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3.雲の下(九いづ)

「んー、やみそうもないなぁ」

 せっかくの七夕なのに、となんだか切なくなりながらどんよりとした空を眺める。風もなく、じっとりと体に絡みつくようなこの天気がよくない。しとしと、しとしと。この雨音が物悲しいのだ。すっかり気分が滅入ってしまう。
 しかし大雨ではないから、他の音をかき消すことはない。例えば廊下から聞こえる足音は二階の住人に用がある役者のものだろうし、例えば車のドアが閉まる音がしたのは出掛けていた丞が帰って来た音。そして中庭から聞こえるはしゃいだ声は夏組のものだろう。そんなたくさんの音に囲まれているのに寂しいだなんて、雨のせいで彦星に会えない織姫が聞けば呆れてものも言えないだろう。
 そんなことを思っていると、中庭の声が一段と楽しげに弾むのが聞こえた。こんな雨の中何をやっているのかと思えば「あーした天気になあれ」と抜群の腹式呼吸を活用した天気占いが聞こえる。威勢のいい声とは裏腹に結果は散々だったようで、「うわーテンテン明日も雨じゃん」とか「てんま、へたくそ〜」とか「天チャンひどいッス!」と占い主を責める声。どうやら夏組に加わって太一もいるようだ、と中庭の光景を想像しながら瞼を閉じる。「初めてなんだから仕方がないだろ!」と占い主の吠える声が加わったことでその想像はより鮮明になった。きっと大慌てで自分の失態を言い訳して、それを楽しそうに夏組と太一みんなでからかいながらも、こうすると靴がひっくり返りにくいとかアドバイスしながらまた笑うのだろう。あまり占いの意味がない気もするが、みんながそれで楽しいのならいいことだ――もっとも、明日の天気予報も雨なのだが。そう思えばいづみの心もなかなか晴れてはくれない。
 そうこうしているうちに、遂に大きな雷が落ちた。その音量に思わず肩を竦める。カンパニー名物・左京の説教という名の雷だ。「テメーら雨の中何騒いでやがる!」と轟くお説教。きっとこれから騒がしさに加えて、体調管理の面でのお説教が続くはずだ。
 そんな落雷をきっかけに寮に静けさが戻る。バルコニーもすっかり雨音に満たされる――かと思いきや、ガチャガチャと後ろの戸が開く音がした。それに続いて耳に入って来たのは、団員の中でも一、二を争う賑やかな足音。
 振り返れば、梅雨に似合わないカラッとした笑顔がこちらを見つめていた。

「あ、カントクだ! なにしてるの?」
「九門くんこそ、どうしたの? その植木鉢」
「これ? 紬さんの鉢植えの避難手伝ってたんだ!」

 そう得意げに掲げる鉢には、支柱に絡むように蔦が伸びる植物が植えられていた。
 そして気づいたことがもう一つ。九門がここにいると言うことは、天気占いのメンバーに九門は入っていなかったと言うことだ。もし加入していたのであれば今頃左京からの雷コースのはずだから。
 天気占いには参加せず紬を手伝っていたのか、と感心しつつ再び鉢植えに視線をやる。この花は記憶にあった。

「それって朝顔?」
「そう! これならオレにも育てられるからって手伝ってるんだ」
「ふふ、懐かしいなぁ。私も小学生の頃育てたよ」
「それより、カントクはどうしたの? 雨なのにこんなところで」
「うーん、雨だなあって思って。七夕なのになあって」

 一年に一度しか会えない恋人たちが、そのたった一度さえ天候に阻まれてしまう。会いたい人に会えない寂しさを想像すると胸の辺りがぎゅっと嫌な音を立てた。

「一年に一回なのに、その日さえ会えないなんて……」

 寂しさを言葉にする。心がじめじめと湿度を増していくようだった。
 しかし、そんな湿り気を吹き飛ばすような、底抜けに明るい声がバルコニーいっぱいに響く。

「えー、でも雲の向こうなんだから関係なくない?」
「……え?」
「織姫と彦星がいるのは雲の向こうでしょ? だから雨とかカンケーないって!」

 その発想はなかったな。堪えきれずに噴き出してもう一度空を見上げる。数分前と何ら変わりなく降り続く雨。それでも先ほどまでのような湿っぽい気分にはならなかった。なるほど、この雲の向こうでは今頃、会えなかった時間の埋め合わせをする織姫と彦星がいるのか。そう思えた。
 考え方を変えるだけで全然違って見えるものだと、感心したいづみは感謝を伝えるべく視線を空から地上へ下ろす。
 すると、カラッと眩しく笑っていたはずの九門が、今度は僅かにその熱を下げて温かく微笑んでいた。ドキリと胸が高鳴るのは、その表情の意味を知っているから。愛しそうなその眼差しを向けられることが初めてではないから。
 きっとこのあと彼は声のトーンを落として、といづみが未来を予想していると、やはり想像通りに九門が落ち着いた声で「それにさ、」と小さく呟いていづみの指を絡め捕った。

「きっと織姫は恥ずかしがり屋なんだよ……いづみさんみたいに」

 だから雲で隠れちゃったんだって、と目を細める彼は団員の兵頭九門ではない。立花いづみの恋人である兵頭九門だ。
 意識をしているのかどうかは定かではないが、彼が恋人としていづみと接するときの表情は柔らかくて温かい。普段の表情とのギャップにくらくらしてしまう。顔に熱が集まってのぼせてしまいそうだった。
 だからそんな頬を手で押さえつけて冷ましたいのに彼の指がそれを許さない。何かを確かめるように何度も握る力を強めては緩めて、ということを繰り返していた。そのリズムに合わせるように弾む心臓の音がうるさくて雨音が遠のいていく。

「それに……」
「そ、それに?」
「彦星はヤキモチ焼きなんだよ、オレみたいに」
 そう言って九門の指がいづみから離れて、しかし次の瞬間にはいづみは彼の腕の中にいた。
「九門く、」
「だって、オレが彦星なら誰にも見せたくないもん。こんな真っ赤で可愛い顔。雲で隠しちゃいたくなるって」

 最後にギューッと力を込めて九門はいづみを抱きしめて、約十秒後にその腕をあっさりと解いた。いつの間にか笑顔はカラッとしたいつものものに戻っている。

「だから大丈夫! 織姫も彦星も寂しい思いはしてないよ!」
「……うん、きっとそうだね。ありがとう九門くん」
「えっへへ、どーいたしまして!」
「それでも、もし隠してたんだとしても会えたかどうかくらい教えて欲しいなぁ」

 織姫からしてみれば地上のことなど知ったことではないのだろうが、雲の下で彼女たちの恋路を見守って来た身としてはどうしても知りたくなってしまうのだ。
 そんなどうしようもない願望も、九門はバカにすることなく真正面から受け止めてくれる。彼は紬からの受け売りだと言って、すぐそばに置いていた植木鉢を掲げながら、七夕にまつわるとっておきの縁起話を教えてくれた。

「朝顔が咲くのって、織姫と彦星が出会えた証拠なんだって!」



 翌朝、ぐっすり眠ることが出来たと清々しい気持ちでバルコニーへ向かったいづみは、にんまりと口角を上げる。
 天気予報も、靴の占いも大外れ。朝日を浴びて咲き誇る朝顔の花が織姫と彦星の逢瀬が果たされたことを教えてくれていた。
 喜びでいっぱいのいづみの後ろ姿を見つけ、同じく頬を緩める彦星の存在にいづみが気づくのはもう少し時間がかかりそうだった。





花の壁