ぐるりと目が回った。あまりにも強烈な眩暈にどうにも立っていられず座り込み、ちかちかと目に焼き付く蛍光色をただぼんやりと享受する。火花の様に散るそれは次第に姿を変え均等な辺を3つ得た図形へと生まれ変わり、薄気味悪く笑うひとつ目がこちらを見据えーー
青白い炎が揺れた。
「お目覚めかな?私のレディ」
陽はとうに海に溺れていた。勢いよく上体を起こしたことで掛けていた毛布が落ち、彼の細い腕がそれを受け止める。肺が酸素を求めて上下し、随分と久しぶりに息を吸った様な感覚に襲われた。
じっとりと背中が嫌な湿り気に帯びている。乱雑にベッドに放り出された目覚まし時計の針は深夜2時を指したまま、文字通り時間を停めていた。
「……ビル、変な悪夢を見せるのはやめてって言ったでしょ」
「おやおや?君にはお気に召さなかったかな?私としては最高の出会いのシーンだと思ったのだけれど!」
けらけらと笑うビルはさも楽しそうに宙に浮かんでいた。精密な三角形は人間のわたしに比べると非常に控えめな大きさであり、また冗談みたいに平たいにも拘らずその独特の威圧感は計り知れない。
流石は悪魔、と自然に理由付けが行われたことに少々違和感を覚える。正体不明の気味の悪さに心臓を栗立たせていた頃とは全く異なる心境の変化だ。
昔からわたしに付き纏う彼が悪魔だと知ったのは最近のことだ。物心ついた時から度々現れる不気味な彼が一体どの様な存在なのか、それを知ることは恐らく一生無いと思っていたのだけれど、ビルは存外質問すればスラスラと答えてくれた。その答えが真実か否かは定かではないが、もはやそれはわたしにとって大した問題では無い。
本能的に肌で感じる理解不能の恐ろしさや底の知れなさを受け取っても尚、彼を受け入れてしまうようにできているわたしの身体は既に手遅れであった。真実がどうであれ、ビルがビルであることに変わりはない。わたしの拒絶は遠い過去に置き去りにされたままである。
「さあ、モーニングティーを淹れよう。スッキリと目覚めるためにはこれが必要だろう?」
「モーニングって…まだ深夜だよ」
「ははは、夢の中に夜も昼もないさ!君が目覚めた時が朝になる」
いつのまにか景色は変わり、わたしは悍ましい装飾の施されたソファに座っていた。目の前には湯気のたった淹れたての紅茶、ビルは大きな目を口に変えてティーカップの中身を飲み干す。わたしも彼に倣って紅茶へ口をつけ、見た目の割にぬるいそれを飲み込んだ。金属の擦れる音が鳴る。
「なにか用があって来たの?」
「特に何も?愛しいなまえに逢いたかった、それだけで十分な理由になるだろう?」
「よっぽど暇なんだね」
ビルはわたしの夢に現れる。最近は夢の中で夢を、それも悪夢を見せることも珍しくなく、それが今の彼のブームらしい。
汗だくになって起きるわたしの何が彼をそんなに掻き立てるのか理解ができないが、思い返してみれば生まれてこの方ビルのことを理解できた試しがないので諦めた。
ビルが何故わざわざわたしを選んで構うのか、飽きずに定期的に訪ねに来るのか、その真意は永遠と闇に眠ることになるだろう。否、これもまた質問をすれば答えを聞けるのやもしれないけれど、そこまでわたしはそのことについて興味が無かった。
ビルはわたしの事を何故か気に入って付き纏う悪魔。それだけ分かっていれば何不自由なく彼と付き合える。正直言えば彼との時間はわたしにとって当たり前のものであったし、今更無くなられても心に風穴が空いてしまいそうな予感があった。
これが俗に言う刷り込み、もっと言えば洗脳というやつだろうか。気付いても逃げ道の無いわたしでは、その現象の名前など些細な事である。
「暇、といえばそうだが。なにせ私には無限の時間がある!でもまあしかし、最近はそこそこに忙しい日々を送っているよ。私の望みが叶える舞台が整いそうな所だからね」
「ふうん、そっか」
「折角だ、私の望みが実現した暁には君にもその景色を見せてあげよう!君の腕のそれを解いて、代わりに私が手を引こう。素晴らしいアイデアだと思わないか?」
ビルはわたしの腕に小さな黒い手を沿わせて、背筋の凍る様な不気味さと目が離せないほどの美しさを併せ持つ青色に発光する手錠を撫でた。この色にはずっと昔に見た覚えがあるが、何処で見たのかはもう忘れてしまった。
色のことだけでは無い。わたしの家族はどんな人だったか、どんな家に住んでいたか、周りに友人と呼べる人はいたのか、大切だった様な気がするものたちは全て溢れ落ちて、手元には夢しか残っていない。
「君が夢から醒めたときには、また私がモーニングティーを淹れよう。場所が何処であれいつもと変わらない朝になるさ」
「そうだね」
ビルの手を取ってソファから立ち上がる。わたしが動くのにつられて、足元からキンと金属の擦れる音がした。紅茶の香りはもう何処にも無い。
「幼い君が私と契約してくれて本当に良かったよ」
悪魔の呟きは、陽の光と共に青褪めた海に呑まれていった。