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7.反作用(ますいづ)
すっかり記憶の片隅に追いやったものが何かの弾みで舞い戻ってくる。
例えば学業に勤しむ彼らを見ていると思い出される。昔勉強したはずの文法、古語、公式、原理……。
残念ながらそれらをすっかり忘れてしまったいづみには、彼らにわかりやすく勉強を教えるだけのスキルはない。
だからと言ってまったく匙を投げてしまうのも情けないので、時々教育番組等で過去の記憶を呼び起こそうと努めていて、その一環で得た知識をどうしてもあの人物に披露したくなったいづみは、彼を談話室へ呼び出していた。
「もしもの話なんだけど。私と真澄くんが乗ってるボートが、」
「アンタと湖でデート……」
「違うからね!? ちゃんと聞いて!」
あのいづみからの呼び出しだ。LIMEで呼びかけて一分と経たないうちに真澄はいづみの元へやって来た。彼が犬なら尻尾をぶんぶんと振っていただろう。それくらい嬉しそうに目を輝かせる真澄は、喜びのあまりいづみの話をまるで聞かずに暴走していた。
その手綱をどうにか取りながら、いづみは先日テレビで見たばかりの問題を思い出しながら設定を口にする。
「あのね、もしも私と真澄くんが同じボートに乗ってたらって想像して聞いてね?」
わかった? といづみが尋ねれば、真澄は首が取れそうなほど激しく頷いた。それを確認していづみは問題を提示する。
「私たちがボートで渡っているのはワニが住む池です。渡っている途中、ボートのオールを落としてしまいました。もう少しで桟橋まで辿り着けそうです。だけど、池には流れがなく、手で水をかいて進むのはワニがいるからできません。どうすれば桟橋まで移動することができるでしょう? ちなみに、ボートの中には旅行カバンが1つだけあります」
「それってハネムーンの途中? だから旅行カバン持ってたの?」
「……想像にお任せします」
なおも妄想が暴走する真澄を適当にいなす。文武両道な真澄のことだからすぐに正解を口にしてしまうかと思ったが、この分ならなかなか正解には辿り着かないかもしれない。そんな風に思いつつ、それはそれで少しばかり自分が優位に立ったような気がするので泳がせておくことにした。
「俺が泳いでボートを押す……」
「却下。それだと真澄くんが危ないでしょ?」
「俺の心配してくれてる……優しい」
「もう……」
「アンタを抱きかかえて桟橋まで飛ぶ」
「あのね……できるわけないでしょ」
「アンタのためならやる」
確かにやりかねない。そう思いはしたものの、それはこの問題の正解ではない。いづみは首を横に振る。
いづみから呼び出されたことで悦に入っている真澄とでは、この問答は終わらないかもしれない。そう判断したいづみは痺れを切らせた。
「あのね、正解は――」
「正解は、旅行カバンを進行方向の反対側に投げる」
「……え!?」
「違うの?」
「違わないけど……」
急に真面目な返答をするものだから素っ頓狂な声を上げてしまった。恥じらいながらじとっと真澄を睨みつける。
「……真澄くんもあの番組見てたの?」
「……? どの番組?」
残念ながら彼は自分で考えて正解を導き出したようだった。
「作用と反作用。カバンを反対方向に投げたら、それと反対の力が働くからボートは桟橋に着く。あってる?」
「……完璧です」
解説までバッチリで悔しくなりながらも、じゃあどうしてすぐに正解を言わなかったのかといづみが問えば、真澄はせっかく呼び出されたのだからこの時間を楽しみたくてじゃれついてしまったのだと教えてくれた。それが更に敗北感を増幅させていづみはがっくりと肩を落とす。もっとも、賢い真澄のことだから簡単に正解しても不思議ではないと思ってはいたのだが。
それではなぜそんな簡単な質問を彼に投げかけたのか。
それはこの問題を見たとき真っ先に思い出したのが、高校二年生の頃の真澄の顔だったからだ。すっかり忘れていた、わけではないが、いづみの胸の中にあった大切な思い出がこの問題を通じて思い起こされたから。だからいづみは真澄の顔が見たくなった。
――アンタの芝居が好きだから、俺も同じようにがんばっただけ。
――あんなに下手で大根なのに。
――関係ない。
「……あの日、真澄くんがカバンを投げてくれてよかったなって」
「……? 何の話?」
芝居の未練へ引きずり込まれないで済んだのは、彼が好きだと言ってくれたから。役者としての立花いづみを好きだと言ってくれたから。その反作用で総監督という桟橋に辿り着くことができた。大袈裟でなく救われたと思えた。
「わからないならいいよ。だけど、改めてありがとうね。真澄くんがいてくれてよかった」
「……よくわからないけど、今日のアンタいつにも増して可愛い」
だから公演でスワンボートデートしよう、とねだる彼。そのお誘いにゆっくりと頷いて玄関へ向かう。
きっと温かな春の日差しが気持ちいいだろうと思えば、靴ひもを結ぶ時間さえじれったく感じられた。