痛い。咀嚼する口の動きと共に訪れた口内の痛みは、じわりと広がって鉄っぽい味を感知させた。
頬の内側、すっかり噛み癖が付いてしまってぼこりと腫れたそこは、最近の食事があまり楽しくないものとなってしまっているひとつの原因である。折角のオムライスが血の滲んだ口内に入ることを避けたくて、ぴたりと口に運ぶスプーンを止めると、隣に座る彼がいかにも哀れなものを見るようにこちらを見下ろしていることに気が付いた。
ものを噛む力というのは、案外脅威的な強さを発揮する。ここ数日で身をもってそれを知ったわたしは、もう二度とあの痛みを体験しないよう慎重にケチャップライスを噛んでいた筈なのだけど、それは無駄な努力となってしまったようだった。
ごり、と内側から聞こえた音は無慈悲で、恐らくは菊地原くんもそれが聞こえていたのだろう。決してほっぺたを誤って噛んでしまったその音が大きいのでは無く、彼自身の聴力が良いから聞こえてしまっただけである。あーあ、と大して可哀想に思ってなさそうな声が聞こえて、わたしは頬の痛みとは別に顔を歪めた。
「うう、気をつけて食べてたのに」
「あの音、かなり思いっきり噛んだでしょ。急いで食べようとするからだよ」
「ちが、腫れてるからだよ!この前も同じとこ噛んだの」
わたしの必死の弁解に菊地原くんは大して興味を示さない。あっそ、なんて素っ気ない返事と心配する素振りもない彼の態度に、仮にも自分の彼女に対してなんて冷たい反応をするんだと不満に思ってしまう。元はといえば、菊地原くんとわたしの食べ終わるスピードに差があることが問題なのに。わたしが食べ終わるのを待っている時に、遅いだのなんだのと文句を垂れる菊地原くんが悪い。
もぐもぐとわたしと同じメニューを咀嚼する菊地原くんをじっとりと睨めば、面倒臭そうな溜息が聞こえた。まだ三分の一しか食事が進んでいないわたしに対して、菊地原くんのお皿の上はもう半分ほど片付いている。生憎未だ痛みは引くことはなく、じりじりと立てられた歯の痕跡を主張していた。
「菊地原くん、ほっぺ超いたい、たすけて」
「…あーもう、じゃあ口開けて。仕方ないからどうなってるか見てあげる」
ほら、はやく。なんだかんだで面倒見の良い彼は、わたしの痛くない方の頬に手を添えて上を向かせた。急かされるままにあ、と精一杯口を開けて、菊地原くんの診断結果を待つ。爛れてたりしたらどうしよう。口の中に薬塗ったりするのはいやだな。
不安に塗れながら彼の報告を待つ。じいっと此方を見つめたまま動かない菊地原くんに、言うに堪えないほど酷い有様なのかと焦ったわたしは、固まってしまった彼に事の真意を聞こうと声を出した。いや、出そうとした。実際には、わたしの発した音が正しく空気を震わせることはなく、全て菊地原くんに呑み込まれてしまったのである。
「っあ、いった…」
「……暗くて何も見えなかった」
「見えなかったらなんで、キスする必要があるの!」
しかもご丁寧に、痛みの元凶まで舌を伸ばして!お陰で収まりかけていたひりひりがぶり返してしまって、残りのオムライスを食べられるようになるまでもう少し待たなくてはいけなくなった。
待たされて怒るのはいつもそっちなのに。こんなことなら、現在進行形でわたしを苦しめている犬歯の脅威に菊地原くんも巻き込んで仕舞えばよかった。二人揃って口に痛手を負えば、待たせることもなかったのに。
「別に、いつ何処でしようがぼくの勝手でしょ。今日は待ってあげるからゆっくり食べれば」
「こっちの都合もあるよ!ていうか、菊地原くんはいつも待ってくりぇ、あ、」
「また噛んだ?」
ずず、と彼の飲むジュースのストローの音が聞こえた。頬の痛みは既に限界を越え、じわりと生理的な涙が目尻にたまるの感じる。今日だけで三回目の痛みに、これは口内炎ルートかもしれないと今日の夜の歯磨きに怯えた。丁度、歯ブラシが当たりそうな位置に噛み跡がある。
「ぼく飲み物取ってくるから」
「………うん…」
どうやら今日の菊地原くんはとことん付き合ってくれるつもりらしい。コップを持ってすたすたと歩いていく彼の背中を眺めて、暫くキスはなしにしてもらおうと心に決めた。じくじくと痛む頬は、当分治りそうになかった。
「お、菊地原、そんなとこで突っ立ってどうした?なんか顔赤いけど」
「……なんで女子の口ってあんなにちっさいの?」
「え?」