出口はない

ぱちぱちと炎の揺れる音がする。
ふと目が覚めると、そこはいつのまにか見慣れてしまった部屋の中で、すぐに夢の中だと分かった。やたらと豪華そうな家具が揃えられた空間は、彼が作り上げた二次元である。炎の音の元である暖炉の上には堂々とした肖像画が壁にかけられており、額縁の中で王冠を被る友人が鎮座していた。

本物は一体どこに、と辺りを見回すと、知らぬ間に目の前に黄色のそれが迫ってきていて思わず大きな声が出る。まんまるの目玉が半月になってこちらを見下ろす彼は、この部屋の主、ビル・サイファーその人であった。いいや、正確には人ではなくタチの悪い悪魔らしいのだけれど。

「ハハハ!良い叫び声だ、我が友よ」
「急に出てくるのやめてよ…」
「久々に会うきみの驚く顔が見たくてね」

機嫌が良さそうに半月から三日月へと変わっていく。するりと伸びてきた小さな手は腕に巻き付いて、地べたに座る私を椅子の方へと招き入れる。
されるがままに従えば、彼は満足げに真っ黒のステッキを回した。

「さあさあ、今日はなにがお望みかな?パッチリ目の覚める目玉入りのブラックコーヒーでも淹れようか」
「夢の中とはいえ今は夜だよ、ビル」
「三次元のきみにはなんら影響はないさ。ああ、でも万が一、プラシーボ効果かなにかできみが目覚めれば、この逢引きはすぐに終わってしまうからね」

せっかく会えたのに、それは勿体無い!
くるくると大袈裟に回る彼は、そのうちすとんと私の膝へと落ち着いた。物理的にはなんの重さもけれど、ぞわりとするような悪寒と精神的な重みがのしかかる。ビルのことはすきだけれど、この感覚には未だ慣れなかった。

「ではカモミールティーにでもしようか。安心しろ、生き血は混ぜていない」
「…うん」

物騒な言葉はジョークなのか、それとも本気なのか。恐らくは後者だろうな、といつも彼を見ていて思う。

彼が私の夢に出てくるようになって、どれくらい経つだろう。ミドルスクールのころからひょっこり現れるようになった彼は、いつからか私の友人を名乗り、ずっと私の片腕にその黒のフォークみたいな手を巻き付けている。
彼がなにか良くないものなのだとぼんやり気が付いたのは随分と昔のことだけれど、それでもその手に絡み取られるように、彼を拒絶できなかった。どんな存在だとしても長いこと夜を共にした友人がすきだったし、彼は彼でここから立ち去ろうとも、私を手放そうともしていないようだった。

ば、と目の前に湯気が立つ。魔法か幻想か、彼が先程言ったようにカモミールティーが置かれていた。変な色も、変な臭いもしていない。恐る恐る一口飲むと、思ったよりも熱くて舌を火傷した。

ひりひりと痛む舌に顔を歪めれば、その様子を見ていた彼は愉快そうに笑った。相変わらず性格悪いなあ。からからと楽しそうな彼はひとしきり笑った後、人が変わったようにひんやりとした空気を放つ。嫌な予感がした。


「さあ、お茶の準備もできたところで、言い訳を聞こうじゃないか」

満を持して、というように。ビルはゆったりと話し出す。

「…なんのこと?」
「きみが悪魔避けの守りをつけていたことだ。随分強力なようだったが、誰から押し付けられた?」
「…気付いてたの?」

そう、「拒絶できなかった」というのは、ごく最近に気付いたことであった。私には心霊や非科学的なことに強い友人がいる。ついこの間、彼女にビルの存在をどうも悟られたようで、「あなたには何かすごく悪いものが憑いている」と、魔除けのブレスレットをもらったのである。

断るのも憚られるし、彼が一緒にいると良くない存在だということは分かっていたので、これを機に距離を置けるかもしれない、とふと思ってしまった。「強い悪魔」を自称する彼には効果がないかもとも考えつつ、気まぐれに数週間付けてみたのだ。ただ、意外にもというか、逆に思った通りというか、先に耐えられなくなったのはブレスレットではなく私の方だった。やはり、十数年共に過ごしてきた代償はかなり大きい。

「いつものようにきみの元へ行こうと思ったら、なにやら結界のようなものが張られていたからな。」
「……」
「壊せなくもなさそうだったが、きみの様子を見ていたら本意ではなさそうだったから、少し放っておくことにした。考え直してくれて嬉しいよ」

にや、と一つ目が三日月に父ける。全てはビルの掌の上だったということか。軽々膝の上から離れた彼は、ずい、と私の眼前へと身体を運ぶ。細められた目は私の全てを見通しているようで、ふるりと指先が震えた。

「友達に、もらって。一応つけてただけだよ。悪魔の手先だと思われても嫌だし」
「確かにそれは賢明な判断だな」
「ビルに会えなくてさみしくなっちゃったから、取ったの」
「ああ、知っているさ。きみが私から離れられないことなんてね」

小さな手が私の頬を伝う。触れたところが先程の火傷のようにひり、と熱を持って、すぐに冷めていった。目の前の黄色の端に、青く揺れるものが見える。

「しかし、そんなぽっと出の友達一人に簡単に割かれてしまうような関係ではつまらないだろう?」
「………」
「もっと強固なものにしよう。そう、きみが長年の友を失って寂しがらないように」

私に会えなくなってしまうのは嫌だろう?と。その問いに頷いてしまう私は、もうとっくに人としての善を捨ててしまっているのだろうか。この悪魔に囁かれれば、絡め取られた私はいいえとは言えない。ちりちりと心を焦がす炎が、私の指先を引き寄せる。

「きみは私と共にある。これから先、ずっとね」
この手を取れ、我が友よ。




かわいらしかった人間の友達の顔がもう思い出せない。いつかもらったブレスレットは粉々にされてしまって、夢の溝に消えていった。ぱちりと目を開ければ、まだ趣味の悪いソファの上で微睡む私がいる。

「おはよう。ご機嫌は如何かな?」
「おはようビル。今日も真っ暗だね」

もうどれほど朝日を見ていないのだろう。窓のないこの部屋では今何時なのかもよく分からない。
そもそも、この世界に外はあるのか。くるりと丸い彼の目玉に、何年も変わらない私の姿が映る。

「…今日もどこか行くの?」

忙しなく動く彼にそう問いかけると、ビルはじっと此方を見つめる。それに肯定の色が滲んでいるのが分かった。
最近、ビルはやたらといろんなところへと飛び回っているようだった。なかなかここへ戻ってこないこともしばしば。なにやら企んでいるのは楽しそうな様子を見ればすぐに分かることだけれど、一体なにをやらかそうとしているのか私には見当もつかない。

「……ちゃんと帰ってきてね」
「ああ、勿論だとも。きっともうすぐ、きみにも良いものを見せることができる」

咎めるように頭を掬われてしまえば、黙ることしかできなかった。ねえ、他の誰かのところに行っちゃうの、と言葉は出ないけれど、彼はきっと全て分かっている。

「約束しただろう?私はきみと共にある」

私の一生を奪ったのだから、どうか捨てないてほしい。気まぐれな悪魔にそう願ったとて、叶えてくれるかも分からないけれど、私はどうやっても、彼に身を寄せることしかできないのだ。




「ああ、もしかしたらきみを現実の人間に会わせる機会があるかもしれないな。松の木は存外警戒心が強くてね。無害なきみならば、うまくやれるかもしれない。」
きらりと、絵の中の冠が輝く。一つ目の視線の先はあの肖像だった。
どこからか、夏の香りがする。いつのまにか入った松の葉が、風に吹かれてかさ、と音を立てた。

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