望む水槽に漂う

鉄の匂いがして、ああ帰ってきたんだなと思ってしまった自分に驚愕した。

最初は何事かと飛び起きて、暗い部屋で動く影にどうしたのと声をかけたものだけれど、慣れとは恐ろしい。何度か同じようなことがあれば、そういうものなのかと納得できない自分を宥めて、布団に潜りっぱなしで寝たふりをするようになっていた。

月に数回だけ、真夜中に帰ってくることを深く追求するのも、ベッドの横のスタンドライトをつけるのも、臆病なわたしには全て億劫で、なにも気付いていないふりをしている。




一番最初の夜は、ばっと身体を起こして彼の安否を確認した。あまりに濃い血液の匂いに、焦って怪我してる?とベッドを抜け出そうとしたけれど、彼はいいえとだけ答えて半分だけ出たわたしの脚をベッドへと戻した。

大丈夫ですから、気にしないで眠っていて。外から帰ってきたには珍しく、手袋のない素手でわたしの額に触れた彼に、喉の奥の方でなんでという声が引っかかる。決して彼との時間が少ない訳ではないわたしは、彼が言外に伝えようとしていることが手にとるように分かってしまって、口を閉ざさざる得なかったのだ。

「なまえ」

掠れた声が、すぐ左から聞こえる。少しだけ手に触れた手はやはり素手で、体温の低い彼らしく冷たく冷え切っていた。恐らく夜目の効く彼はわたしが寝ていないことに気付いているのだろう、小さな声で囁かれるおやすみは確実にわたしに届くように発せられていた。




なんの仕事をしているのかとか、なぜそんなにエスコートに手慣れているのかとか、どこの出身なのかとか、そういうことをわたしは何一つとして知らない。

いつのまにかお付き合いして、いつのまにか同棲して、いつのまにか離れられなくなっていた。新手の詐欺かと思えど一向にそんな素振りはなく、ただ与えられるばかりである。彼について知っていることといえば、名前と、料理が上手なことと、わたしを愛してくれていることぐらいだ。

朝起きると、既にジェイドくんは家を出た後であった。ダイニングテーブルにラップのかかった朝ごはんと書き置きがあったので、付箋に書かれている通りにレンジで温めて食べる。

「今日は早く帰れそうなので、夜一緒に映画でも観ましょう。」 隅に描かれたきのこのイラストはなんなのだろう。わたしはあまり好きじゃないけど、冷蔵庫を見るとしめじが常備されているところを見るに好物なのだろうか。

憶測するだけで別に本人に聞こうとしないわたしは、秘密主義っぽい恋人のプライバシーを守れる彼女なのか、それとも恋人のことを知ろうともしない酷い彼女なのか。もうそんなこともとっくに分からなくなっている。

「今日なにしよ」

仕事は、同棲するときに辞めてしまった。彼の要望である。そも、わたしは仕事が好きでは無かったし、普段我儘など言わないジェイドくんが珍しくしつこく勧めてきたので承諾してしまった。今思えばなかなかに無謀なことをしたなと思うけれど、多分辞めるまで彼は諦めなかったと思うから不可抗力である。

ふと、廊下の方を見た。ダイニングから空いたドアの向こう側を見る時、一番に目に入るのはジェイドくんの自室である。

仕事の資料などの関係者以外には見せられないものがあるので入らないでくださいね、と言われている。多分施錠魔法がかかっているし、ジェイドくんからの信頼が無くなってしまうとわたしは路頭に迷うこと間違いないので、そのドアノブに手をかけたことはない。

「……どっか出掛けるか」

彼の部屋を素通りして、自分の自室へと戻る。寝るのは彼と同じ寝室だから殆ど物置兼更衣室みたいになっているけれど、どこもかしこもジェイドくんの匂いが残るこの家で、唯一わたしにとって無臭の部屋がここだ。

彼が以前褒めてくれたワンピースを引っ張り出して、パジャマを脱ぐ。二日ぶりくらいの外出は、少しだけわたしの不安を拭い去ってくれていた。




「ただいま帰りました」
「おかえり、おつかれさまー」

朝の予告通り、彼はいつもよりも一時間ほど早く帰ってきた。夕飯を作っていたエプロン姿のまま彼に近付けば、ぎゅっと大きな身体に包み込まれる。

今日はいつも通りの、嗅ぎ慣れたジェイドくんの香水の匂いがして、無意識にほっとしている自分に気付いた。怯えるくらいなら聞いて仕舞えば良いのに、出そうとした声はつっかえて喉を通らなくなるのだから困ったものである。

「なんか、美味しそうな匂いがします」

ぱちぱちと目を開閉する姿は子供のようで、普段の数倍可愛らしさが増していた。そんな表情が見られるなら、あまり食べないものを作るのも悪くないな思う。なんとなくで決めた献立だけれど、思わぬ収穫があった。

「今日はね、シチューです」
「珍しいですね、なまえが作るのは初めて食べます」
「スーパー行ったらそんな気分になって。ジェイドくんのほど美味しくないかもしれないけど」
「いえ、楽しみです。着替えてきますね」

とたとたと廊下を歩く音はいつもよりも速いような気がした。前にある大きな背中を見送って、そういえばサラダ作るの忘れてたなと思い出してキッチンに戻る。シチューにこっそりマッシュルームも入れてみたのだけど、果たして反応はあるのだろうか。




「なに観ますか?」
「なんでもいいよ、ジェイドくんの好きなやつで」
「そんなこと言ってるとホラー映画にしてしまいますよ。ほら、最近話題のあれとか」
「それは困る」

一人よりも、二人でいる方が気が紛れて良い。昨日みたいな帰りが遅い日の後は特にそうで、だから今日早く帰ってきてくれたのはわたしにとって救いであった。なにも考えずに話せるこの時間は、酷く息がしやすい。

夕飯は好評であった。特に、マッシュルームに感動していたようだった。きのこ好きなの、と口をついて出た質問は大したことじゃないけれど、ええ、そうなんですと普通に返された返事と、自分がまだ彼に個人的なことを聞ける勇気があったのだという事実に、最近重くのしかかっていた肩の荷が降りたような気がする。

「じゃあこれは?ヴィル・シェーンハイトがヴィランやってる」
「ああ、いいですね。そうしましょう」
「よし、飲み物取ってくるね」

今日は炭酸のジュースを買ってきたんだよ。そうソファに座る彼に声をかけながら、ぱちぱちと音を立てるそれを注いだ。冷蔵庫にボトルを仕舞って、二つ分のコップを持っていこうと振り返ると、一瞬の隙にジェイドくんがそこに立っていてどきりとする。

「び、っくりした」
「すみません、離れているのがさみしくて」
「すぐ戻るのに」

冷たい手がわたしの指を絡め取った。その血の通っていないような温度に昨夜のことを思い出して、ぴくりと指が反応してしまう。

気付かれただろうか、昨日と違って明るい部屋では彼の表情が分かるのに、見上げてもなにを思っているのか分からない。分からないのが、怖かった。

「あのさ、その、」

昨日って。驚くほどするりと飛び出した声を認識して、背中に冷や汗が垂れる。一体なにを口にした?今日はなにか可笑しい。ジェイドくんの好きなものを知れたことで、決して良いとは言えない勇気が湧いてきてしまっているのだろうか。ちらりと覗き見た彼の顔は、驚くほどいつも通りである。

「昨日が、なんですか?」

にこり。思わず見惚れてしまいそうなその微笑みは、まるで作為的に作られたかのように完璧で、それだけでわたしの喉はきゅうと閉まって、音を発さなくなってしまった。ああ、今回もやっぱりだめだった。

「あ、ううん、その、会えなくてちょっとさみしかったから、ジェイドくんもそう思ってくれてたのかなって」
「おや、素直に言ってくださるのは珍しいですね?ふふ、ええ、一日会えないだけで離れられなく無くなってしまうんです、僕」

だから今日はずっと傍にいてくださいね。額に寄せられる唇は心臓が痛くなるほど幸せなのに、ずっと視界に靄がかかっている。頬に添えられた右手はしっかりと石鹸の香りがするはずなのに、遠くの方で昨夜の匂いが鼻について、そっと彼の腕に手をかけた。

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