「きゅんとする」とは、具体的にどういった感覚なのか、彼女に質問をしたことがある。
「きゅ……なんで?」
ぴたりと動きを止めて、ほんのり頬が赤く染まっていた。机に広げられたノートには数式か何行にも渡っている。
まだ一年生では習っていない範囲ではあるものの、昔暇つぶしに読み漁った参考書の中に似たようなものがあった気がした。その文字の羅列の中でかなり序盤にあった計算ミスを指摘すれば、なんとも悲痛な唸り声が上がる。先輩の苦手な教科は数学であった。
頭をかかえてしまった先輩に構わず、話を戻すように口を開く。
「先輩はしてるんでしょう?『きゅん』って」
「その話やっぱするの…?」
この表現は、様々な人が実際に体験したと語り、ありとあらゆる創作物にも高頻度で登場する。恋と伴って発生する感情であり、好意があるからきゅんとするのか、きゅんとしたから好意が生まれるのかといった具合で、鶏と卵のような関係性ではないかと目を通していて感じた。己には未だ未体験の領域である。
そこで、役立つのは感情豊かな我が恋人であった。自分には理解し難い感情、思考をシミュレートするために彼女を手に入れたのだから、これを活用しない手はない。
そう考えて、恋愛感情に限ってはきっちり先輩を全うしてくれている彼女に問うてみた次第であったのだけれど、当の本人は嫌そうに顔を歪めるばかりである。まあ、予想通り。先輩は恥ずかしがりなので。
「知りたいので。どうなんですか?」
「……してないよ、別に」
「俺にはよく分からないので、どういう感覚なのか参考までに教えてください」
「してないってば」
隠す気もない言葉を、気にせず無視して続ける。何か言いたげな顔だが、見て見ぬ振りさえすればそのうちに諦めてくれるのが彼女であった。押せば通ることは既に数えきれないほど実証済みである。
「…そうだなあ」
最初の抵抗も束の間、思った通りすぐに根負けした彼女は、おずおずと話し出した。居心地が悪そうに、一度も合わない目は棚の中の本のタイトルをひたすらに眺めている。
言葉に詰まりつつも教えてくれた彼女によると、「きゅんとする」とは「わあっと体温が上がって、心臓がぎゅうっとなって、その人のことしか考えられなくなる感覚」であるらしい。
聞き出す際に唯一誤算だったのは、先輩は物事を抽象的に説明する人であったということである。いまいち、よくわからない。期待外れだ。
「何言ってんすか?」
「き、聞いたのそっちじゃん!わたしじゃ伝わるように説明できないよ」
「苗字先輩、俺のことしか考えられないんですか?」
「……うう」
そうだよ、と蚊の鳴くような声と、潤んだ瞳がこちらを向くのを、やたらと鮮明に覚えている。自分の心臓や体温に変化がないか、注意深く探ってみたものの、特に変化は見られなかった。
そっと彼女の手に触れれば、自分のものよりも幾分か温かい。なるほど、これが「きゅんとした」人の温度か、と、こちらを睨む先輩を見て思った。
▽
ぱ、と、机に置かれたスマホが明るくなる。学校だからかマナーモードになっているらしい先輩のスマホは音こそ立てなかったけれども、伏せて置かれていないせいで通知が来たことが丸見えだった。いつも通りに適当に選んで目を通していた本を置いて、そちらに意識を向ける。
手を伸ばせば届く距離にある画面をあえて遠目で眺めると、その通知は誰かからのメッセージを知らせるものであるようだった。ちらりと見えた通知の名前は、今時に珍しくフルネームである。見覚えのある名前。彼女のクラスの名簿を調べた時に見かけた気がする。文字列を見る限り、確実に男の名前だった。
異性の知り合いは少ないと先輩の友人からは聞いている。俺自身、彼女が同い年の男子と話しているところを見たことがない。この人は、もしかするとなかなか貴重な存在なのかもしれない。
「……」
先程まで隣に座っていた苗字先輩は、先程知り合いに呼び出されて図書室を出て行った。最近は行事が立て続けにあるせいで、人も自分以外にはいない。
読んでいた本のページが、エアコンの風で捲れてひそかに音を立てた。
彼女は、かなり甘い人である。少なくとも、後輩であり一応は恋人でもある俺のことは、随分と甘やかしているように思えた。それならば、同年代の男友達とはどう喋るのだろう。
ひとつの物事を推し量るには、必ず基準となる別の事例が必要だ。基準からどれだけ変化があるのかを見ることで、そのものの実態が分かってくる。
それに則って言えば、彼女の「恋人でない異性への対応」は逆説的に「恋人への対応」を知るのにまさに適切な判断材料になり得た。彼女は出会った時から基本的に優しい人間である。もし俺への甘やかしが他の人にも適応されているのであれば、それは彼女のデフォルトの対応であり恋人への特別とは言えない。
「先輩が好きな相手に対してどう変化するのか」を知ることは、恋によって人がどう変化するのかを知る手掛かりにもなるだろう。年齢が後輩と同年代とで違うという点で、対照実験としてはふさわしくないが、先輩には後輩の知り合いがほとんどいないらしいので良しとした。
この条件と、今の状況。完全犯罪を行うには、またとない絶好のチャンス。
単純に何を話しているのか気になるというところもあり、考えているよりすんなりと身体が動く。パスワードは、普段横から見る彼女の手の動きでとっくに覚えていた。記憶を頼りに数字を押せば、いとも簡単に侵入することができる。
スマホはさっきまで触っていなかったはずなのに、背面に熱を持っていた。暑い日のアスファルトを思い出す。
じんわりと伝わる熱さばかりが気になって、不覚ながら俺は後ろで揺れた人影に気がついていなかった。
「伊能くん」
▽
なにしてるの。
空気が張り詰める。いつのまにか戻ってきて俺の後ろに立っていた先輩は、咎めるように鋭くこちらに声をかけた。咄嗟に声の方へと動いた目と、意図せずきゅっと引き攣った口に、彼女の冷たい視線が寄せられる。見たことのない目、一切の感情もないような。
今まで聞いたどの声より、どの表情よりも彼女らしさに欠けていた。やけに血が巡る感覚が脳に伝わってくる。こんな先輩は知らない。
「…聞いてる?」
「……あ、」
「それ、わたしのだよね?」
「わあっと体温が上がって、心臓がぎゅうっとなって、その人のことしか考えられなくなる」。
彼女の言葉が頭を掠めた。自分の首に手を当てる。特別熱くはないが、冷めてもいなかった。思い出されるのは先輩の手の平の温度である。
「…す、いません」
巡る脳内とは関係なく、自然と謝罪がこぼれ落ちた。いくらでも言い訳は思いついていた。誤魔化す術も知っている。浮かぶ言葉を口にすれば彼女がそれを信用することも分かりきっていたはずなのに。
今この時にそれができなかった、しなかったのは一体なぜなのだろう。空気に呑まれてうまく身体が働かないなんて失態は、これまでの人生で一度もなかったというのに。
ぶわ、と高揚する感覚。ぞくぞくと内側から這い上がってくる反応。変な笑いが込み上げそうになってしまって、ふるりと鳥肌が立つ。
自分にない可能性を秘めた相手への興奮とは似て非なる、もっと生暖かく巣食うような激情がもし今考えているそれであるなら、彼女が「説明できない」と根を上げたのも確かに分かるような気がした。釘付けになっていた目線をやっと逸らすと、先輩はゆっくりとこちらに近付く。
「…どうしたの?」
彼女の眉尻が下がった。同時に伝わる空気と音も和らいで、は、と呼吸をする乾いた自分の声が耳に入る。無意識に、息を止めていたようであった。
彼女は、普段の先輩の表情でこちらを見つめている。数秒前の姿が幻だったかのようだった。
まだ先程までの心臓の余韻が微かに残っているような感じがして、一度深呼吸をする。返事をするにあたって、平静を装って極めて淡々と口を開くことを意識した。先程脳内に羅列されていた口にすべき言葉が、ようやく喉を通る。
「ライン、来てたんで」
「…あ、うるさかった?ごめん、マナーモードにしてたつもりだったんだけど」
「…マナーモードにはなってました。どんな話してるのか気になったので、つい」
この後に及んで嘘をつく必要もないと判断して、あけすけに事実を話す。怖いもの見たさの感覚でちらりと相手の様子を伺うと、こちらが持つ自分のスマホを見下ろしてなにか考えているようであった。怒っているのだろうか。彼女の怒った姿というのは、先程のあれ、ということで間違いないのだろうか。
そのままじっと先輩を見ていると、落とされていた目がこちらに向けられる。一歩近づいたかと思えば、彼女は俺の手からスマホを抜き取った。困ったようにハの字に下がった眉からは、怒りなど微塵も感じられない。
「……トーク画面、見る?」
「…なぜ?」
「だって、気になるんでしょ」
ゆるりと問いかけられた言葉は、随分とやわらかい響きで伝えられた。別に見られて困るようなものでもないし、と流れるように画面がスクロールされる。
先輩は既にロックが解除されていることにも特に言及せず、迷いなく通知欄を触った。一瞬指の動きが止まったから、気付いていないわけではないだろうに。
いいんですか、と一応聞いてみるけれども、きちんと聞いているのかいないのか生返事か返ってくるばかりで、あえて見せた気遣いは意味をなさなかった。
そんなに簡単にプライベートを開示するなんて、俺には全く理解できない。さっき無断で見ようとしていた人間の言うことでもないが、彼女はどうにも性善説を信じて疑わないようで少し呆れてしまった。状況はこちらに都合がいいように動いているから、指摘はしないけれど。
「はい」
横からこちらが見えやすいように画面を傾けられる。彼女に誘導されるまま、それを覗き込んだ。縮まった距離に、先輩が少し仰け反る。
触っても良いとの許可に甘えて、トーク画面をスクロールしていけば、そこそこの長さのやり取りが確認できた。そのまま文面に目を滑らせる。
内容としては、委員のシフト交代や課題の質問など、ありきたりなものばかりだった。所々で「お礼」と称して遊びに誘われている場面もあったが、毎回相手が可哀想になるくらいばっさりと断っている。
「同じ委員会の人ですか?」
「そうだよ。クラスで二人選出されるから、もう片方の方」
「ふうん」
俺にはこんなふうにはっきりとは言わないだろうな、とまず思った。俺に対する言葉よりも大分雑、というか気安い雰囲気のある文章は、自分が知っている柔和な彼女にしては毒気が多い気がする。
同い年ならばこんなものかと納得しないことはないし、どちらがより親しい人に対する文章か、と言われれば優劣はつけられないくらいのものである。でも、確かに温度感が異なっていた。成程、これが恋人とそうでない相手との違いというわけか。
「ね、なんもないよ。普通の会話でしょう」
不貞を疑われていると思っているのか、諭すような言い方をされる。当然ながら先輩の心配しているような心理状態にはなかったのだけれど、確かに彼氏がスマホを見たがっているとなるとそう思うのも致し方ないことかもしれない。意外な発見だった。だからやたらと親切なのか。
「……」
ふと、考える。この画面の向こうの男は、俺の知らない先輩の姿を見たことがあるのだろうか。優しいだけじゃない、例えば、さっき身を焦がすような圧を放っていた彼女のような。
この相手は既に、びりりと脳が揺れるあの感覚を彼女の手によって味わされたことがあるのかもしれない。俺よりも先にそれを知っていた可能性を思うと、もし俺が同い年であったなら、なんて考えても仕方のないことが脳裏を掠めた。そうであったなら、先を越されることはなかったかもしれないのに。
「先輩って、俺には随分優しいんですね」
「…え?」
▽
「な、なに?急に」
「別に」
突然褒められた割に、ふいっと逸らされてしまう視線はどこか、遠くの方を見ている感じがした。
良かれと思って見せたトーク画面だったが、なにかまずいものでもあっただろうか。少なくとも、機嫌が良いわけではなさそうである。なんとなく直感的にそう思って、彼の視界の中に入ろうと少し動いてみるけれども、一向に目は合わないままであった。
困ってしまって、画面を開いたままのスマホに目を落とす。間も無くまたぴこん、と音を立てて通知が来た。こちらが既読がついたのを見て、催促のスタンプを送ってきたようである。こっちはそれどころじゃないっての。
「もういいです。ありがとうございます」
「え、あ、うん」
す、と、距離が離れた。わたしの身長に合わせて若干屈んでくれていた彼は、ひとつ伸びをして元の席へと戻る。
わたしも倣って隣に座ると、開きっぱなしの本に目を落としている彼の横顔がよく見えた。その黒い目は、文字を追っているようには見えない。
しかたがないので、意を決してずっと思っていたことを聞いてみる。きっと待っていてもなにも出てはこないだろう。
「…もしかして不安になったりした?」
「不安?」
やけに緊張して、声が震えていないか不安になった。さすがに勝手にスマホを触られるとは思ってなかったけれど、置きっぱなしにしたわたしもわたしである。
彼のことだ。中身を見たいと思ったのならわたしに理解できる理由かは別として何か考えがあったはずだし、もし仮にそれで嫌な思いをしたのであれば謝りたい。質問は誰もいない図書室によく響いた。反復された言葉が、やけに重みを持っているように感じる。
「……」
わたしの問いを反芻するように、彼は考え込んで黙ってしまった。暫く無言が続いて、手持ち無沙汰にルーズリーフをファイルに仕舞う。言わなきゃよかったかも、と思い始めて、誤魔化すように口を開いた。
「そ、そんなわけないよね!伊能くんってやきもちとか、全然妬かなそうだし」
「……やきもち」
「あはは、ごめんごめん。思い上がっちゃった」
「………これが?」
「え?」
唐突に本から顔を上げて、じっとこちらを見る。わたしはというと、スイッチが入ったように動き出した伊能くんに、どう対応したらいいか全く分からずに、かちこちに固まるしか出来なかった。今彼はなんて言った?
スマホが音を立てて、ファイルの上に落ちる。反射的に目を向けると液晶が上になって倒れていた。わたしが拾う前に、彼がそれを手にする。
「先輩って」
「な、なに?」
「本当は結構毒舌なんですね。知らなかったです」
「えっ、そう、かなあ」
思わぬ指摘である。普通にいつものわたしの文章で、特に毒を吐いているつもりもなかった。
もしかして、無意識でしている言葉遣いに引かれたのだろうか。背中に冷や汗が垂れる。どんな話をしていたんだったか。今すぐにメッセージを確認したいところではあるけれども、当のスマホは彼の手の中でわたしにはなす術もない。
伊能くんと話す時は少しでも先輩ぶりたくて、一応ちょっと丁寧に、を心掛けているのだけど、もしかしたらそれが上手く行きすぎてイメージと違ったのかもしれない。
「この人、わたしのこと便利な人間だって思ってるからさあ、色々頼んでくるんだよね。だから辛辣になっちゃったのかも」
必死の言い訳。こんなことで誤魔化せるとも思ってないけど、とりあえず理由をつけておくことにした。ちら、と彼の方を確認するけれども、なにを考えているのかわからない。
「…便利ってだけなら、遊び誘ったりしないと思いますけど」
「、は」
「苗字先輩って、危機管理能力低いですよね。これで相手に気がないって言うのはどうかと思いますよ。馬鹿なんですか?」
「ば、ばか?」
「それに俺、こんな風に先輩から断られたこと無いです。いつも大体言うこと聞いてくれるし」
「…あの、怒ってるの?」
「いいえ?怒ってたのは先輩でしょ」
矢継ぎ早に、そう責められる。にこりと笑みを浮かべているのに、全然穏やかな感じはしなかった。
言われたことを反芻するに、やっぱり、ちょっとだけ嫉妬してくれたのだろうか。きゅんとしたいところだけれども、そんな余裕はないくらいに、目の前の圧が強い。
「今日、初めて先輩に怒られました」
節目がちにそう述べて、読みかけの本は閉じられた。そういえば、と、何を読んでいたのか知らないことに気がついて、癖で一瞬表紙を見る。反射で文字は読めなかった。
目を逸らしたのをいいことに、彼の指先が顎をなぞって上を向かせられる。よく見える表情は怒られたという言葉とは見合わない、嬉しそうなそれであった。返事が見つからない。
▽
「ねえ、先輩。もっと色んなところ見せてください」
こちらに顔を向かせているので、彼女がかあっと赤く染まるのがよく見える。優しいだけじゃなくていい。そっちの方が、発見があって面白い。今日、初めて分かったことのひとつだった。彼女には、正しく意味が伝わっているだろうか。
対照実験として客観的に推測するよりも、自分自身で体験できる方がよっぽど有意義である。意外にも、先輩は俺の引き出しを探り当てるのが上手なようであった。
触れる温度は熱く、きっと「きゅん」としているのであろう苗字先輩は、俺の片手に握られるスマホがまた光っていることなど知る由もなく、俺だけを見つめている。
今ならば、彼女が今どんな感覚に包まれているのかなんとなく分かるような気がした。なかなかに気持ちがいいですよね、その心地。共感を囁こうかと思ったけれど、きっと彼女はなんのことか分からずに目を白黒させるのであろうから、心の中に留める。
無理に悪事に手を染めなくとも、わがままを言えば目的は達成できたのかもしれない。けれども、今回に関しては目的以上の収穫があった。
なんとなくまた叱られたくなって、誕生日をパスワードにするのやめた方がいいですよ、と耳元で一言述べてみたけれど、呆れ顔でうるさいな、と一蹴されただけで結局あの冷たい空気は戻ってくることはなかった。やっぱり、先輩は俺に甘いのである。