとうございます」
「お礼は早く元気になって、二人に言うといい」

 それだけじゃないよ、と誉は付け加えて次から次へよく眠れるらしいグッズを取り出し始めた。

「こっちは密くんから、よく眠れる枕だそうだ。それからこのお香はガイさんから。アイピローは東さん……そうそう、加湿器も貸してくれるそうだ」

 ずらりと並んだ安眠グッズの数々。心配をかけたのは申し訳なかったが、こうして心配してもらえたのは素直に嬉しかった。寂しさを感じていた心が温かいもので満たされていく。

「すまないね」
「え?」

 そんな中、なぜか誉が申し訳なさそうに頭を下げた。その意味がわからず目を白黒させるいづみに誉は言う。

「……ワタシだけ、何も用意が出来なかったのだ」

 聞けば、きっとここ数日の寝不足がよくなかったのだろうと思った誉は皆に頼んで安眠グッズを集めたのだと言う。その甲斐あってたくさんグッズを集めることには成功したのだが、肝心の自分のアイディアだけが白紙。それでも早く届けなくては彼女も心配するだろう。
 そう言い訳して、ここまで来たらしい。

「情けない男ですまない。幻滅したかい?」
「うーん、そうですねぇ……」

 情けない、とは思った。これほどの安眠グッズをかき集めてくれたのに何も出来ないと思っている天才に思わず溜め息が出てしまう。こんなに尽くしてくれているのに何をバカなことを、と思ってしまう。
 唸るいづみを見てどう思ったのか、誉はわずかに眉を下げる。

「今からでもいい。ワタシになにか出来ることはないか?」
「じゃあ……寝物語を聞かせてください」
「寝物語、かね」

 目を瞬かせながら聞き返される。きっと意外だったのだろう。それでも順応性の高い誉はすぐリクエストに頷いた。

「いいだろう。どんは話がいいんだい?」
「病に臥せる恋人のために何も出来ないと嘆く情けない男が旅に出て、恋人の元へ戻ってくるまでの旅路が聞きたいです」
「――! やれやれ……」

 いづみの言わんとすることが伝わったらしい。どこか表面的に浮かべていた笑みがへにゃりと崩れる。心から緩んだ表情を浮かべて、誉はいづみに問った。

「仕方がない。眠たくなったらきちんと寝ること。それが約束できるかい?」
「はい、もちろん。あ……でも、」

 なおも髪をすき続けていた長い指に自分の指を絡ませる。


「寝ちゃってもそばにいてくださいね。本当は、そばにいてくれるだけでいいんですから」






花の壁