救いの一手

時計なんて確認もしないほど夜更けだった。目を開ければ暗闇しかない世界で、壁の向こう側からこんこん、と控えめな音がしたのだけをこの鼓膜が拾う。
クソ、こんな真夜中に部屋に凸る非常識な馬鹿はどこのどいつだよ、と苛立ちながら、ぬくぬくの布団から仕方なく足を引き出した。ひんやりとした外気に皮膚が悲鳴を上げる。ノックの音と時間帯とで、なんとなくどの馬鹿がドアの向こう側で待っているのかは予想がつく。

今日は朝が遅くて、あいつに叩き起こされてこっぴどく叱られたぐらいだったから、たまたま寝付けなかった。いつものように寝ていれば、あんな小さい、聞こえさせようともしてないノックの音になんて気付かない。
どうせここまで来たなら派手にやっちまえばいいのに、変なとこで気にしいのあいつはそれができない。

部屋の鍵を開けるのと同時に、カツ、と靴が床に当たる音がした。アア、起きてないと思って帰ろうとしたな?ドアを勢いのままに開ければ、ぽかんとしたアホ面でこちらを見上げるお気に入りの部下の姿があった。

「なんだア?夜這いか?私はいつでも歓迎するよ?」
「ちが、ていうか、起こしちゃいましたか。ごめんなさい」
「いーや?どうせ寝てなかったし。別にイイヨ」

申し訳なさげに、一歩二歩、と後ずさる彼女の腰を引っ掴んで、暗い部屋に引き入れる。抵抗する気もなく大人しくされるがままになっているカワイイ子猫チャンは、暗闇の中赤く泣き腫らした目を働かせようと、大きな黒目をきょろきょろさせていた。

まだ若干湿っている目尻をぐい、と拭ってやれば、自分の状態を相手に理解されてると知ってばつが悪そうに俯く。なんだよ、メンタル死んでるお気に入りの女に縋られて怒るようなタマじゃねえぞ私は。なにしろ人類の父だし。

「せっかくだから抱き枕にでもなってくれよ」

ひょい、と持ち上げてやれば、落ちるまいと反射的にこいつは私にしがみつく。どうせ今日ここに来たのも、苦痛から逃れるために反射的に取った行動だったのだろう。
いざというときに縋る相手が私だということには少々クるものがあるが、今は我慢して、小さい頭を撫でてやるのに留めてやった。今度盛大に弄ってやろう。

さっきまで暖かった布団はもうすでに冷え切っていた。さみいからこっちこい、とベッドの降ろしてやった位置から動かない彼女に指示すれば、素直に従って距離が縮まる。人肌がなにより一番暖かい。

「で、なにがあった?」
「…」
「聞いてほしいから来たんだろ。さっさと話しちまえよ」

呼吸が段々と浅くなっている。落ち着くようにとん、とん、と一定の間隔で背中を叩いてやれば多少はましになったようで、ぴんと張り詰めていた空気が弛んだような気がした。震えた声が、小さい口から溢れ落ちる。

「夢を、見て」
「どんなだ」
「死んだ時の…痛くて、苦しくて」
「ああ」
「目が覚めて、ここは天国だから大丈夫って思っても、またあれがあるかもしれないって、怖くなって」
「気付いたらここに?」
「……うん…」

下がった睫毛に水滴がついて、そのうち赤くなった頬に垂れた。ほら、と腕を回して、羽根で囲って仕舞えば外からは簡単に見えなくなる。
頭が胸の辺りに押しつけられる感覚がして、この小さい頭に一体どんな記憶が埋まっているのかと不思議に思う。私といえど、人の記憶の中まで見られるわけではない。

「天使は死なない」
「…」
「お前の最期はもうないし、万が一のことがあっても、お前は私の部下だろ。このアダム様が責任持って守ってやる」

ぐす、と鼻を啜る音がくぐもって聞こえる。顔に掛かった髪を耳にかけてやって、水の膜が張る瞳に目を合わせた。

「それともお前は私が誰かに負けるとでも思ってるのか?この私が?ナメてんじゃねえぞ!」
「お、もって、ません」
「だろうな!したらさっさと寝ろ」

冷えた足はもうすっかり元通りになっていた。はい、とこれまた素直にボスの言うことを聞く馬鹿な部下は、安心したのか泣き疲れたのか、数分後にはすうすうと安らかな寝息を立てていた。扱いやすいヤツめ。




「ぜんっぜん眠くならねえなあ」

むしろ目が冴えたぐらいだ。シーツに広がる絹糸のような髪をくるくると指に巻きつけて遊んでも、腕の中の女は起きる気配もない。多分なにをしても起きないだろうな。例え、こいつの頭ン中を弄ったとしても。

嫌な記憶を忘れさせてやるのは罪になるだろうか。むしろ慈悲深くはないか?生前の記憶など、天国にいる期間が長ければ長いほど曖昧になっていくのに、どうして残しておく必要があるのか。アア、でもここでソレを抜き取ってやったら、私はきっと許されないだろう。

「私のいない記憶なんて、捨てちまえばいいのにナア」

自分の知らないこいつがいることが気に食わない。
知らないことで苦しんでるこいつがいることが気に入らない。私欲に塗れた望みを、彼女を囲う羽根に丁寧に仕舞って、意識も落ちる気配のないまま目を閉じた。

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