氷河に潜む動脈

死んだふりなら意味ないよ。床に置きっぱなしのジュースの缶が、爪先の後押しに耐えられずにころころと転がった。

その足の持ち主は、缶と同じくつめたいフローリングに身体を投げ出したままのわたしの前で止まって、顔を覗き込むようにして屈む。先っぽが跳ねた茶髪が眼前に広がって、いつも通りのじっとりとした目線が突き刺さった。

「ねてただけだよ」
「どう見たって寝起きの顔じゃないでしょ。てか部屋汚すぎ、ちゃんと掃除して」

缶ひとつ落ちてただけで大袈裟である。投げ出した腕のすぐ傍に置いてあったスマホの画面はいつのまにか暗くなっていて、目が腫れて酷い顔になっている自分が映った。出来るだけ見たくなくて、急いで電源ボタンを押せばメッセージの通知が表示される。今から家行くから、と無機質なフォントで示されたそれは、数十分前に送られてきたものであるらしい。

寝たままだった身体をゆっくりと起こして、堂々とわたしのベッドに座る士郎を見る。他人の部屋に上がり込んで来て早々に毒を吐き、ベッドを占領してスマホを弄り出す姿は最早見慣れたものではあるけれど、生憎今のわたしは機嫌が悪く、その姿が腹立たしいものに思えた。

ずるずるとベッドの近くまで這って、士郎の膝にやる気のない頭突きをする。残念ながら大したダメージは入っていないようだった。

「何」
「なんで来たの」

「なまえが休んだから。幼馴染って皆に知られてるし、今日の分のなまえのプリント届けろって言われるに決まってんでしょ」

「それだけ?」
「当たり前じゃん。他に何があるわけ?」

多分、嘘だ。前に熱で寝込んだときには、家に上がらずに全て郵便受けに入れてくれていたのを覚えている。きっと、家の近くまで来た時にわたしの声が聞こえて上がってきたのだろう。仮病を使って休んだことを知っている母も、彼ならばすぐに家に入れたと思う。

士郎も嘘がばれているのは分かっているようで、若干居心地が悪そうにスマホを見る目が揺れていた。わたしは気付かないふりをして士郎の隣に座る。スマホの画面は彼の知り合いとのメッセージのようだったから、すぐに目を逸らした。ボーダー隊員にはわたしのような一般人に漏らせない情報が沢山あることを、もう飽きるほど言い聞かせられている。

「…目、冷やした方が良いんじゃない」
「………そんなに酷い?」
「その顔じゃ到底外には出られないだろうね」

反射的に自分の目元を触る。ひりひりと痛むそこを再度擦ろうと動く指は、士郎がわたしの手首を掴んだことで静止された。

普段と大して変わらないように見える黒の瞳は、なんとなく困っているような、心配しているような色が窺える。先程までちくちくとささくれ立っていた心は、ゆっくりと回復に向かっているようだった。

「しろう」
「やめなよ、擦ったらもっと酷くなるでしょ」

掴まれた手は、そのうちに指と指を絡める繋ぎ方に変わっていた。外は寒かったのだろう、少し冷えた指先がわたしの体温を奪って、なまぬるい温度に浸る。

士郎は、ひとの感情を感じやすいひとだ。サイドエフェクトも相まって普通の人間よりも拾ってしまう情報量が多い彼は、いつだって他人の変化を意識して生きていた。それはわたしに対しても例外ではなく、今だって刻々と速くなる鼓動や、小さく鼻を啜る音、上手く発声できず掠れてしまう声、一々それらを受け取って、彼はここに居る。

「…ごめんね」
「何が?急に謝られても困るんだけど」
「心配、かけてる」

勿論、迷惑もかけている。でも、それを言っても士郎はやさしいから、捻くれた言い方で否定するであろうことは既に分かっていた。今までに、何回もこうして隣に居てくれたことは一度だって忘れていない。

ぽつりと呟いたその声は、当たり前だけれどきちんと彼の耳に届いたようで、繋がれた指の力が少しだけ強まった。目線だけが此方を向いて、何度か声を伴わない口の動きを見せる。気まずそうな表情は健在であった。

「…馬鹿じゃないの、心配なんかしてないし」
「そっか」
「でも、ぼくに隠れて泣くのは面倒だからもうやめてよね」

どうせ何処に居たって聞こえるし。ぽたりと頬に落ちたあたたかい水を優しく拭って、士郎はじっと此方を見つめる。わたしはどうにも耐えられなくなって、彼の制服の肩口を濡らした。触れる士郎の指先は、とっくに熱いくらいになっていた。

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