良い匂いがする。昨日まではありえなかった帰宅直後の我が家の様子に、どきどきと胸が高鳴るのを覚えた。かつて、こんなに家に帰ってくるのが緊張した日はあっただろうか。他人の気配がする家は、今までの自分の家とは全く異なる雰囲気がある。
入った玄関先には私のものよりも一回り大きい靴がきれいに揃えて置いてあって、私もそれに倣って靴を脱いだ。二人分の靴と、彼が恐らくは夕飯を作っている香り。同棲というのはこういうものかと今やっと実感が湧いて、自然と進む足が速くなる。どたどたと音を鳴らしてはしたないと思われるのは嫌だから、細心の注意を払って小走りに努めた。
リビングのドアに手をかけてちらりと中を覗くと、案の定、というか当たり前ではあるのだけど、マヨイくんがキッチンに立っていた。機嫌良さげに作業をする姿は決して見慣れないものではないはずなのに、今日に限っては異様に気分が高揚してしまう。着替えもしないまま近付いていって、急ぐ気持ちのまま声をかけた。
「何作ってるの?」
「……アッ、ええと、今晩は鮭だと仰っていたので、お味噌汁を」
「わー美味しそう!礼瀬家のお味噌汁楽しみだなあ」
「いっいえ、そんな、大層なものでは………」
びくっと肩を揺らして私の声に反応したマヨイくんは、手元のお鍋に目を落としたまま答えてくれた。隣に立ってお鍋を覗くと、ふわりと出汁の良い匂いがする。ほうれん草とお豆腐、あと卵がくつくつと煮えているのが分かった。美味しそうだ。
「帰りに鮭買ってきたよ。着替えたら私焼くね」
「は、はい。ありがとうございます。お預かりしますね」
スーパーで買ったものが入ったエコバッグを手渡す。こんななんてことない動作でさえなんだか嬉しくて口角が上がってしまっているような気がした。真顔を保とうと顔に力を入れてみる。うまく誤魔化せているだろうか。
と、ふいに触れた彼の指先が若干震えているのに気がついた。反射的に顔を見上げると、水色の瞳と一瞬だけ目が合って、すぐにそろそろと逸らされてしまう。どうしたのだろう。
「……マヨイくんなんかあった?」
「ヒッ、すすすすすみません!挙動不審ですみませぇん………!」
「いや、それは割といつも……じゃなくて」
私、なにかしてしまっただろうか。マヨイくんが家にいることに浮かれすぎていて、気に障るようなことをしてしまったのかもしれない。さっきまでにやついていたのが嘘だったみたいに不安になってくる。
よほど顔に出ていたのだろう、マヨイくんが私の顔色を窺うようにしてちらりと此方を見た瞬間、ぎょっと目を丸くして慌て始めた。ふと鍋の中のお味噌汁が沸騰しかけて、端がふつふつと揺れているのが見える。
「あの、別になにもない、というか大したことじゃないんです!気にしないでくださいいい………」
「ううん、少しでも何か言いたいことがあるなら言って欲しいよ!これからその、一緒に住む訳だし、ね?」
「…はい、そうですね……分かりました、言います」
「うん。なに?」
マヨイくんがゆっくりと鍋の火を消した。すう、と深呼吸をして、給麗な水色が私を捉える。何を言われるんだろう。どんなことでもちゃんと直さないと、と覚悟を固めて聞く姿勢に入る。私も落ち着きたくて、マヨイくんを真似るようにして深呼吸をした。
「あの、」
「うん」
「お、おかえりなさい」
「………え?」
「こ、こんなどうでも良いことで妙な雰囲気を作ってしまってすみません…で、でも、どうしても言いたくて」
帰る連絡を貰ってからずっと言おうと考えてたんですけど、タイミングを逃してしまって……と俯くマヨイくん。紫の髪から覗く耳は真っ赤だった。なんて健気なんだろう。それに対して私という人間は。思わず顔を覆う。
私はマヨイくんの拍子抜けの回答にほっとすると同時に、気持ちが急ぎすぎていた数分前の自分への後悔が押し寄せてきていた。ただいまの一言くらい、忘れないで言うべきだったのに。同棲一日目のただいまとおはようはとんでもなく大切なものだ。マヨイくんには悪いことをしてしまった。
「いや、それは私こそごめん……マヨイくんが家にいるのが嬉しくてすっかり忘れてた」
「そ、そんな!玄関から聞こえてくるいつもより早い足音はすごく愛らしかったですし、私なんかがいることを嬉しいと思ってくれていること自体信じられないほど幸せなことですから…!私が上手く言えなかったのが良くなかったんですう……」
「え、待って、ウキウキしてたのばれてたの…?恥ずかしい…」
浮かれてたのもバレていたならにやついていたこともバレバレだったに違いない。マヨイくんに負けず劣らず私の耳も赤くなっていそうなほど暑くなってきた。
「ああ、恥ずかしがっているのも可愛らしいですねぇぇ…これから毎日見られるだなんて、なんて贅沢なんでしょう……♪」
マヨイくんの方はすっかり通常運転である。はあ、と息を乱して妄想モードに入った彼を現実に引き戻して、今度は此方がマヨイくんをこの目に捉える。きょとん、と見つめ返す彼に恥ずかしかったこともどうでも良くなってしまって、自然と笑みが溢れた。言えなかった返事がするりと口から出る。
「ただいま、マヨイくん」