わあ、と思った。大好きなひとの、知らない一面というのはいつだって心を高鳴らせる。
いつもよりも涼しげな首元と、黒のゴムで括られた茶髪を見れば、わたしの小さな心臓はどくどくと大きく波立っていた。
「それ!かわいいね、結んでるの」
「…はあ?意味わかんない、かわいいって言われても嬉しくないし」
不服そうに潜められた眉は、聞き慣れた悪態と連動している。ふい、と顔を背けたときに、一緒になって揺れる頭のしっぽが驚くほどかわいくって、今までで一番大きな音が胸に響いた。菊地原くんは目敏く、いや耳聡くそれを察知して、さいあく、と一言溢す。じっとりとした目線が此方を射抜いた。
「あんま見ないでくんない」
ぎろ、と睨まれた顔は怖い。けれど、普段よりも見やすくなっている耳がほんのり朱色に染まっているのを発見して、わたしはどうしようもなく菊地原くんのことをいとおしく思ってしまって、上がる口角が抑えきれなくなった。
そんなわたしの様子を見た菊地原くんは、ほんとうに苛立ったような態度で、煩いばか!と一言残して先に行ってしまった。なにも喋っていない筈だけれど、菊地原くんにはわたしの心の声が聞こえてしまっていたらしい。
髪型よりも、その素直じゃないところがなによりもかわいいことに、果たして彼は気が付いているだろうか。
二人きりの部屋で、ただシャーペンの走る音のみが響き渡る。テスト二週間前、切羽詰まったこの時期に真面目な菊地原くんがすることといえば試験勉強のみで、わたしも彼にお説教を受けて同じように問題を解いていた。
さいん、こさいん、たんじぇんと。何が違くて、何が同じか全然分からなくって、ぴたりとシャーペンを持つ手が止まったときに、ふと彼の俯く顔を見る。長めの髪が目にかかって邪魔そうに退ける姿に、ぴんときて席を立った。
「何してるの」
「菊地原くん、こっち向いて」
サボっていると思ったのか、怪訝そうな顔をして此方を見上げる菊地原くんに、ぱちんと御目当てのものを付けてあげる。ファンシーなそれは驚くほど彼に馴染んでいて、思わず笑いが溢れた。状況を理解して歪められる眉に、飛んでくる罵倒への準備をする。
「…なにこれ」
「ヘアクリップ!髪邪魔そうだったし、すごい似合っててかわいいからそれあげるよ」
「はあ、こんなの要らないんだけど」
そう言いつつも外さないで、勉強を再開する菊地原くんは優しい。わたしも菊地原くんに付けたのとセットのもう一つを付けて、見て、お揃いだよ!なんて言ってみるけど、興味なさげにちゃんと勉強しなよ、と一蹴されてしまった。
帰る時にちゃっかり外して持って帰った彼に気付いた時の、わたしの心臓の音は彼に聞かれていただろうか。
冷たい雫が肩に落ちて、びくりと肩を震わせた。振り返ると同時に熱い掌が頬を抓って、何見てんの、とスマホの画面を覗き込まれる。
菊地原くんと行ったデートのときの写真が所狭しと並ぶそのフォルダに、彼は溜息を吐いて黙り込んだ。お風呂上がりで全体的に血色が良くなってるから分からないけど、恐らく照れている。
「楽しかったなあって思って」
「…あっそ」
もう一度、ぽたりと今度は鼻の頭に水滴が落ちてきて、そこで初めて彼の頭がびしょびしょであることに気が付いた。菊地原くんはドライヤーをいつも面倒くさがる。あ!と抗議の声を上げれば、予想通りだるそうな表情が返ってきた。風邪も引いてしまうし、髪だって痛むのに。
「髪乾かさないとだめだよ」
「自分でやるの面倒だからやだ。ドライヤー煩いし」
拗ねたように口を尖らせて言う言葉は、多分裏に甘えが隠れている。それを大事に受け取って、仕方ないからやってあげるよ、と立ち上がれば、何も言わないできゅっと手を握られた。
わたしはなんだかんだ言ってお泊まりの度に繰り返されるこの時間が好きだし、きっとわざわざわたしのことを呼びに来た菊地原くんもそう思ってくれていると思う。
最近はなんとなく、彼のように心の内の音が聞こえなくっても彼の思っていることを感じ取れるようになってきた気がして嬉しくって、でももしかしたら、わたしが分かるようになったのではなく、彼がわたしにも分かるようにその音を大きくしてくれているのかもしれない。
まあ結局のところわたしは、真相がどちらでも菊地原くんのかわいくて不器用なところが好きで堪らなくって、意外に寂しがり屋な彼にこの溢れんばかりの好きが伝わっていると良いなと思うのだ。