舞台は整った

「俺、高校のうちに一回は恋人が欲しいんですよね」

恋愛自体はいつでもできますけど、高校での恋愛は今限りでしょう。何気なく始まった語りに、小テストの勉強のためにルーズリーフに滑らせていたシャーペンの動きを止めた。いつもの雑談とは異なる空気感。ぴり、と指先が強張るのを感じる。

恋愛の話を振られる事は、決して珍しいことではない。そもそも、彼はわたしに付き合って欲しいと散々言っているし、参考までにと恋愛観について根掘り葉掘り聞かれることも一度や二度ではなかった。
しかしながら、「付き合ってほしい」以外の彼の願望について語られる事は初めてのことである。真正面からあちらを見つめるのが怖くて、横目で隣の彼の顔を伺った。いつもなかなか逸してくれない目は、今日はわたしの顔ではなく手元を捉えている。

普通に、つい数分前まではいつも通りの放課後のはずだったのに。なんて返したらいいのか分からなくてそのまま黙っていれば、補足するように伊能くんが口を開いた。

「知ってます?高校って三年間しかないんですよ。もう残り少ないんです」
「…伊能くん、まだ一年じゃん」
「三年になったら受験でしょ?周りがそれどころではなくなりますし、第一俺も足を引っ張られるのは嫌です」

それでも二年もあれば十分だと思うのはわたしだけだろうか。言い返そうかと思ったけれど、彼の言わんとしている事はそこではない気がしておとなしく言葉を飲み込んだ。

今度はきちんと目を合わせるように顔を上げると、頬杖をついた伊能くんの、重たい三白眼がこちらを見上げている。

「苗字先輩」
「…」
「先輩が本当に嫌なら、俺はもう諦めて次の人を探します。そっちの方が効率良いし、当てもあるんで」

あっさりと。今までの攻防が嘘のような口ぶりである。冷めたその台詞に、ああ、ついに来たか、と思うと同時に、きゅうっと喉の奥が閉まった。微笑む彼の表情は、わたしでは図りかねる。

「もう一回、聞きますよ」

俺のこと、好きになりました?





来ると分かっていたはずの日は、いつだってまさか今日だとは思わないものである。何度も否定を重ねてきた問いかけはきっと今日で最後だろう。ここで断りの一言を述べれば、二度と彼がここに来る事はない。
図書室に来ることがあったとしても、彼のことだからあえてわたしのいない日を狙うのではないか、と思う。いいや、むしろ嫌がらせで会いに来るかも。
しかしどちらにせよ、今のような甘やかな時間は過ごせないことを考えると、覚悟していたとは言えなかなか寂しいものである。

「……」

彼は、おとなしくわたしの口が開かれるのを待っていた。自信のあるような、はたまた見定めるような視線が鋭く突き刺さる。どう返事をしたものか、としばらく黙っていても、いつまででも待ってくれていそうな雰囲気であった。

「彼はわたしのことが好きなわけではない」という朧げな仮説は、先の発言で確証されたも同然である。彼の目的は「わたしと付き合うこと」ではなく、「恋人を手に入れること」であるようだ。
次にすぐに向かえるくらいに、わたしに対する執着はまるでない。ショックを受けるのではなく彼らしいとまず思えたのは、彼が淡々と話す姿に一切の感情が見られなかったからだ。その様子は普段の様子とまるで変わらない。
これまで薄々勘付いていながら、見て見ぬふりをしていた事実を直視する時が来たというだけである。

ここで自分の想いを認める選択肢は、わたしには無かった。認めてしまえば、次に別れを切り出すのは彼の方である。
わたしを見つめてくれていた目が「もう貴方はつまらない」と語る様を見るのはどうしても嫌だった。今ならまだ、成されなかったきれいな恋で仕舞い込んでおける。向こうが本気ならばこんな保身は酷いものであるけれど、そうでないならば罪悪感を感じる必要はないだろう。
それにどちらにせよ、長くは持たない関係なのだから今切れてしまっても大して変わらない。加えて言えば、こっちばかり掻き回されて、あちらは思惑通りに事が進んでいくのは少々癪だった。
次の言葉をずうっと待っている彼に、意を決してエアコンで冷えている空気を吸い込む。

「…なってな、」
「俺が次に誰を選ぶか、分かりますか?」

い、と最後の文字を言う前に、被せるようにして言葉が飛ばされる。なんのつもりだと眉を顰めると、彼は「まあまあ、ちょっとくらい俺とお喋りしてくださいよ」と頬杖をついた。
そうした我儘にも似た気まぐれな一言に、わたしがため息をつきながらもいつだって従わざる得ないことを彼はよく知っている。元来わたしは推しに弱い性格なのだから、伊能くんのような我が強くて他人を誘導するのが得意なひとには勝てないのであった。
全く、と思う一方で、場の空気感が普段通りに戻ってきていることに、少し安堵している自分がいる。

「……わかんないよ。伊能くんの知り合い知らないし」
「本当にわからないんですか?薄らと気づいているのでは?」

まるで責め立てるように次々に問いかけられる。わざわざわたしに言わせたい人なのかと考えを巡らせてみると、ふっと一人、思い出される人がいた。わたしか知っていて、彼も会った事がある。彼がしつこく問うならばきっとその条件に合う人だと考えられるが、そんなひとは一人しかいなかった。わたしの、一番の友人。一度だけ、彼がうちのクラスに来た時に話していたはずだ。彼が彼女を「やさしいひと」であると評したことを嫌によく覚えている。

彼女は顔も中身も可愛らしく、明るいひとであった。高校生の恋愛を彩るには、わたしなんかよりもずっと適任な気がする。そういえば、あの時話した内容を頑なに教えてくれなかったのは、一体どうしてだったのだろう。

「ふふ、どうです?」
「……い、いいんじゃない?今彼氏いないって聞いてるし、」
「本気でそう思ってるんですか?」
「……あ」

す、と、伊能くんの指先が、わたしのそれと重なった。出そうとしていた声は途切れて、代わりに空気の抜ける音がする。初めて感じた重みは、思いの外熱を持っていた。きっと、彼はなにも思っていないのに。
誤魔化すようにして並び立てた台詞に、伊能くんには全部分かっているみたいに先回りしていく。

「俺が先輩以外のところに行っても、いいんですか?」
「…それは」
「先輩が一言肯定すれば、俺は貴方のものですよ」

にやりと笑った口で、囁かれる。「次の人を探す」と言う割に、どうにも彼にはその道を行く気があるようには感じられない。それが、不思議でしょうがなかった。
わたしのもの、とは劇的な言葉選びである。どうして彼はそこまでしてわたしの背中を押すのか。もうとっくにわたしは伊能くんの掌の上で、そこから放り出されないように必死になってこの有様であるというのに。

「他の人にこうやって迫ってるところ、見たくはないでしょう?」

ひとつ頷くだけで、その不安も不快も解決できます、と。確かに、彼があの子を見た時に感じたあの重みを、ずっと感じて過ごしていくのはきっと大変であろう。でも、そう唆す彼の意図が、考えが、わたしには分からない。彼のことが分からないのは、出会った時からずっとそうであったのだけれど。

「ねえ、俺を先輩の彼氏にしてください」
「……や、やだ」
「この期に及んでまだそう言うんですか?」

黒の瞳が煌々と輝いて、こちらを見据えている。後押しするように、すり、と手の甲を撫でられた。流された方が楽ですよ、と、今までで最も近い距離で囁かれる。
伊能くんにしては力技すぎないか、と冷静に思う反面、上がる体温は押されられそうにもない。彼の隠す気のない含み笑いが小さく聞こえた。先輩?と面白そうに呼びかける伊能くんに、もう泣いてしまいたい思いである。どうして早々に諦めてくれないのか、わたしのこと好きじゃないくせに。

「な、なんでそこまでしてわたしと付き合いたいの」

「なんで」が今をぐるぐると回って、ついに口から溢れ出た。次に行くならば、さっさと行けばいいじゃないか。わざわざ断りの文句を遮って、食い下がるその必要性はどこにあるのだろう。ぱちり、とまばらに垂れる前髪の隙間から、揺れる睫毛が見える。

「……」
「さっき言ってた通りに諦めたらいいじゃん。伊能くんのこと、よくわかんない」
「…それはこっちの台詞です。先輩がなにを考えているのか、全く理解できない」

でも知りたいから、こんなに必死になってるんですよ。
重ねられている手に力が入る。指と指の間に彼の骨ばったそれが差し込まれて、ど、ど、と寿命の縮むような嫌な音がした。きっと既に、崖っぷちに立たされている。

「これが多分、好きってことでしょ。先輩が好きだから、俺はこんなに頑張ってるんです」
「……は」
「先輩こそ、もう諦めてください。俺と付き合ってくれますよね?」





「今まで逃げててごめん」
「本当ですよ。俺がどれだけ待ったと思ってるんですか?」

思ったより粘るから、どうしようかと思いました。全く困ってなさそうな顔で、思ってもないことを言う。いつのまにか手は離れて、エアコンの効いた部屋の冷たい風が当たっていた。

結局あの後、わたしはじんわりと熱を浮かべる彼の視線に耐えきれずに首を縦に動かしていた。彼が言った「好き」が嘘か真かなんてわたしには分からなかったけれど、もう諦めていたそれを望む通りに贈られてしまってはもう完敗である。この一手のために軽口以外の「好き」を簡単に口に出さなかったのなら、随分と考え抜かれた策略ではないだろうか。
結局、わたしは自分の意地を理性的に貫けるほど強い人間ではなく、コントロールに長けた彼には抗えないのだった。

今まで呆れるほど意地を張って認めなかったものだけれど、一度想いを吐き出してしまうと案外すんなりと受けいられるもので。すぐに離れてしまうだろうと懸念していたことも、暇つぶしに選んでもらえたならそれで十分だと思える気がしてきていた。なんとも単純な頭である。

「じゃあ、今後は図書室には来なくなるんだねえ」

当たり前に、何気なく発した一言。どうってことなく流されると思っていたのに、なかなか返事が返ってこない。

不思議に思って横を見ると、伊能くんは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。その表情は初めて見たかもしれない。大抵、彼は含み笑いを浮かべているか、無表情か、嫌そうな顔でこちらを見つめている。

「は?なんでですか」
「え?いや、もう通う必要なくない?目標達成したんだからさ」
「…俺、ここ以外で時間作れないんで。会うなら図書室しかないですよ」
「…これからも会うの?」
「……」

なかなか噛み合っていないような会話が続き、伊能くんはついに黙ってしまった。あれ、わたしなにか勘違いをしてる?ぱちくりとお互いに見つめ返すと、怪訝そうな顔をした彼がやっと口を開く。

「今、先輩『付き合う』って言いましたよね?」
「え、うん…」
「付き合った男女は、定期的に顔を合わせるものじゃないんですか?」






「……はあ?」
「ご、ごめん」
「やっぱり先輩って全然頭良くないんですね。本ばっか読んでるくせに」

ため息しか出てこない。要領の掴めない会話に不審に思って問いただせば、考えつきもしなかった事実がぼろぼろと出てきた。こんな飛躍した思考では分からなくて当然である。
事の顛末を要約するに、彼女は「付き合ったら目的達成、それで関係性は終了」だと俺が考えていると思い込んで、告白の返事を先延ばしにしていただけのことだったらしい。そんな目と鼻の先のことしか見えていない男に見えているのなら心外である。

それなりに近い距離感で人と接している印象だったが、意外にも対人関係に臆病なのだろうか。どういう思考回路をしているのか、全くもって理解できない。どうせ単純で流されやすい性質なのだから、素直に目先の欲に飛びつけばいいものを。

「全く、面白いひとですね」
「…怒ってるの?」
「…いいえ?」

想定通りにいかないことを楽しめない性分ではない。全てが明らかになった今、自分のことで頭を悩ませて実の結ばない抵抗をしていた彼女を考えると愉快なものである。決定打が己の策略通りにハマったという事実も、なかなかに気分が良かった。
「好き」と言葉にするのとしないのとでここまで意識に差が出るとは理解し難いが、付き合う付き合わないという関係も言葉にしなければ正式には成り立たないことを考えると、口に出す事はなかなかに大切な事のようである。

「……じゃあ、まだ一緒にいてくれるの?」
「当然です。まだ序章ですよ」
「えっ、これも本にするの?」
「それもいいですね。甲子園出場を支える恋人は受けが良さそうですし」
「い、一気にビジネスの匂いがしてきた…やっぱりわたしのこと好きじゃないんでしょう」
「嫌ですね、俺の気持ちを疑うんですか?」

実を言えば、次の当てなど無かった。危機感を募らせるために選んだ言葉は、これまで散々検討した可能性を引っ張り出して作り上げた文句である。
「相手を選び直す」という選択肢を蹴った時点で、何度失敗したとて彼女を逃す気はさらさらなかった。思えばあの日、図書室で声をかけられた時点で、俺は既に揺るがない意志を持っていたのかもしれない。

今回の一番の収穫は、案外自分にも、非合理的な思考ができるところがあるのが判明したことである。
ここまで固執したのは、挙げてきた理由の数々を省みても、説明のつかない点がいくつかあるような気がした。

「俺、自分で思ってたよりずっと先輩のこと、気に入ってるみたいなんですよ」

最初に思っていたような、ただ都合のいいだけの人間ではないかもしれない。けれども、だからこそ人というものは面白いものなのだろう。

「俺にはまだまだ、知りたいことが山程あるので。これからも、よろしくお願いしますね?」

ぎし、と、古い机が軋む。見よう見まねで縮めた距離に彼女は反応しきれずに、そのまま机に落ちる影が重なった。

top / buck