緩やかな感化

我儘な貴方が好きです。人を堕落させる気しかないマヨイくんの言葉は、非常に意思が弱く面倒くさがりなわたしを怠惰な人間に仕立て上げるには十分すぎた。

数十分前に、独り言と同じトーンで呟いた「おいしい手作りプリンが食べたい」という願望を目敏く拾い、実現しようとキッチンに立ってくれている彼の横顔を眺める。るんるん、といった擬音がつきそうなぐらいにご機嫌なマヨイくんは、わたしに好かれる為に無理をしている訳ではなく、本当に好きでやっているようである。

人の欲は止まることを知らない。一度許されて仕舞えば、その後幾度も自身の望みを吐き出し、以前のようにその通りになることを期待してしまう。

幼い頃に受ける教育の大凡は、周りへの配慮としてそのような期待を抱かぬように我慢させるのが常ではないかと思うのだけれど、彼はその真逆を走り抜けているように見える。世間話の延長で口にする、これがしたい、を一々聞き入れ、あまりに献身的に尽くしてくれる姿は一種の恐れさえも抱くほどだ。勿論、そういう理解しがたい所も彼の魅力である。彼の知り合いからは、本人のそういう部分を変態、などと称されているようであるが、そうであればわたしはその異常さも漏れなく愛しているのだ。




どろどろとボウルの中で混ざるプリンのもとは、宛らマヨイくんから貰う愛情のようである。まだ液状のそれは未完成でありながらわたしの視線を惹きつけて止まない。この甘さに釣られてボウルの中に入ってしまったら最期、きっと水よりも重たい波に呑まれて溺れてしまうだろう。

ふと、お菓子独特の甘ったるい匂いが鼻をくすぐった。バニラエッセンス。ぽたぽたと吸い込まれるそれを眺めて、その目があまりに真剣に見えたのか隣でマヨイくんが笑った。ふふふ、なんて、まるで耐えきれなくなったみたいに笑う彼の可憐さには、女である私も屈服せざる負えない。

「なあに笑ってんの」
「ふふ、すみません。私の手元をじっと見つめるなまえさんが可愛らしくて」
「機嫌良さそうなマヨイくんの方がかわいいよ」
「えっ、いえっそんな、私など疎まれて一生を終える虫けらとなんら変わりませんからあ!」
「プリン作ってるときに虫の話しないでよ」

焦ったように首を振っている間も休まず手を動かす彼の器用さと、一度口を開くと止まらない自虐とのギャップで、今度はわたしが笑ってしまった。いろんなことができるマヨイくんはもっと自信を持ってもいいのに、びっくりするぐらい自己評価が低い。もしかしたら、自分のことがあんまり好きじゃないのかもしれない。でもそういう気持ちになるのは分かるから、わたしがその分マヨイくんを好きでいてあげたいと思うのだ。

そう考えているうちに、プリンの液体はいつのまにか濾されて、蒸す準備に入ったようだった。器越しに水に漬けられてオーブンに入ったプリンたちが、揃ってこちらを見上げている。

「プリンできるまでなにする?」
「貴方が望むものなら、なんでも」
「またそう甘やかして」

口では咎めるような言い方をしつつも、内心ではその優しさをずっと享受したいと願っている。昔はもっと我慢の効く、欲の少ない人間であったと思うのだけど、マヨイくんに毒されてしまった今ではすっかり我儘になってしまった。コミュニケーションが苦手なふりをしながら、慣れて仕舞えば自分のテリトリーに引き込むのが上手なひとである。




水が落ちる音がする。蒸している間に使った器具を洗うマヨイくんの横で、わたしは洗い終えたそれを拭く係をしていた。

一瞬、ちらりと何かの端が下の方で動いたのが見える。目の焦点をそちらに合わせて確認すると、マヨイくんの着るエプロンの後ろの紐が解けていて、ふらふらと宙を彷徨っていた。結び直すために紐を持ち、腰の辺りに手を回す。

「ぴゃっ」
「え?ごめん、びっくりした?」
「い、いえ………だ、大丈夫、ですう……」

悲鳴と形容するにはあまりに独特であった。なるほど、突然のことには変な鳴き声をこの人はあげるのだな、と心の隅にメモをし、マヨイくんの情報がまたひとつ増えたことに心地良い感覚を覚える。

彼はわたしのことを色々知っているようだけれども、わたしは彼のことをあまり知れていないのだ。根掘り葉掘り聞くのも、彼の控えめな性格を考えると憚れて、だから言葉や行動の端々から読み取れることを覚えておくようにしている。

さて、そんなことを考えているうちにエプロンの紐は結び終わって、なかなかに綺麗な蝶々結びがそこに鎮座していた。マヨイくんの三つ編みのリボンをいつか結んでみたくて、何度か練習した甲斐があったものである。今はまだ彼に見せられないけれども、いつかは披露したい。

「紐、取れてましたかあ…?すみません、お手間を取らせてしまってぇ…」
「いえいえ、むしろもっとやらせてほしいくらいだよ」

いつも我儘聞いてもらってる分、マヨイくんの役に立ちたい。結ぶくらいじゃお返しにならないし、マヨイくんもわたしに我儘を言ってくれたら良いのに、謙虚なのか萎縮しているのか、なかなか彼は甘えてくれない。

「なんか、してもらいたいこととかないの?」
「ひえぇっそんな、恐れ多いですうぅぅ…」
「そう言わずにさあ」

ぴと、と背中にはりつけば、びくりと肩が跳ねて固まった。ブリキのおもちゃみたいにがたがたの動きで首だけこちらを向くマヨイくんの顔は赤く、けれども嫌がっている様子では無かったので安心する。むしろ、口角が微妙に上がっているような。

「じゃ、じゃあ、あの、ひとつ、お願いしてもよろしいでしょうか……」
「うんうん、いいよ!なにがいい?」
「そのお……プリンが出来上がったら…これを、貴方の口に運ぶ権利を下さいませんか……」
「……わたしが、マヨイくんに、あーんしてもらうってこと?」

どきどきしながら待った言葉は、思わぬ方向に着地した。それ、普通はわたしがマヨイくんにやるパターンではないのだろうか。

しかし、「はいぃ……」と必死になって声を絞り出す彼は本気なようである。それではわたしがまた甘やかされているような気もするけれど、お願いはお願いだし、なによりマヨイくんがそれを望んでいるのならば断る理由はない。わかった、と一言肯定を示せば、ぱっと顔が輝いて酷く幸せそうに笑うものだから心臓が煩くなってしまう。

「ふふふ、ふふふふ…一口一口、私の手からなまえさんの可愛いお口に食べさせてあげられるなんて…!想像するだけで楽しい…♪」

怪しげな笑みと恍惚とした表情で呟くマヨイくんに、変態と呼ばれる由縁はおそらくこのテンションの上がり方だろうな、と一人納得する。この後、まさかこのプリンひとつを全部、マヨイくんから食べさせてもらうなんて思いもせず、刻々と出来上がっていく甘いご褒美に胸を高鳴らせたのであった。

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