「先輩、今夜って空いてますか」
紙の擦れる音がする。聞き慣れた声と、カウンターにぎし、と圧がかかる感じがして顔を上げると、案の定、気怠げに微笑む彼の姿があった。
図書室の貸し出しカウンターは彼の身長には少し低く、寄りかかっているために若干目線がいつもより近い。
なんだか随分と格好つけた言い方だなあ、と思った。いつも通り、意味ありげに浮かべる薄ら笑いと、目にかかりそうな前髪がやたら台詞に似合う。着ている服が制服でなければ、もっとそれらしくなっていたかもしれない。
「おはよう、伊能くん」
「おはようございます。空いてますか?」
「…………まあ、何もないけど」
「よかった」
じゃあ通話、繋いでくれません?教えてもらいたいところがあるんです。ゆるく頬杖をついて、上目遣いでこちらを見上げる。
その顔には明らかに計算尽くであると書いてあるというのに、きゅんと高鳴ってしまう鼓動は抑えられなかった。顔が緩まないように、しっかりと力を入れる。
「伊能くんに聞きたいところなんてあるの?教えなくても全部分かっちゃいそうなのに」
「ありますよ。最初からなんでも出来るわけないでしょう?」
いけしゃあしゃあと。出来なくたって自分でいくらでもどうにかできる頭の良さをしているくせに、わざわざこちらを頼るのは彼の策略の中のひとつだろう。
じいっと見つめられるその目に、捕えられたように動けなくなってしまう。
「わたしより頭良いのに」
「あんまり頭良くない先輩が、俺のために必死で説明してくれるのが好きなんで」
「…ばかにしてる?」
まさか!なんて、肩をすくめられてもなんの説得力もない。
暗く湿るその三白眼には、わたしの顔がやたらときれいに映っていた。きゅうっと口を結んだわたしの表情は、誰が見ても明らかに、恋をしている。
「俺と付き合ってくれませんか」
彼とは、あまり会話はしたことがなかった。
今年から度々図書室で見かけるようになり、恐らくは一年生だと見受けられた。
借りていく本はスポーツ理論の本、特に野球関連のもの。あるいはそれとは全く結びつきそうもない、難しそうな内容のもの、エッセイ、哲学書、などなど。
乱雑にかき集められてカウンターに置かれる本たちを見るのはなかなかに興味深く、ただ本を読めるから、という理由だけで務めている図書委員の仕事を、少しだけ楽しみにできるようになった記憶がある。
鞄の他に、よく野球部が持っている大きな荷物を持っていることがあるのも、なかなかに印象的だった。
そんな感じであったから、こちらからは顔を覚えてはいたのだけれど。まさかあちらもわたしを認識していて、しかも俗に言う告白、というものをされるとは夢にも思っていなかった。
夕方遅くの図書室には、いつも人がほとんどいない。その日は特に、なぜだか分からないけれど人っ子一人入ってこなくて、部屋の中はしんと静まり返っていた。
いつも通りに置かれているカウンターの本の表紙に目をやる。
『スポーツトレーニング理論』『日本酒のすすめ 定番から通好みまで』。お酒、まだ飲めないでしょう。思わず心の中で突っ込んでしまう。
「…あの」
「っあ、ごめんなさい、ええと」
「すみません。突然で驚きましたよね」
にや、と口角が上がった。微塵も悪いと思ってなさそうな表情。
動揺して、動けずに目の前の彼を見つめるばかりのわたしに、彼は積み上げられた本を押して前に出す。はっとして手に取り、とりあえず貸出手続きをすることにした。いつも通りの動きをすると、少し心が落ち着く。
「…あの、あんまり話したことはない、ですよね?よく借りてくれてるけど…」
「そうですね。俺一年なので、敬語じゃなくて大丈夫ですよ」
「……わ、分かった。えっと、なんで突然?」
「お付き合いしたいと思ったからです」
ぴ、ぴ、と本の貸し出しバーコードを読み取る。全く答えになっていない回答に、冷や汗が背中に伝うまま黙り込んでしまうが、彼は我関せずといった様子でわたしの手元を眺めていた。平静を保ちすぎて、先の告白が嘘だったかのようである。
「先輩は俺のこと覚えてくれてたんですね」
「…まあ、そんなに頻繁に借りていく人は数えるくらいしかいないし」
「成程」
手続きが済んで、三週間後の日付が印刷された紙が出てきた。本の一番前に挟んで、先程とは逆にわたしから彼の方にそれを押す。
印刷されている通りの返却日を口頭でも伝えると、ありがとうございます、と普段と同じ声のトーンで返された。
あまりに変わらない態度に、あれはわたしの幻聴だったのではないだろうかと思えてくる。そんな、突然知らない後輩から告白されるなんてあるわけがない。
「それで、返事はくれないんですか?」
「幻聴じゃなかった……」
「酷いですね。勝手に無かったことにしないでください」
現実逃避は上手くいかず、ふっと鼻で笑われる。伏目がちに細まる目と、薄く開かれる唇は、今までには見たことのない表情であった。ど、ど、と、心臓が嫌な音を立てる。
「…そのう」
「はい」
「わたし、全然、君のこと知らないし」
「ええ」
「申し訳ないんだけど……」
「そう言うと思ってました」
そもそも、名乗ってすらいませんしね。さらりと受け流されて、拍子抜けしてしまう。
突然告白するような人だから、あんまり話、通じないのかな、なんて思ったのだけど。安心して、ごめんね、と一言呟くと、にんまりとさらに彼の笑みが深まった。
「これは、俺の宣戦布告です」
「…え?」
「貸し出しの時に見ているかと思いますが。一年の伊能商人です。今日から、貴方に認めてもらうべくアピールしていきますので、どうぞよろしくお願いします」
鞄に二冊、本が滑り込む。へ、なんて、気の抜けた音が口から溢れて、行き場のない指先がカウンターに落ちた。やっぱり、話通じない人なのかもしれない。
また明日伺います、と扉を開けた彼の後ろ姿は、よく見ると長い髪が後ろで一つ結びにされている。
これまでずっと、手続きが済んだ後はすぐに手元の本に目を落としていたから、全然気が付かなかった。
困ったことになってしまった、と、はたと思う。これからしつこいくらいに絡まれるとはつゆ知らず、とりあえず明日どうにかやり過ごせないかと委員のシフト表を手を取った。
結局、どうにもできずに大人しく彼に捕まることになるのだけれど。
「ええと、ここは…なんだったっけ……」
「さっきの公式を使うんですよね?」
「あ!そうそう、それで……って、わたしが教えなくても分かってるんじゃない…?」
「バレました?」
スマホに張り付いて、カメラで写されているノートを覗き込むわたしが馬鹿みたいである。
こちらはカメラをオフにしているから、あっちからわたしの様子は分からないだろうけれど、彼なら大体の予想はついていそうで嫌になった。伊能くんはとても察しがいい。
夜の十一時半。わたしは彼と昼間に約束した通り、勉強を教えるべく通話を繋いでいた。一年前にしっかり学んで、テストもそこそこの点数を取ったはずなのに、まるでなにも覚えていない。
もっとも、わたしが覚えていなくても彼にはなんの問題もないようであったが。
「やっぱり、通話する意味ないじゃん。なにも教えられてないし」
「ありますよ。先輩の時間貰えたんで」
「…すぐそういうこと言う」
また、きゅんと胸が苦しくなる。こんなにずけずけと恥ずかしげもなく言葉を紡いで、彼の羞恥心はどうなっているのだろうか。
目的のためなら手段を選ばない、らしいから、そんなものとっくに捨て去っているのかもしれない。
「先輩と付き合うのが目標ですから」
「……」
イヤホンから流れる彼の声。顔が熱くなるのを感じて、カメラ付いてなくてよかった、と心底思う。こんな顔では、彼に突っ込まれること間違いなしなので。
先ほどは手段を選ばない、と彼を称したけれども、そのなりふりの構わなさはすでに功を成して、わたしは彼のことをとっくに好きになってしまっていた。ゆらりと揺れるその微笑みを向けられるだけで、心臓がうるさく騒いでしまうくらいには。
ここ数ヶ月、彼のことを少しずつ知った。数々の本を借りていく理由、かなり変わっているその性格、目標を達成するためのありえないくらいの努力、策略を練る姿勢。
どう考えて、どう動く人なのか。なんとなくだけれども前よりもよっぽど理解して、そこにわたしは惹かれてしまっている。
その一方で、よく知った今だからこそ、わたしはわたしへの「目標」を語る彼にずっと返事ができないでいた。
「ね、苗字先輩」
俺のこと、好きですよね?
自信に満ちた、そうでないはずがないと疑っていない問いかけ。今すぐに肯定を示して、最初は理解もできなかった申し出の返事をしたいのは山々だけれど、ぐっと我慢して口を開く。
「す、きじゃない」
「……なかなか強情ですね」
伊能くんは目標に向かって突き進む人である。夢中で理想を追いかけて、抜かりなく計画を遂行して、ついに達成したその時に、彼は一体どうするのだろうか。
わたしが彼に好きだと返さないのは、その後を想像するのが怖いからである。
わたしが受け入れて彼が目指すもののエンディングを迎えても、この関係が続くとは限らない。再三彼自身がそう述べるように、彼にとって大切なのは「暇つぶし」として興味深いかそうでないかである。
彼はきっと、末長くお付き合いするような関係性は望んでいない。末長いどころか、目標を達成した途端に颯爽と次のコンテンツへ移っていってしまう気がしていた。ひとつのところに留まるのは彼にはとても退屈で、人生が停滞する原因であるだろうから。
そもそも、彼が本当にわたしのことが好きなのか、彼を知れば知るほど疑わしく思えてしまう。わたしの持つものと同じ熱は、彼の目にはない。すっぱりと興味を無くして、二度とここに来なくなってしまう未来が、ありありと目に浮かんだ。
「時間、大丈夫?」
話を逸らすように、口を開く。夜も遅いし、彼は忙しい身であるから。
ぽんと出た気遣いの言葉は、本当は誰のためのものなのか。よく考えなくても、わたしはもうとっくに分かっている。紛れもなく、自分自身の逃げ道のためだ。
「あ、俺、明日朝練なので」
「そっか。じゃあもう切るね。朝練頑張って」
「…はい。今日はありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみ」
ぷつ、と音が切れた。我ながら、変な関係を築いてしまったなあ、とため息が出る。机に突っ伏すと、とたんに先程まで一切感じなかった眠気が襲った。
「……もう、ねよう…………」
明日は耐えられるだろうか。わたしが折れるのが先か、彼が諦めるのが先か。どちらにせよきっと、わたしにとって良い結果にはならない。高校時代の恋がこんなことになるなんて、ついこの間までは思いもしなかった。
せめて彼かこの攻防に飽きるまで、彼がわたしを見てくれているうちは、厄介な恋に浸っていたい。きゅうっと縮んだままの心臓の感覚をきちんと受け取って、寝る前に歯を磨こうと椅子から立ち上がった。絶対に、伊能くんとは付き合いたくない。
窓の外で風が大きな音を立てて、カーテンが翻る。入ってきた冷気にぞくりと背中が震えて、慌てて窓の鍵を閉めた。
「…なかなか次のフェーズに進めないな」
思いの外、彼女は意志が固い。こちらに好意があることは明白であるのに、なぜ頑なに認めようとしないのか。恋愛というものはなかなかどうして不可解なものである。
己が狙いを定めた彼女は、誰がどう見ても既に我が檻の中であった。他人に対してとは違うやわらかさで発される言葉、染まる頬、言葉にさえしないけれどもその態度は大声で「伊能商人が好きである」と主張している。それでもきちんと言質を取らなければ目標達成にはならないのが、このミッションの難点だ。
一筋縄ではいかないところが面白い、という側面もあるが、さすがにここまで動きが少ないと今後の他の計画にも支障が出そうである。時間は有限、効率的にやりくりしなければ、上手くいくものもそうはいかない。
なにか対策を講じなければ。暗くなったスマホの画面を眺めて思った。考える上で厄介なのは、俺が彼女の感情の動きをうまく読み取れないことである。好きな人に付き合ってほしいと言われて、なぜその手を取らないのか?これを解き明かすことこそ、彼女を自分の恋人にしたい理由のひとつだった。
「……」
かさ、と風が吹いて、机に広げた本のページが音を立てた。既に八割は目を通したそれは今日借りてきた恋愛小説である。彼女が以前読んでいるのを見てなにか参考になることはないかと借りてきたけれど、あまりに陳腐な内容で最後まで読む気にならなかった。先輩は、これを読んでどう思ったのだろう。
人を好きになるという感情は、よく分からない。分からないけれども、人生において高校時代は一度きり。
数多の音楽や小説に謳われる「青春」とやらを経験しないままに終えるのはもったいない気がしたし、人々を魅了して狂わせる「愛」に関わってみるのは、自分にとっても悪くないように感じていた。
もっとも、恋愛によって満たされる承認欲求やどうでもいい言葉の応酬に興味はない。大切なのは、それを学ぶことに利用価値があるということであった。そういう意味での、「悪くない」なのである。
「あの、大丈夫ですか?」
入学して間もない頃。不慣れな運動、数々の練習メニューに加え、論理的なことや、今まで大して知りもしなかった野球のルールまで頭に入れるために、日々かなりの体力を消耗していた時期があった。
体力育成の理論書を机に広げ、文字を追っていたはずであったのだけれど、いつのまにか意識が落ちていたらしい。
誰もいない図書室で、突っ伏して寝てしまった俺に、遠慮がちに声をかけたのが彼女であった。
「…あ、すみません。閉めますか?」
寝起きの頭をフル回転させて、どうにか冷静に対応する。まさか自分がこんなところでうたた寝するとは。咄嗟に出た言葉に、相手は焦ったように口を開く。
「えっ、あ、いや!そういうわけじゃないんですけど。いつもこの時間には必ず図書室出て行ってるから」
なんか用事あるんじゃないかなって、思って。余計なお世話だったらごめんなさい。
鈴の鳴るような声、顔を見れば、何回か本の貸し出しのときに見たことのある人であった。そのときには、恐らく俺と同い年の図書委員に「先輩」と呼ばれていたから、二年か三年だろう。
言われて、壁にかかった時計を見る。夕方六時前。確かに、野球部がグラウンドを取れず図書室に籠る日は、いつもこの時間には学校を出て自主練をしている。夜の方が涼しくて効率が良い。
「いえ、その通りです。ありがとうございます」
「…!よかった」
ふわりと。ゆるやかに微笑んで、それ、借りますか?と手元の本を指さす。
これにはもうほとんど目を通して、大体のことは頭に入っていたけれども、なぜだか口は肯定の言葉を溢していた。
図書室のカウンター。端の方に、委員の仕事のスケジュールが立て掛けてあるのは、少し前に気が付いていた。名前が並んでいるうちの、今日の日付を遠目で確認する。
「はい、貸し出しできました」
「ありがとうございます」
細かなことに気が付いて、見ず知らずの相手に対しても行動できるほどの献身力は、これからより忙しくなるであろう自分にとってなかなか使えそうなものだと思った。
先輩となればやるべきことや忙しさも全く違うから、親しくなったとしても練習に支障が出るまでには時間も取られないだろう。
想定通りであれば、そこそこのメリットがあり、デメリットは少ない。
所謂、高校生の恋愛、を試すには丁度いい人間に思えた。さて、うちのクラスの図書委員は誰だったか。
付き合うまで、で終えてしまっては、青春がなんたるかなど分かるはずもない。
その後の紆余曲折、創作物では語り尽くせない人間の感情や、リアルな物事の動き。人の心がわからないと自称する彼は、そういった知識だけでは得ることのできない事象に興味があった。
他人の感情を観測するには、より長く時間を過ごした方が変化が見られて面白い。次のフェーズ、と言うように、彼の頭の中には今後数年のプランが既に構築されており、人生においてそれがどう変わっていくのかを体感し、見届ける準備を整えていた。
「一体なにをしたら、あの人を手中に収めることができるのか」
伊能商人の思う「恋愛の面白いところ」は、他の何よりも他人を掻き乱し、引き込み、影響を与えることができる、という点である。上手く使えば、きっと大きな武器となり、今後の選択肢を広げてくれることであろう。
最初の頃よりも随分と砕けた口調で、ころころと変わる彼女の表情を思い出して、一人部屋の中、彼はにたりと微笑んだ。
つまるところ、彼は彼女を使い捨てにする気など、まるで無かったのである。