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46.りんご(十いづ)
重量感たっぷりの紙袋を抱えてバスに揺られているうちに気がつけば眠ってしまっていた。降りるはずのバス停から少し離れてしまっていたことに気づきつい舌打ちが出る。
実家に寄ったついでに持たされた大量のリンゴ。毎年田舎から送られてくるそれは、昨年に続いて豊作だったらしい。去年と同等かそれ以上の量のリンゴを落とさないように気遣いながら歩いたせいか疲れていたのだろう。
慌てて降車ブザーを押して次の停留所でバスを降り、そこで今度は溜め息が出た。いっそ次のバス停まで乗っていればうまく乗り継ぐことが出来ることに今更気づいてしまった。
気づかなければがっかりもしなかったのに。そう思いながらもここまで来たら仕方がないと歩き始める。少し遠くはなるが歩けない距離ではない。たまにはこうして歩くのもいいだろう。もしかしたら知らない甘味処を見つけられるかもしれない。
そんな探索を始めること数分後、十座の耳が小さな悲鳴を捉えた。反射的に声がした方へ足を運ぶ。そこには老人が一人、地べたに座り込んでいた。
「どうした、大丈夫か?」
「え、えぇ……ただ……」
咄嗟に駆け寄って尋ねる。老人は青い顔をして自身の前方を指さしていた。その先には女ものの鞄を持って走り去る男の姿。
ひったくりだと直感した十座は、リンゴの入った紙袋を放り捨て男目掛けて走り出す。幸い原付などの足は持っていなかったらしい。単純な駆けっこならそう負ける気はしなかった。
勝負がつくのに一分もかからなかった。あっという間に犯人を追い詰め鞄を取り返した十座が老人の元に戻ると、その老人のそばに見知った顔がいた。
「十座くん!」
「監督……」
転んでしまった老人の手を取っていたのはいづみだった。聞けば、悲鳴が聞こえたからと駆け付けたのが、十座が走り去った直後だったらしい。
十座から鞄を手渡された老人は顔を綻ばせて何度も礼を口にした。
「本当にありがとう。どうお礼をしていいのか……」
「いや、気にしなくていい。それより怪我がなくてよかった」
「鞄も無事でよかったです」
「本当にねぇ。これ、主人から貰ったものなの。今日が『初恋の日』だからって年甲斐もなくはしゃいじゃって、ご迷惑をおかけして恥ずかしいわ」
照れ臭そうに笑う老人が口にした『初恋の日』というものはよくわからなかったが、大切なものが返ってきて嬉しいと言う気持ちはよく伝わった。その明るい顔が見られただけで十分な礼だと思った。
何度も頭を下げる老人を見送って、十座といづみは短く息を吐く。このまま一生続くんじゃないかと思われた老人からの礼は、初恋の相手らしいご主人の迎えによって終止符が打たれたのだ。
「長かった……」
「だね。でも、それだけおばあさんも嬉しかったんだよ」
そう笑い合いながら、あちらこちらへ転がしてしまったリンゴを拾い集める。傷がついてしまったものもあったが、いづみが言うにはジャムにして煮てしまえば気にならないとのことだったから、一つ残らず拾うようにした。
「それにしても、おばあさんの言ってた初恋の日って何なんだろうね。十座くん知ってる?」
「いや、知らねぇっす」
話しながら気になってしまったのだろう。リンゴ集めを中断したいづみがスマートフォンを触り始める。調べ物はそちらに任せて自分はリンゴを拾うのに専念しよう。
そうやっていると少ししていづみが「『初恋』っていう詩が発表された日なんだって」と初恋の日の由来を口にした。その題名には聞き覚えがある。
「確か……島崎藤村か」
「お、正解。さすが文学部」
「いや……たまたま図書館で読んだだけだ」
「ふふ、ちゃんと勉強してるんだね。えらい、えらい」
足元に残る取り損なったリンゴをいづみがひょいと拾い上げて十座に手渡す。手の白とリンゴの赤のコントラストに目がチカチカして、同時に胸の中に何かがストンと音を立てて居座った。
「『薄紅の秋の実に』……」
「え?」
「あー、いや。なんでもねぇ」
初めて胸に落ちた何かは、ちょうどリンゴくらいの重さに感じられた。
やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅の秋の実に
人こひ初めしはじめなり
(島崎藤村『初恋』より抜粋)