「苗字さん、一緒に帰ろう」
ごそごそとロッカーの中のコートを取って顔を上げると、いつの間にか教室まで迎えに来てくれていた時枝くんが見えた。
今日もかわいらしい澄まし顔で此方にひらりと手を振って、穏やかな声で告げられるお誘いに肯定の返事を伝える。別に明確な約束をしている訳でもないのに、お付き合いを始めてから毎回(毎日と言わないのは時枝くんの防衛任務が無い日だけだからだ)うちのクラスまで顔を出して、一緒に帰ってくれる彼は真面目というか、まめというか、何とも出来た彼氏さまである。時枝くんは気遣いの鬼、というのは友人と議論した結果の見解だ。
視界の端に明るめの髪とその下にぐるぐると巻かれたマフラーの端っこが揺れるのが見えて、わたしははっとして慌てて通学鞄に教科書たちを詰め込んだ。
今日の先生の話はいつもより長かったから、相当な時間を待たせてしまっている筈だ。時枝くんのクラスの担任はホームルームが短くて、学年の中でも特にホームルームが長いうちのクラスを待っているとかなりの時間を食ってしまう。
「待たせちゃってごめんね、帰ろう」
重たい鞄を引っ掴んで、時枝くんの方へと早足で駆け寄る。わたしが呑気に準備しているうちにほとんど人は居なくなって、ちらほらと部活動を始める人たちが廊下を歩くのみとなっていた。
時枝くんはうん、と短く返事をして、わたしの空いた左手を攫う。何が起きたか一瞬分からなくなるぐらい自然に行われるそれは決して初めてではないし、なんなら下校を共にする度にされることではあるのだけれど、わたしは彼の動作の一連の流れに未だ慣れていない。当たり前のように指と指が絡まって、少しだけ冷えた時枝くんの体温が伝わる。
「今日も寒いね」
「そうだね。苗字さんは今日コートぐらいしか防寒してないけど大丈夫?」
「うーん、寒いけど我慢できるから大丈夫!今日マフラー忘れちゃって」
朝寝坊してしまったのだと赤裸々に話せば、眠たそうな垂れ目が珍しくまるくなった。苗字さんって寝坊とかするんだ、なんて溢す時枝くんはわたしのことをどんな人間だと思っていたのだろう。少なくともわたしは寝坊もしないような真面目でしっかりとした人ではないし、その性質はどちらかといえば時枝くんの持つものだと思う。
そう返せば「おれも寝坊くらいするよ」と笑われて、今度はわたしが目をまるくする番だった。恋人という関係になったばかりのわたしたちはお互いに、お互いのことをまだよく分かっていない。
ふいにぱっと手を離されて、冷たい空気が手を包んだ。途端に寂しくなってしまった左手をなんとなく見ると、ふふ、と楽しそうに笑う時枝くんの声が聞こえてくる。なんだろう、と彼を見上げれば、するすると首に巻いたマフラーを解く彼の姿があった。
「え」
「寒いんでしょ?おれの使っていいよ」
「え!?いや、悪いよ、時枝くんも寒いじゃん」
「おれは大丈夫。ほら、こっち来て」
でも、と狼狽えつつも、時枝くんの優しい声には逆らえずにゆらゆらと寄って行ってしまう。時枝くん直々にゆっくりと巻かれるマフラーは嗅ぎ慣れない匂いがして、どくどくと血が全身に巡る。
苦しくない?と確認しつつきゅっと端っこと端っこを結んだ彼は、何処となく満足そうな顔でわたしの手をもう一度握る。時枝くんの指先がさっきよりますます冷たくなっているような気がして焦ったけれど、すぐに自分が熱くなってるだけだと気が付いて恥ずかしくなった。繋いだ手からこのどきどきが伝わらないといいのだけど。
「時枝くん、ありがとう」
「いいえ。好きな子が寒がってるのに何もしないわけにはいかないしね」
「、そっ、か」
時枝くんって、意外にタラシなのかな。あまりにさらりとわたしなら緊張してしまうであろうことをやってのけるから、一瞬そんな失礼な考えが過ってしまう。
好きな子、って。確かにお付き合いしてるんだから好きじゃないとおかしいけど、でもそんな面と向かって言われるとまだ照れてしまうのだ。それを知ってか知らずか、何事も無かったかのように時枝くんは前を向いて下駄箱へと向かう。手を引かれてわたしもそれに着いていった。
上履きからローファーに履き替えて外に出ると、無遠慮な風がびゅうびゅう吹き荒れる。冷たいを通り越して痛いぐらいのその風に煽られて、貸してもらったばかりのマフラーが揺れた。わたしは時枝くんのマフラーがあるから平気だけど、時枝くんの方は大丈夫だろうか。校舎内よりも外は数倍寒い。
「時枝くん、ほんとに大丈夫?外びっくりするぐらい寒いけど」
「平気だよ。苗字さんの体温分けてもらってるし」
その言葉が指すのは繋いだ手のことだろう。時枝くんにはそんな意図ないだろうけど、なんとなくわたしだけがどきどきして緊張しているみたいな言い方に感じてしまって、思わず握る手に力が篭る。
なんで同い年なのに時枝くんはこんなに余裕があるんだろう。やっぱり、テレビとかに出てるような人は次元が違うのだろうか。告白したときも、わたしだけ焦っていて時枝くんは至極冷静な感じであったように思う。どうしたら時枝くんみたいに大人になれるのかな。信号が赤信号になったタイミングで、そっと口を開く。
「時枝くんって、」
「うん」
「テレビ出るときとか、緊張する?」
「まあまあ、かな。慣れてきた気もするし」
「そうなんだ…」
「うん。急にどうしたの?」
顔を覗き込まれるようにして問われる。眠たげに開かれる垂れ目はわたしの全部を見透かしてしまいそうなのに、わざわざわたしに問いかける彼は何を思っているのだろう。
時枝くんはわたしのことをよく見てくれていて、少しの変化でも気にしてくれるけれど、わたしは時枝くんのことが何も分からない。今まで言われたことないけど、もしかしたら察しが悪い方なのかもしれない。
それはともかく、どうしたのかと聞かれたならそれに答えなければならない。生憎わたしには聡い時枝くん相手に誤魔化す技量は持ち合わせていないので、素直に思ったことを伝えることにした。なんで時枝くんはいつもそんなに余裕あるのかなって。うん、と相槌をうってくれる彼の、優しい声色が好きでたまらない。
「…おれ、余裕そうに見えてる?」
「見えるよ、すごく。なんか手慣れてるなって感じ」
「そう、なんだ。意外」
今だってそう見えるよ。彼の言葉の真意が分からなくて、付け加えてそう伝えれば、繋いだ手の力が強くなる。反射的に顔を見上げれば、ほんの少しだけ眉を下げた時枝くんが、ほんの少しだけ恥ずかしそうに笑っていた。この表情は初めて見る顔じゃない。告白したときも、この顔をしてお返事をくれたのを覚えている。
「…マフラー取った時、手離したらちょっと悲しそうな顔してたの、かわいいなって思ったよ」
「っえ、?」
「それに、おれ今全然寒くないんだよね。苗字さんがおれのマフラー巻いてるのにどきどきしてるし、隣歩いてるのだけでもちょっと緊張してるから」
「と、ときえだくん」
「でも余裕そうに見えてたなら、彼氏としてちゃんと振る舞えてたってことかな」
なら、良かった。時枝くんが呟く。いつの間にか信号は青になって、彼と共にわたしの足も自然に動き出していた。見上げた横顔はいつもと変わらない澄まし顔であったけれど、先程の話を聞いたわたしには前よりももっと難解なものに映る。さっき時枝くんが言ってたことが本当だとしたら、わたしはほんとうに、彼の表情だけでは全く彼を理解することが出来ない。
そのうち分かるようになるかな、なんて、今のわたしでは時枝くんに追いつけるようにするだけで必死なのに。繋いだ手と、普段見かけるよりも遅く歩いてくれている彼の歩幅は、あたたかな色をしていた。