いつかは、手放される身だと思っていた。
わたしなどはすぐに、彼の望む清らかでなにもしらぬ少女ではなくなるし、現に今、こんなことを考えている時点で昔のような小さい弱きものではなくなっているのだ。未だ恋人の純情さを信じ切っている彼が思うより、わたしはもう子供では無い。つまるところ、わたしは日に日に歳を重ねる自身の身体や思考を疎ましく思っていた。
マヨイくんは、直接そうわたしに言ったわけではないけれども、わたしの不完全さを愛していたように思う。
彼よりも数年ではあるが遅れて産まれたわたしの、なにもできない不器用さに、なにもしらない無知さに、彼は価値を見出していた。幼いわたしはそう大して歳も変わらない優しいマヨイくんへの憧れ、言い換えれば恋慕に染められていたものだけれど、彼のほうは恐らく逆で、よく懐く年下の少女への庇護欲に塗られて手を引いてくれていたのだろう。
昔は気付かなかったことも、今となればぼんやりと察しがつくようになってしまっている。あれもこれも、大人に近付いてしまっていることを思い起こさせて、焦燥に駆られる要因となっていた。
「なまえさん」
夜はすっかり更けて、カーテンの隙間から見える月が爛々と輝いている。
まだ入ったばかりの冷たい布団の中で、悶々と思考に呑まれるわたしを現実に引き戻すように、マヨイくんは毛布の端から飛び出した手を握った。温かい体温が指先に伝う感覚にはっと彼と目を合わせれば、ゆるやかに口角が上げられて鋭い歯が露わになる。
「手が冷えてしまっていますよ」
「そう?」
「ええ、ちゃんと毛布の中に入れておかないと」
優しく手の甲を撫でる手付きに、安堵する。貴方にそうしてもらうために、わたしがわざと手を出したままにしていたなんて伝えたら、彼は一体なんと言うのだろう。彼の前では、つい出来ることも出来ないように振る舞ってしまう。
これを甘えと言うべきなのか、瞞着と言うべきなのかはわたしには分からないけれども、心の内でどこか罪悪感を感じていることは明白であった。
「なんか、寝れそうにないな」
「ふふ、なら、私が寝かし付けて差し上げましょう…♪」
ぽつりと、独り言のように呟いた声にも、彼は律儀に反応してくれる。いつもよりも数段機嫌の良さそうな、楽しそうな声に、自然と胸が高鳴る。やはりわたしは、よくわからないようで意外にわかりやすい、彼のことが好きでたまらないようである。
いつもは三つ編みに纏められている髪が、はらりと肩から落ちてわたしの頬に触れた。ベッドが彼の重みで軋む。一瞬だけ控えめに落とされた愛情は、額に溶けて滲んでいった。
紫色の線の隙間からちらりと見える肌色に朱が差しているのを確認して、なんとまあ可愛らしいものだと隠れて笑う。可愛いだなんて年上に使うものでもないのだけれど、それ以外に形容する言葉が見つからないのだ。マヨイくんが関わると低下してしまう語彙は、わたしの未だ発達していない部分を残していてくれるようで、酷く安心する。
「おやすみなさい、いい夢を」
とんとん、と一定の間隔で受ける柔い刺激に、だんだんと瞼が落ちてくる。ぼんやりと微睡む思考の中、いつか温もりが消えてしまうその時には、ちゃんとこの手を離してあげなければと、重ねられたままだった左手を毛布の中へと戻した。
寝付きの良さは昔からでした。数分前に寝れないと溢した彼女は、既に眠りの底へと落ちてしまっています。
「ふふ、ふふふ…」
こんな私の前でも無防備に寝てしまって、なんて愛らしい子でしょうか。彼女の枕元に立って寝顔を見ることはそう珍しいことでもないのに、毎回どうしようもなく愛おしく思ってしまうのだから不思議なものです。
私が傍にいては、彼女が不幸になってしまう。そんなことは随分前から分かっていて、汚れた私は彼女から離れなければいけないことも十分に理解していました。けれどもあの眼差しを向けられてしまっては、去ろうとした足もいとも簡単に止まってしまう。もう少しだけ、などと言い訳をしていつまでも彼女の頬に触れていることの、なんと罪深いことか!周りの人々の温かさにすっかり慣れてしまった私は、随分と強欲になってしまったようです。
窓からの月明かりを遮断するカーテンが、かさりと音を立てました。真っ暗な闇の中で、彼女が寝る寸前に離された左手を、もう一度そっと握ります。私は彼女が大人になって、私の元から離れることを望んだ時、この手を解いてあげられるでしょうか。優しいままの、私でいてあげられるのでしょうか。