黒く揺れる波に、すっと月明かりが引かれている。
暗くて周りがよく見えないから、見失わないように繋いだ手に少し力を込めた。隣で、昼間の海のような澄んだ瞳に月を写していた彼は、ちらとこちらを見て安心させるように微笑む。夜は彼の好む時間帯であった。
夜更けといえど、この夏においては決して涼しくはなく、むしろじっとりと背中に張り付くような暑さが周囲に蔓延している。昼間はかんかん照りの中、人で溢れかえっているであろう砂浜は、今は人ひとりいない静かな場所になっていた。
マヨイくんは人混みも日差しも苦手だから、海を見るなら夜が良い。折角の夏だし、と提案したひっそりとしたデートは思いの他気に入ってもらえたようで、マヨイくんは上機嫌に笑みを浮かべている。
「思ったより真っ暗だね」
「あまり灯りになるものが周りにありませんからねえ。ふふ、怖いですか?」
「ううん、マヨイくんいるから。……一人だったら結構怖いかも」
だから、置いてかないでね。いつも歩調を合わせてゆっくりと隣に居てくれる彼にとってはなんの心配もいらないそのことをわざと伝えてみると、マヨイくんは心底嬉しそうにもちろん、と肯定の意を示した。
わたしの言うことに彼が否定をすることはほとんどなくて、なんでも聞いてくれるから逆に不安になることがあるけれど、今回ばかりはその言葉に酷くほっとした。繋いだ手を離したら、二度と会えなくなるような、そんな魔力が夜の海にはあるような気がする。
波が遠のく音がする。ぴたりと足を止めたマヨイくんに合わせて、わたしも上げかけた右足を砂浜に戻した。彼の表情を確認してみるけれど、暗くてなんだかよくわからない。
「…ずっと、暗闇にいるのは嫌ですか?」
「ずっと?うーん、どうだろう」
正直、暗いところは怖い。誰もいないのなら特に。
でもマヨイくんは暗いところが多分好きなのだろうから、好みの齟齬を明らかにするのが躊躇われて、思わず濁した。口籠る私に、おそらく全て分かっているマヨイくんは笑みを溢した。その笑みが、寂しげじゃないといいなと願う。真夏の湿気でじわりと汗ばんできた手だけれども、離そうなんて微塵も思わなかった。
「一人だったら、嫌でしょう?」
「…うん、一人だったら嫌だなあ」
でも逆に、誰か他にいたのなら。自然と引き出される仮定に、出てくる人なんて一人しかいなかった。矢継ぎにそれを口にする。
「でも、マヨイくんがいるなら別にいいよ」
「......それは、何故?」
「なんか、多分、そこから連れ出してくれるから。ほら、夜目効くでしょ」
波が戻ってくる音がする。ぱ、と海の方に目を向ければ、砂浜にきらりと光るものが見えた。つい、彼の手を引いてそちらに歩き出してしまう。マヨイくんはなにも言わずに着いてきてくれた。
「見て、これ。綺麗」
「シーグラスですか?暗いのによく見つけられましたね」
「月明かりが反射してキラキラしてたから。ね、持って帰ろうよ」
「ええ、何かに加工できそうですね」
砂浜からそれを拾い上げて、月に緊す。少し濁った石に透き通る光でも、十分に綺麗だった。もうここに来てから、気づけば三十分近く歩いている。
そろそろ帰ろう、と提案すれば、もちろん承諾の返事が返ってきた。
あっけからんに言いのける彼女に、私はなにも口にすることができませんでした。無邪気に海の宝石を月に翳してはしゃぐ姿を見つめながら、私の頭はもっと深い海の底にいる気分でした。
「そこから連れ出してくれるでしょ」。
当たり前のようにそう言った彼女に私は、連れ出してくれたのは貴方の方なのだと、まず思って。その後に、もし彼女が暗闇に迷った時に私が救い出せるかと考えて、自信を持って肯定はできませんでした。
ええ、道さえ分かればもちろんそれは可能ですし、できるかできないかでいえばできるのです。そうではなくて、それを私がするかしないかと言う話で。
怖いけれど、私がいるから大丈夫だと笑う彼女を見て、少し不安そうに手を握る力を強めたのを感じて、私はこのまま朝が来なければ良いのになんて思ってしまったんです。だって、光の中では貴方はどこへでも行けてしまうけれど、暗ければ離れず傍にいてくれる。
なんて自分勝手で我儘なんだと自己嫌悪するほど傲慢な考え。ええ、でも、私は彼女と出会ってから随分と欲張りになってしまって、もうどうしようもないのです。いつか、私の慣れ親しんだ暗闇に彼女を閉じ込めてしまうような気がして、そんな私になってしまわないように祈ることしかできない。
彼女が嫌がることはしないつもりではいるのですけれど、あの人は寛容で、私の望みならばと叶えてしまうところがあるから。今日だって、本当は昼間の明るい海に来たかったはずなのに、私を気遣って時間帯を考えてくれたのでしょう。
私には勿体ない、優しくて、素敵な人です。
「マヨイくん、そろそろ帰ろうか」
振り向いた彼女に、意識が引き戻されました。ええ、と返事をして、手を引かれるままに砂浜を歩きます。こうして手を引いてあげられるような強い人間であればよかったのに、と。さあと吹く潮風に、滲んだ汗が痛んだような気がしました。