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8.キスミー(誉いづ)
あの細い体の中にどれだけの言葉が詰まっているのだろう。
湯が沸くのを待ちながら、ソファーに腰掛ける恋人――誉の横顔を観察する。サラサラの髪、長いまつげ、筋の通った鼻。どれもこれも羨ましいが、その中でも特に欲しいのはあの唇だと思う。
きっと一生かかっても彼の持つ言葉の何パーセントも自分は手に入れられないのだろう。別に詩を諳んじることも、脚本を書くこともないのだから平凡な語彙力があれば十分だ。それでも欲しくなってしまうのは、と思ったところでやかんがピーッと音を立てる。電気ケトルが一般的な世の中では、このやかんの音は幾分レトロに聞こえる。事実、静かに本を読んでいたはずの誉は「ひらめいた!」とやかんの音にインスピレーションを受けて何にやら詩を朗読し始めている。まったく、人に紅茶を淹れさせておいていいご身分だ。確かに今日は一段と冷え込むから温かい飲み物が欲しくなる気持ちもわかるけれど。
文句げに息を吐きながら紅茶の缶を取るために背伸びをする。なかなか取れない、と格闘していると背後から溜息が聞こえた。溜め息を吐くくらいなら最初から飲みたい茶葉を下ろしておいてくれたらいいのに、と振り返る。
すると彼の端正な顔が思いのほか近いところにあって、それこそちょうど欲しいと思っていた彼の唇が今にもくっつきそうな位置にある。
いつもいろんな飾りを纏ってこちらを翻弄する魔法の唇。この唇を「してやられた!」と悔しげに歪めるのが密かな目標だったりするのだが、そのためには自身の語彙力では太刀打ちが出来ない。
「……欲しいなぁ」
思わずつぶやいてしまってハッとする。
「ん? 何がだい?」
紅茶は取れたよ、と誉が缶を差し出しながら首を傾げているのが見えた。その表情があまりに余裕綽々で、こんなに近いのに顔色一つ変えない彼が憎くって。
だからこの際、言葉が足りなくてもいいから何か仕返しをしてやろうと口を開く。
「……くちびる」
なるほど。知らなかった。たった四文字一単語でも彼を動揺させることが出来るらしい。
これはなかなか気分がいい、と笑みを溢す。
その仕返しなのか、要望に応えてくれたのか、雄弁なはずの彼の唇がしばらく沈黙の後、やがてこちらの唇を塞いだ。
結局、彼の唇が動こうが動くまいが振り回されるのは自分の役目か。そう思うのに気分は悪きないから本当に困ったものだと思う。