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59.五月 薫風(運搬係代理ペア)
「ん? なんだか今……」
徐々に気温が上がり、日差しも風も気持ちがいい季節。午前中は今度出演するイベントの打ち合わせがあり、天気がいいからと歩いていたその帰り道。聞き覚えのある声が耳をかすめた。
「ちょっと、御影さん。いい加減帰りましょうよ」
「すぅ……」
「あーもう……」
綴と密だ。公園のベンチで眠る密に綴が懸命な呼びかけをしていた。ときどき寮の中でも見る光景だ。その出張版が見られるとは。そんなことを思いつつ二人の元に駆け寄る。
「大丈夫、綴くん?」
「監督……いや、それが……」
困り顔の綴が眠りこけた密を指さす。
「普段は人のこと運搬車扱いするのに今日はどうしても動いてくれなくて……」
「そうなんだ。密さんが運ばれたがらないなんて珍しいね」
「そうなんすよね。普段から起こすんならともかく、運ぶのには応じてくれるのに」
そんなに眠たいのだろうか、といづみはその寝顔にいつもと違う点がないかを確かめるべく顔を近づける。特に顔が青いわけでも、熱っぽいわけでもなさそうだ。体調不良ではなさそうだった。
いつもの気まぐれなのだろうか。それならこのまま寝かせてあげてもいいのか、そうは言ってもせめて寮まで連れて帰るべきか。その二択で悩むいづみだったが、首を傾げた拍子に零れた髪の束が密の頬をくすぐったことで事態に変化が訪れた。
「ん……いい匂い……」
「あ、密さん? 起きた?」
「カントク……」
寝ぼけ眼が呆れ顔のいづみを捉えた。数回瞬きをした密はかすれた声で嬉しげに「本当に来た」と表情を崩す。
「アリスの言う通り」
「有栖川さん?」
「誉さん、何て言ってたの?」
今一つ事情が分からない綴といづみが問うと、密はいづみの髪を一掬いして静かに笑った。
「春の風はたちばなの香りを運んでくるって。だからここで待ってた。あそこから寮に帰るならここを通って帰るはずだから」
「立花って私? え、どういう意味?」
「……いい匂いがしたら気持ちよくて眠たくなってきた」
「わっ! ひ、密さん! ストップ!!」
「……すやすや」
あっという間に夢の中へ帰っていった密にいづみはがっくりと肩を落とす。結局彼が何を言いたかったのかはっきりわからなかった。それでもどうやら自分を待ってここにいてくれたと言うことは確からしい。それなら寮で待ってくれていればいいものを。
さて、これからどうしたものか。頭を抱えるいづみとは対照的に、隣にいた綴は「あぁ」と小さく納得の声を漏らしていた。
「なるほど。風薫るってヤツですね」
「風薫る?」
「はい。『風薫る軒のたちばな年ふりて』とか『五月待つ、花橘の香を嗅げば』とか。昔の人にとって橘の匂いは春の象徴だったんです」
「それでたちばながどうとかって言ってたのか……」
「まぁ、今となっては新緑の香りのイメージが強い言葉っすけどね。だけどわかる気はします。春の風って眠気を誘うっつーか」
それにしても本当よく寝るなこの人、と呆れて笑う綴。その顔もそう言えば眠たそうだなと気がついた。確かここのところ課題が忙しかったと言っていた。寝不足なのかもしれない。
「……私もなんだか日向ぼっこしたくなってきちゃった。綴くんは先に帰っててもいいよ」
お疲れの彼をここに引き留めるのは悪い気がする。しかし自分を待ってくれていた密を置いて帰る気も更々ない。そう思ったいづみは綴に帰宅を促して、自分だけここに残ることを決めた。
それなのに、綴は「あー」とか「いやー」とかはっきりしない態度で唸っている。
「あー、その……俺もここにいますよ。なんせ俺、御影さんの運搬係代理なんで」
「……普段は嫌々運ぶくせに」
「ちょっと、御影さん起きてたんすか!?」
「カントク、風気持ちいから一緒に寝よう? 大丈夫、いざとなったら綴が運んでくれるから」
「いや、二人は無理だからな!?」
「そういうことならじゃあ……」
「監督まで悪ふざけしないでくださいよ!」
頼もしい運搬車に「お願いしまーす!」と声をかけていづみと密は瞼を下ろした。