もうすぐ死ぬ身だとか、もう先が長くないだとか、そういうことを当たり前のように口にするひとだった。
彼にとっては当然の事実でも周りの人間からしたら耐え難く、受け入れたくないのだということを、解っているのかいないのか、ただ英智は読めない笑みで微笑むのみである。
病室の、カーテン越しに透ける太陽光がベッドを照らして、まるで彼が天使さまのように見えた。
「英智、林檎食べる?」
「うん、頂くよ」
死というものは恐ろしいけれども、その分魅力的なものである。嬉しいことも、悲しいことも、全て流されて無に帰すその性質はなんて楽なのだろうか。わたしは幽霊など信じていないし、死んだら何もなくなると思っているから、結局死によって苦しめられるのは周りの人間だけなのだろうと常々考えている。
他の人にとってはどうでもよく、本人からしたら認知もできない。その間にいる者だけが悔い、悲しみ、時に狂うその事象は酷く残酷である。
例えば、と思うことがある。この林檎を剥くナイフで自分を刺したら、きっとこの白いシーツに鮮やかな滲みを作るだろうけど、それが死に直結することはほぼ無いだろう。自分で自分を死に追いやることは難しい。
わたしが英智の後を追って、花の咲き乱れる川を渡ろうとしても、恐らくは上手くいかずに彼の手を掴むことは叶わないだろう。一生、苦しんで生きるのみである。
「ん、結構あまい」
「病人を差し置いて一番に食べる癖はいつになっても直らないね」
だって、英智は怒らないから。二番目にしゃり、と音が立つ。わたしはいつだって英智に置いていかれるのが怖くて、恐くて、なんでも先にやり遂げたくて堪らないのだ。
林檎を口に運ぶのと違って、全てが全て追い抜けるわけではない。現に英智はわたしよりずっと早くに大人の仲間入りをしてしまったし、とっくの昔にわたしの手の届く範疇には収まらない人間になってしまった。
「英智は、何事もすぐ終わらせちゃうからね」
「僕が、君の分の林檎を横取りするとでも思っているのかい?」
「まあ、そんなとこ」
わたしが言わんとすることを分かっていて、でも知らないふりをする。生き急ぐ彼の嘘はわたしの知らないうちに上手になっていた。
ふと気が付けば知らないうちにお皿に載せた林檎は無くなっていて、舌の根も乾かぬうちに横取りされたことを知った。ちょっと、と文句を垂れる口は、昔から変わらない楽しそうな笑い声のせいで縫い付けられてしまう。
「ふふ、なまえは揶揄い甲斐があっていいね。ぼうっとしてるから取られてしまうんだよ」
「もう、うるさいなあ。ぼうっとしちゃうから、いつでも早め早めにしてるのに」
「へえ、本当に?」
全て見透かされてしまいそうな瞳である。本当だよ、と返した返事は動揺が滲んでいなかっただろうか。暴くのも欺くのも日に日に上達していく英智のことが、本当に厭になる。
わたしの裏に潜む緩やかな希死念慮だとか、溶かしに溶かした英智への執着だとか、そういうものは出来るだけ見えない場所に隠しておきたいというのに。
英智はわたしの返事を聞いて、途端に興味を無くしたように病室の小さい窓を見た。引かれたカーテンの所為で景色などなにも見えないから、邪魔なそれを開けようと立ち上がると彼に止められる。いいの、という問いかけに、短く肯定を示す英智は、そのままわたしの腕を引いて、囁いた。
「なまえは、急かなくて良いんだよ」
「……」
「全てが終わるその日まで、ずっと僕の後ろに居て欲しい」
なんて我儘なひとだろうと思った。淋しいのは嫌いなんだ、と呟く英智の顔はどこか遠くを見つめていて、決して此方と目を合わせない。わたしにだけ呪いを残して、わたしにだけ淋しい思いをさせて、自分はのうのうと消えるなんてずるいじゃないか。
「そんなのやだよ」
わたしは、彼よりも早く死にたい。英智の思惑通りに、一生彼に縛り付けられて生きるなんて嫌なのだ。
わたしの否定を反芻するように自身の手元を見つめた英智は、そう、と一言だけ発していつものように微笑んだ。その余裕は、きっとわたしが彼に追いつけまいと確信しているからなのだろうと、今日もまた一歩先を歩く彼の背中を見つめるのだ。