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89.信号機
ルームミラーの角度を調整する。座席の位置を動かす。シートベルトをして円陣をかけるまでの一連の流れはすっかり様になっていた。
「よーし、それじゃあカントクさん。よろしくおねがいします!」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
ぺこりと互いに頭を下げて笑い合ったところで、いよいよ三角がアクセルを踏んだ。
「カントクさんに乗ってもらうのはじめてだからキンチョーするかも〜」
「大丈夫だよ。三角くん安全運転だって評判だから」
この春、知らない間に免許を取っていた三角の運転で郊外のショッピングモールまで出掛けることになったのは昨晩のこと。最近バタついて、それでもやらなければならないことが山ほどあって気が休まらないと思っていたときのことだった。
ちょっと遠くにサンカクを探しに行きたいのでそのついでで乗っていかないか、との申し出は忙しいことを考えれば遠慮しておきたかったのだが、三角の中ではほとんど決定事項だったらしい。有無を言わせぬ雰囲気に飲まれていづみはやむを得ず首を縦に振るしかなかった。どのみち買い出しには行かなければならないのだ。だったらこの機会を利用しよう。
結果としてその判断は正しかったな、と滑らかなハンドルさばきを横目に思う。車があればある程度まとまった買い物もできるし、あのショッピングモールは日用品が安い。何より足が楽だ。三角が言い出してくれたおかげでずいぶん助かった。
それからしばらく行ったところで信号に引っかかった。信号が黄色のうちからきちんと減速できていてえらい、と褒めると三角はむっとした顔をした。
「カントクさんは信号守れないでしょ?」
「え!? いやいや、交通ルールはちゃんと……」
「そうじゃなくて」
むにっと頬を指でつままれる。ずいっと三角の顔が迫ってきてどぎまぎしていると、口をへの字に曲げたまま彼は「黄色」と口にした。
「き、黄色?」
「そう。カントクさんのお疲れ信号、もう黄色だよ。赤になる前に止まらなきゃ」
「そ、それは……」
どうやら疲れているのを見破られていたらしい。のんびりサンカクのことばかり考えていると見せかけて、意外と鋭いところがあるというか、仲間想いで優しい三角らしい指摘だった。
「おかいもののところまでもう少しかかるから、それまでは寝なきゃダメだよ」
そう言って三角はパット手を離す。前方を確認すると、歩行者用の信号が点滅していた。もうじきこの信号が変わるタイミングを察したようだ。
「あのね、カントクさん」
目の前の信号が青になる。急発進することなく、緩やかに加速していく車の中で三角は優しく言う。
「青になったら走っていいよ。だからそれまでは、おやすみなさい」