図書室以外で苗字先輩の姿を見るのは、なかなかに珍しいことである。
滅多なことでは出向かない二年生の教室は、思いの外威圧感があった。このフロアでは見慣れないであろう自分を、周りがちらちらと気にしている様子を感じる。
好奇の目で見られていても、注目を集めるという点では好都合であった。構わず教室の引き戸を開ける。
「…いた」
そっとドアの向こう側を覗いてみると、奥の方に先生と話している彼女が目に入る。授業の質問だろうか、ノートを片手にメモを取りながら話をしていた。
集中していて、こちらに意識は向けていないようである。問題なく事は運びそうな状況。ここを逃す手は無い。
さて、最初に確認したのは先輩がいるか否かであったけれども、今日の目的は彼女自身ではなかった。
そのまま教室内に目を滑らせると、その人は比較的入り口に近い位置の席に座っている。運良く、ここから声をかければ気付いてくれそうな距離であった。先輩がこちらに気がつく前に、口を開く。
「すみません、なまえ先輩いますか?」
彼女は、なかなか頑固な人であった。
目が合えば分かりやすく口元が緩むのも、一歩踏み込むと気まずそうに耳の端を赤くするのも、多少の無理を言ってもしかたがないと受け入れてくれるのも、随分と前からのことである。それなのに、繰り返す誘いの言葉に彼女は一切靡かない。
好きじゃない、と主張する割に、こちらを見上げるその目は分かりやすく熱が滲むものだから、余計理解ができなかった。何度なぜなのかと問いかけても、頑なに情報は得られない。
やきもきとすることもしばしば、ままならないことを楽しむにも飽きはくるものである。つまり、一言で言うならば計画は上手く進行していなかった。
予想ばかりで検証が出来ない惨状に、彼女を選ぶ、という前提条件から疑うべきかと考えたこともある。けれど、なかなか手に入らないものほど手に入れた時の達成感がひとしおであることを、俺は十二分に知っていた。
それこそが、まだ彼女から目を離さない、最大の要因である。それにもっと言えば、あと一押しのこの状況を自分が打破できないだなんて到底思えなかった。あとパズルのピースひとつで、彼女は己のものになるはずなのである。
今回の一手は、そのピースを得るための準備段階。標的は、彼女とよく行動を共にしている、同じクラスのご学友である。
「あ、ええと、先生と話してるね。呼んでこようか?」
教室と廊下の境界から声をかけると、存外彼女はすんなりとこちらに顔を向けた。
活発そうに大きな目を開いて、フレンドリーに話す姿は彼女には見られない特徴である。先輩は、もう少し大人しいタイプなので。
「ああ、いえ、急いでないので、終わってからで大丈夫です」
「そっか。先輩、って呼んでるってことは一年生?委員会とか?」
「一年の伊能です。委員会ではないんですけど、なまえ先輩にはお世話になってて」
へえ、委員以外で後輩の知り合いいたんだ、と。意外そうに話す彼女は、やはり相当先輩と親しいようである。
話したことこそ無かったが、度々校内で二人でいるところを見かけることもあった。まさに、今日のターゲットに相応しい人物である。
今回の目的、それは、彼女の周りの人間を味方につけ、攻略のための情報を得ること。そして、周囲の人間と俺が関わりを持つことで、彼女の精神状態に変化を起こさせることである。
「なまえ先輩って後輩で知り合いいないんですか?」
「私大体一緒に行動してるけど、後輩と話してるの見た事ないよ。なんか新鮮〜」
よろしくね、とゆるく振られる手。その動作はどことなく彼女が図書室のカウンターから俺を見送る時のそれと似ている。
まずは情報の引き出しから、と問いかけたそれは、特に怪しまれることもなくすんなりと回答された。警戒心は強いタイプではない、と。
「なんか先生との話長くなってそうだし、要件あれば聞いて伝えとくよ?」
「ありがとうございます。でも時間あるので、待とうかと」
「そうなの?ならいいけど。じゃあ、話終わったら連れてくるわ」
す、と自席に戻ろうと彼女が動く。咄嗟に静止の声をかけると、あちらはきょとんとした表情でこちらを見上げた。まだ、話は終わっていない。
書き上げたシナリオ通りに口を開けば、概ね思い通りのレスポンスが返ってくる。
「なまえ先輩と仲良いんですよね」
「うん、そうだよ。どうしたの?」
「先輩のことで一つ聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
▽
「ね、後輩来たよ」
先生との会話を終えて、ぱたん、とノートを閉じると、なにやらにこにこと笑みを浮かべて彼女がやってきた。一年生のころから同じクラスの友達で、ずっとその顔を見てきたけれど、今日のような表情は今までに見たことがない。
後輩、と言われて思い当たる人がいなくて、首を傾げるとはあーっ、となぜかため息をつかれた。
「い、の、う、くんだよ!伊能くん!」
「…え?伊能くん?」
「そうだよ!もう、後輩に仲良い子できたなら教えてよ〜」
「仲良い、っていうか。図書室で会うだけだけど…」
言う途中で、そういえば図書室以外で顔を合わせたことがないな、とふと気がついた。たまに見かける事はあれど遠目から見るばかりで、話すまでにはいかない。
彼女が振り返るのを見て同じ方向を見れば、ドアの側面に体重をかけてこちらを見据える彼の姿があった。
「ほら、行ってきてあげなよ」
「…今日のテンションなに?どうしたの?」
「なあんでも?」
ぐ、と背中を押される。なんだか普段よりも、なんなら朝よりも明るい、というか調子がいいような感じの友人を不審に思いつつ、にんまりと読めない笑みを浮かべた彼の方へと歩を進める。どことなく彼が満足げに見えるのは気のせいだろうか。
「苗字先輩」
「遅くなってごめんね。急にどうしたの?」
近づくと、少し低い声で呼ばれる。一言謝って要件を聞けば、す、と彼の左手がこちらに差し出された。流れるままに見ると、見覚えのあるシャーペンが握られている。これは。
「先輩のシャーペン、俺のところに混じってたので。返しにきました」
「えっ、嘘。気が付かなかった。後でもよかったのに」
「…『後』?」
「え、来るでしょ、図書室」
「ああ、そうでした」
わざとらしく、肩をくすめる。わざわざされた確認に、なんだか発言を誘導された気がしてそわそわしてしまった。図書室でないからかもしれないけれど、普段より声も張っているような感じがする。なぜか、今日はみんな様子がおかしい。
「多分この前勉強見てもらったときだと思います」
「…ああ、あの時かあ」
数日前の図書室で問答無用で教科書を広げられたときのことを思い出す。その日はなぜかやたらと距離が近く、隣に座る彼の圧に気押された記憶があった。距離に伴って机の上もごちゃごちゃとしていたし、そのときに混じってしまったのであろう。
「二年の教室までわざわざありがとね」
思い出して暑くなってきて、誤魔化すように首を振った。差し出された失せ物を受け取る。
手渡されたシャーペンは紛れもなくわたしのものだったけれど、予備用で持っているだけで普段は使っていないシャーペンだった。
通りで気が付かないわけだ、と思う反面、ペンケースから出すことさえほとんどない、常に底の方に埋まっているものなのに、どうして混じってしまったのだろうかと疑問が生じる。が、次の瞬間にはそんなどうでもいい疑問なんてかき消えてしまった。
唐突に、彼が後ろを指す。人を指さしちゃいけません、なんて知りもしなそうな伊能くんの示す先は、先の友人であった。長い黒髪が、窓から差す光に当たってきらきらと揺らめいている。
「あの人って、先輩のご友人なんですね」
彼の視線がわたしの背後へと映った。つられて先程と同じように振り返ると、こちらを見ていたらしい彼女が手を振る。笑顔が愛らしい彼女だけれど、今日のそれはやっぱり、なんだか違う雰囲気を纏っているような気がした。どことなく、面白がるような。
「うん、そうだよ。一年の頃から一緒のクラスなの」
「…へえ」
やさしい人ですね。
やたらはっきりと、口が動くのが見えた。彼の口角が、ゆるやかに上がる。黒が光るその目に彼女を映して、若干穏やかに細まった。ぎゅう、と心臓が締まる。それは、いつもわたしが向けられている目なのに。
「……先輩?」
「…あ、そう、だね。優しいよね」
わたしは今、何を思って息苦しくなったのか。答えは明白であり、きちんと理解もしていた。
しかしながら、わたしの立場ではそれを受け入れる事はできない。己の怯えで、彼の言葉を拒絶しているわたしには。
▽
「なまえ先輩って、彼氏いるんですか?」
「……」
突如現れた友達の後輩。しかも、なかなかに顔が整っていて、物腰も丁寧。そんな第一印象良さげな彼は、わざわざ私に聞きたいことがあるらしい。
はて、と思って耳を傾けてよくよく聞いてみれば色恋沙汰であったのだから、上手く言葉が返せなかったのも仕方がないことであろう。
「…あの」
「……そういうかんじ?好きなの?なまえのこと?」
「………まあ」
「え〜〜、え、え〜〜!!」
「声、大きいんすけど」
彼はそう言って、迷惑そうに目を逸らす。
意外と先輩相手でもずけずけとものを言う子なのだな、と漠然と思った。恋バナをしているのに、声が大きくなってしまう私も私なのだけれど。
「彼氏、いないよ。あの子、今までできたことないって言ってるし」
高校からの我が友は、全くと言っていいほどそういった浮いた話が出てこない人であった。
過去の経歴を聞いても、ないの一点張り。彼氏はおろか、好きな人でさえいくら叩いても出てこないものだから、最近はもう聞くのをやめてしまったのだれけど。こんなに面白いものを見逃していたとは、継続することの大切さを見に沁みて感じる。
「誰かに言い寄られてたりとかは?」
「私が見てる限り、なさそうだけどなあ」
敵情視察、といったところだろうか。矢継ぎにされる質問たちに、分かる範囲で答えていく。淡々と止めどなく口が開くあたり、聞きたいことは事前に決めてあったのだろう。彼女に用があると言っていたが、どちらかと言えばこの問答が本命のような。
こちらとて、視察をされるばかりではない。大切なあの子を受け渡すに相応しい人間かどうか見定めるべく、注意深く観察する。
受け答えを見る限りかなり頭が良さそうで、計画的な子のようであった。こんな人にフロア違いの教室まで来させて情報収集させるだなんて、あの子もなかなかに魔性の女なのかもしれない。飄々としてはいるけれど、その奥に確固たる熱意を感じて、無条件に応援したくなってしまった。ふむ、なかなかに人を味方につけるのが上手である。私がチョロすぎるだけだろうか。
「ありがとうございます。参考になりました」
ひとしきり終えて、どうやら満足したようであった。ぺこりと控えめに会釈をされる。いえいえ、と口に出した自分の声色が、相当浮き足立っていることに気がついた。
「お役に立ててなにより。私でよければ相談とか乗るからね」
「本当ですか?機会があればぜひ。助かります」
あの子はなかなかに気がつく人だから、きっとそこまで苦労なく事は進むとは思うけれど、逆に気が回りすぎて読みを間違えると、余計な遠回りをすることがある。そこまで彼が分かっているか否かは、定かではないが。
果たしてあの子は彼のことをどう思っているのだろう。きっと直接聞いたら好きでもそうでなくても怒られるだろうから、どうにか観察して見極めなくては、というところまで考えて、自然と口角が上がった。彼女とつるみ始めてからめっきり機会は減ってしまったけれど、私は大の恋バナ好きなのである。
「ああ、そうだ。今話したことは、先輩には秘密にしてくださいね」
にこりと。細まる瞳はこちらを見ているようで、きっと奥の彼女を見据えていた。内緒だと、悪戯にひとつ、人差し指が立てられる。考えていたことを悟られたのだろうか。決して人の想いを言いふらすような事はしないけれども、タイミングの良い釘の刺し方にどきりと心臓が跳ねる。
誤魔化すように彼に倣って、私も後ろの彼女に目を向けた。一つ下だとは思えないほど落ち着いている後輩くんを虜にして、まだこちらに気がついていない様子の彼女はなかなか隅におけない子であったらしい。
先生との話が一区切りついたのか、彼女が教卓を離れる。私はなんとも必死な彼のために、にやつく口元を押さえて彼女の元へと足を進めた。