彼からの愛が感じられなくて不安になったとか、そういうことではなかった。
言葉にされなくたって、例えば今こうやって、漆間くんが今月のボーダーのお給料の計算をしているときにわたしが間を空けて隣に座るとわざわざ距離を詰めてきたりとか、なんだかんだ言って登下校の間手を握っていてくれたりとか、お昼のお弁当を多めに作って持っていくと何処と無く嬉しそうな雰囲気でお裾分けを食べてくれたりとか、そういうちょっとした行動でわたしの心は暖かくなって、小さくきゅんと高鳴る。一番最後のやつは、もしかしたら食費が浮くから嬉しそうなだけなのかもしれないけれど。
だから正直言って、「わたしのことすき?」等と面倒な彼女のようなことを口走ったのは単にいつも忙しそうにしている漆間くんの気を引きたいが為で、少しの会話をする前置きが欲しかっただけで、決して漆間くんがわたしに愛想を尽かしたのではないかとか、そんな憶測を含んだものでは全くなかったのだ。
一言、肯定の返事が貰えたら、その言葉を反芻してにやにやするだけで十分だった。その後ちょっと揶揄うぐらいで良かったのだ。良かったのに。
「すきって言ったら、なにくれんの」
ぴたりと動きを止めた漆間くんは、メモ帳に書かれた数字たちから目を離さずにそう言った。間もなくかりかりとシャーペンが紙を滑る音がして、すぐに動き出した漆間くんを見る。少し癖っぽい黒髪に隠されて、彼の表情は見えない。
漆間くんは自身の損得に拘って生きているひとである。それは随分昔から分かっていたけれど、好意の意志を示すにも対価を要求されるとは思っていなかった。困ったな、なにも考えてない。
「うーん…なにがいいの?」
「オレが決めて良いんかあ?こっちとしてはうまい話だけど」
「……やっぱりだめ、決めないで」
今月のお小遣いはかなりピンチだった。漆間くんのようにボーダーに入っている訳でもなく、バイトもしている訳でもないわたしには、金銭的な余裕はあまり無い。お高いお菓子なんて要求された日には大赤字である。
出来れば、お金のかからないもの。それでいて、漆間くんに得のあるものでなければならない。生意気にもすき?なんて聞いた手前、やっぱり今の無しで、と撤回してしまうのも憚られるし、どうしたものかと思案する。彼は黙りこくったわたしを急かすことなく、自分の作業に集中しているようだった。のんびり考えていても構わないということである。
手の中のスマホを見る。ぱっと明るくなった画面には、先程まで読んでいた漫画アプリで公開されている少女漫画の一ページが載っていた。まだ途中のそのページをスライドさせて捲ると、初々しいキスシーンが表示される。そういえば、随分と長い間してないかもしれない。
「…キス、してあげるよ」
「は?」
ぱっと出た言葉に、自分の口を疑った。さっと口を覆ったときにはもう遅く、じっと此方の様子を窺う漆間くんの視線が刺さっている。じょうだん、なんて言える空気ではなく、背中に冷や汗が垂れた。自分とのキスが対価になるとでも思ってるのか、という視線だろう、これは。穴を掘ってでも入りたい気分である。
じわじわと頭の方の血の巡りが良くなっている気がして、気まずい感じに耐えながら下を向く。と、先程までシャーペンを握っていた手がわたしの左手を掴んで、くい、と引っ張った。ちらりと手の主の顔を覗くと、にやりと上がった口角がわたしを見下ろしている。
「その条件、乗った」
耳元に、熱い息がかかるのが耐えられない。心臓は未だかつて無いほどばくばくいっているし、知らないうちに繋がれていた両手の触れ合っているところは、わたしの少しの動きも逃さず感知している。
なんのスイッチを押してしまったのか、先程から止めどなく注がれる好意の言葉は、普段の彼と重ならないぐらい甘ったるいものだった。
「おい、聞いてんのか?もうこれで九回目だけど」
「も、もういいよ…」
「もういいよじゃなくて」
ずい、と寄せられた顔は、随分と楽しそうに笑っていた。細められた目には明らかに揶揄いと意地悪が込められていて、完全に返り討ちにされてしまったことを知る。
「う、漆間くん、」
「キスしてくれんだろ、ちゃんと払えよ」
至近距離で殆どキスしてるようなものなのに、肝心な所には触れない。あくまでもわたしからのそれを望んでいる漆間くんの距離感と、若干湿った繋ぐ指に、構ってほしかっただけの心の内を見透かされたような気がしてしかたない。意を決して唇を触れさせた時、黒い癖っ毛から覗く赤い耳が一瞬だけ視界に入った。