お兄ちゃん

昔、学校の先生に「お母さん」と呼びかけてしまったことがある。

誰だって人生で一度くらい、そうして言い間違えることがあるだろう。言い終わってから、いや、「お母さん」の「お」辺りを声にした瞬間からもう既にやってしまったと後悔するのだけど、脳が口を止める前に最後まで言葉にして出てしまうのが常である。
顔から火が出るほど恥ずかしく、しかも周りに人でもいたら最悪で、当分は話のネタにされること間違いなしであった。今ではもう笑い話にもならない子供の些細な記憶だけれども、当時の自分としてはかなり重大な失態で、暫くは引きずっていたように思う。

そんな経験があったから、もう二度とあんな思いはしないよう気を付けてきた筈だった。だったのだけど、やはりなかなか人の性質とは変わらないものである。

「あ、待ってお兄ちゃん」
「………はい?」

二人で買い出しに行くところであった。なにか甘いものが食べたくなって、それをなんとなしに伝えたらマヨイくんが作ってくれるというので、内心浮かれていたのも原因としてあり得るかもしれない。

とにかく、私は完全に気が抜けていて、過去の反省をすっかり忘れて口を開いてしまったのだ。ぽかんとこちらを振り向くマヨイくんの声に、はたと自分が言った言葉に気が付く。

「……お兄ちゃんじゃないや、間違えた。ごめん。うわ、恥ずかし」
「い、いえ…大丈夫ですよ。少しびっくりしましたけれど。お兄さんがいらっしゃるんですか?」
「うん、でもあんまマヨイくんには似てない…もっとガサツっていうか。あー、なんで間違えちゃつたんだろ」
「ふふ、そういうこともありますよ」

兄の話をする中で、遅れてじわじわと恥ずかしさが襲ってきた。本当のお兄ちゃんにするような愛想のない言い方でマヨイくんに呼びかけてしまったような気がするし、嫌な気分にさせていなければ良いけれど。
ちらりとマヨイくんの様子を伺うけれど、家を出る準備で既に私から背を向けていたので表情は分からなかった。そうだ、私も準備しないと。

「そういえば、呼び止められたのは…」
「あ!ごめん、エコバッグ持ってくの忘れたと思って」
「ああ、私が持っているので大丈夫ですよ」
「え、流石すぎる。ありがとう」

おっちょこちょいな私とは違ってマヨイくんはいつでも用意周到である。準備万端のマヨイくんを待たせないようにぱぱっと靴を足に引っ掛けて、玄関のドアを開けた。




マヨイくんが控えめに、あのう、と切り出したのは帰り道のことだ。ホットケーキミックスと、少し贅沢にホイップクリームと苺を入れたエコバッグが揺れる。うん?と返事をして彼の方に顔を向ければ、罰が悪そうに目線を逸らされた。こういう時のマヨイくんは大抵、なにかをお願いしたくて話を切り出していることが多い。

「なあに、手でも繋ぐ?」
「エッ、そんな、私なんかと…」
「繋ぎたくないかあ」
「…………つ、繋ぎたいですぅ…」
「ふ、ごめん、揶揄いすぎた」

冗談で揶揄っただけだったのに、思いの他真剣に取られてしまった。絞り出すように発せられた返事にきゅうっと心臓を掴まれてしまう感覚がする。
マヨイくんのしなやかな手に指先を触れさせると一瞬だけ震えて、そのうちじんわりと包み込まれた。どれだけ加減してるのかも分からないほど柔い力である。

さて、無事に手を繋いだ私たちであるけれども、マヨイくんの望みはそれでは無かったようで未だそわそわと落ち着かない様子のままだ。むしろ手を繋ぎたかったのは私の方だから、叶えてもらったお礼にちゃんと聞こうと今度はこちらから切り出す。

「それで、どうしたの?」
「あ…えっと、そのう……私のような矮小な生き物にはすごく勿体無いことだと分かっているのですが、あの…」
「うん」
「も、もう一度だけ、お兄ちゃんと呼んでくださいませんか……?」
「え」

予想の斜め上をいく回答であった。数十分前兄と間違えられたマヨイくんと同じように、私もぽかんとした表情をしていたのであろう。マヨイくんが急に慌てて繋いでいた手を離して勢いよく喋り始める。

「ヒィッすみません!やっぱり嫌ですよね虫けら同然の私を兄と呼ぶのは..!あまりに先程の貴女があどけなくて可愛らしかったので調子に乗りました忘れてくださいい………」
「ま、待って、別に嫌じゃないから。落ち着いて、深呼吸して」

止めどない卑下を遮って深呼吸を促すと、素直にすう、はあ、と呼吸をする音がした。何度か繰り返して静かになったところで、離れた手を繋ぎ直して口を開く。

「じゃあ、呼ぶ代わりに手離さないでね?マヨイ
お兄ちゃん」
「…はい………………」

ばきりと地蔵の如くカチコチになったマヨイくんの手を引き移動を促す。今後定期的にお兄ちゃん呼びをせがまれるとはつゆ知らず、私はマヨイくん特製パンケーキに想いを馳せながら見慣れた歩道に一歩踏み出した。

top / buck