100 titles
72.もしも、だったら
「しても仕方がない話かもしれないんだけどね」
寮の端にある資料室。たまたま綴と鉢合わせたいづみは、互いの資料を探しながらちょっとした戯言を口にする。
「もし人生のどこかで役者を諦めずに済んでたら、綴くんの書く物語を演じる機会もあったのかなぁって思っちゃうことがあるんだ」
「……どうしたんすか、急に」
この劇団の総監督になってもう何度目の春だろう。そんな年月を経てこんなことを言うのだから綴が驚くのも無理はない。資料探しの手が止まっている綴に申し訳なさを抱く一方で、互いに多忙を極める中、久しぶりに恋人と二人きりになれたのだから少しだけ弱音を吐かせてほしかった。
「ほら、この部屋って没になった作品もしまってあったりするでしょ? 時々しんみりしちゃうんだ。こういうの見ると」
自分を見てるみたいで、とまでは声にしなかったが十分伝わったらしい。優しい恋人はううんと唸って顎に手を添え何かを考えている。きっと優しい言葉を紡ごうとしてくれているのだろう。それに甘えるのはズルいのだろうか。
しばらくして、綴の口からぽつりと言葉が漏れた。
「もしも俺があなたに物語を贈るなら……それでも主演は監督じゃないっすね」
「――どんな人が主演の、どんな物語をくれるの?」
自分が主演ではない。そんな言葉なのにどうしようもなくその声が暖かくて、きっと彼らしい優しい物語が広がっていく確信が持てたから、いづみは希望を持って続きをせっつく。
すると綴は穏やかな表情で語り始めた。
「ある男の物語っす。平凡な男が一人の女のために特別であり続けようとする一生の物語」
春の日溜りのような暖かな声。優しくて穏やかでうっとりと目を閉じたくなるのに、声に似合わず綴の瞳が真剣そのもので逸らすことが出来なかった。
「男はどこにでもいるような、RPGなら村人だと言われるような男です。そんな男にある女がペンを与えます。それから男はそのペンで戦い続ける」
「……それって」
「脚本家一本で食わせていける自信があるかと言われれば、正直まだその自信はありません。それでも、一緒に歩いていきたい、生きていきたい。もちろん役者のため、見てくれる人のため、何より自分のために物語を紡ぎたいって気持ちは変わらないけど、それだけじゃなくてあなたと生きていくためにも物語を作り続ける。その覚悟が俺にはあります」
寮の片隅の資料室。そこにたった二人きりで見つめ合う。その空気は緊張ではち切れそうなほどなのに、どうしようも暖かで心地よく、まるで夢を見ているみたいだと思った。
「そんな男をそばで支える助演をあなたにはお願いしたい……いづみさん、俺と――」
結婚してくだひゃい、と最後の最後で噛んでしまった彼のそんなところも愛おしい。同時にこれは夢ではなく現実なんだと理解して、いづみは二つ返事で助演のオファーを引き受けた。