繋いだ手を離さないで

久々に会った幼馴染は、随分と背が高くなっていた。前にうちの玄関に入った時には靴箱の段のもうひとつ下までしか身長がなかったはずである。時の流れとは恐ろしいものだ。お邪魔します、と発される声も、以前よりも安定した音程になっている。

考えてみればこれまでご近所さんとして付き合っていて、こんなに会わない期間が空いたのは初めてのことだった。幼馴染といっても家が近いというだけでわたしと歳が四つも離れた彼は、最近まで高校受験で忙しかったのである。
半年、いいや、恐らく対面で会うのは一年振りくらいのはずだ。成長期の男の子に一年も会わなければ、そりゃあ背も大きくなるだろう。

「久しぶりだね、元気にしてた?」
「はい、なまえさんもお元気そうで。わざわざ戻ってきてもらってありがとうございます」
「そんな、全然!近いし、最近帰ってなかったからちょうど良かったよ」

彼と会う機会がめっきり減った理由はなにも受験だけではなく、わたしが大学に通い出して一人暮らしを始めたというところも大きかった。
今日こうして顔を合わせているのは「少し落ち着いたからどこかで会えないか」とあちらから連絡があり、実家の方に戻ってきたからである。商人くんはなかなかにしっかりとしたまめな子で、定期的な連絡を全く怠らない。

時々メッセージが来たり、彼の方からの申し出で通話はしていたから近況はそれなりに把握しているものの、顔が見えるのとそうでないのとでは印象は随分と変わるものである。
前よりも隈が一層濃くなっている点は気になるが、彼のことだからまたなにか面白そうなものを見つけて夢中になっているのであろう。今はなににハマっているのか、話を聞くのが楽しみである。

「どうぞ、入って」

家にはわたしたちの他に誰もいなかった。広くリビングが使えるので、そちらに通して適当に座って、と声をかける。慣れた様子で進んでいくのを後ろから見て、髪もだいぶ伸びたな、とのんびり思った。この間の通話で野球部に入ると言っていたけれど、せっかく伸ばしているそれは切らなくていいのだろうか。

「なに飲む?大したものないけど…お茶かコーヒーか、あとカルピス?」
「…コーヒーで」
「えっ、飲めるの」
「飲めますけど」

振り返ってじとりとこちらを見る彼は、子供扱いしないでくれとでも言いたげな苦い表情である。前会ったときはコーヒーなんて選んでいただろうか。もしカルピスを選んでいたら濃いめに作ってあげたというのに。残念である。




「お砂糖、どれくらい入れる?」
「いりません」
「ミルクは?」
「大丈夫です」

真っ黒い液体がマグカップの中で揺れている。二つあるカップの内、わたしの方にミルクを少しだけ注げばみるみるうちにベージュに近づいていく。
お砂糖はわたしの場合入れるときと入れないときがあるのだけれど、商人くんがブラックで飲むと言うのでなんとなく入れないでおいた。年上のちょっとしたプライドである。

はい、と手渡しで差し出せば、商人くんはお礼と共にそれを受け取った。ソファに座っている彼の隣に腰を下ろすと軽くぎしりと軋んだ音がする。暫く見ないうちに、ソファが少し古くなったような気がした。

「熱いから気をつけてね」

マグカップに口をつける様を、横からじっと見つめる。もともと綺麗な顔はしていたけれど、大人っぽくなって一層男前に見えた。口が離れてちろりと舌が見えたと思えば、一瞬口角が強張って、眉間がひくりと動く。
注意深く見ていなければ気がつかなかったかもしれないくらいの変化だが、目に入ってしまったものは見逃せなかった。さては思ったよりも苦かったな?
うちで買うコーヒー豆は深煎りである。かわいそうだから、指摘はしないけれど。

「大学はどうですか?入ってから一年経ちましたけど」

表情の変化を誤魔化すようにして、しらじらしく質問をされた。あちらはわたしが気付いたことを知っているのか知らないのか、なかなか目が合わない。気がつかないふりをして普通に答えてあげれば、少しは安心するだろうか。

「だいぶ慣れてきたよ。意外と暇じゃなくてびっくりしてる。もっと遊べると思ったんだけどなあ」
「へえ、勉強なんて忘れ去って遊び回ってると思ってました」

なんとも心外な一言と共に、にやりと意地悪そうな笑みを浮かべられる。わたしをなんだと思っているのだろう。秀才と名高い彼にはとても及ばないけれども、わたしだってそこそこの成績は収めてきた方である。

「失礼な。意外と真面目なんだよ」
「知ってます。でも一人暮らし始めるって言うから」
「それでなんで遊んでるってことになるの?」
「全然家からでも通えるのに一人暮らしするってことは、大学生らしく遊び呆けたかったのかなって」

違いますか?と彼は首を傾げる。表情は変わらず笑ってはいるものの、選ぶ言葉にはどことなく棘があるように感じられた。
今更なぜ、と考えたところで、家を出た当時は入学準備に忙しくて彼に構う暇がなかったことを思い出す。彼への挨拶もそこそこに、荷物をまとめてすぐに出たのだった。それを根に持っているのだろうか。

「…まあ、それは言い過ぎだけどちょっとは思ってたよ」
「思ってたけど、真面目さを捨てきれずに結局勉強漬け、と」
「別にいいでしょ!大学は勉強するところだもの」
「悪いとは言ってませんよ。むしろありがたいです」

ありがたい。引っかかってきょとんとあちらを見つめても、含みを持たせて微笑むだけで回答は得られなかった。変な子である。昔からそうであったのだけど。

若干の無言の時間が続くと、彼がこほんとひとつ咳払いをした。ちらりと目を落としたマグカップの中身は、全然減っていない。黒黒とした表面に、商人くんの薄ら笑いが映っている。言葉を待ちつつ、彼のものより少なくなったコーヒーを啜った。

「聞きたかったんすけど」
「んー?」
「彼氏はできたんですか?」
「んぐ、げほっ」
「うわ、そんな動揺しなくても」

思ってもみなかった問いかけに、思い切り液体が気管に入って咽せた。前屈みで悶えるわたしに、彼が片手を背中に添える。彼が言うように、たしかにこれくらいの話題で平静を崩すのもおかしな話かもしれない。
だって商人くん、これまで一度も恋バナなんて振ってこなかったから。そうそのまま本人に伝えると、彼は合点がいったようにああ、と溢す。

「前は把握してたので」
「えっ」
「流石になかなか会えないとなると直接聞かなきゃ分からないですよ」
「会ってたら分かるってこと…?」

なんで分かるんだ。じゃあ今までまともに彼氏ができたことがないことも知られているのだろうか。絶句していると、「それで、どうなんですか?」と答えの催促がなされる。

「い、いないけど……」
「まだできないんですね」
「う、うるさいな、うちの学部女子多いんだもん」
「だから勧めたんですよ」
「……え?」

聞き捨てならない事実がどんどん出てきて、疑問符のついた返事しか返せていない。どうして商人くんはそんなにいつも通り平然としているのか。不思議でたまらない。

わたしは彼の言う通り、今の学部ともうひとつ悩んでいたところがあって、一応参考にと商人くんにどちらが良さそうか聞いたことがある。決して彼の意見で進路を決めたわけではないけれど、確か彼が選んだのはたまたま現在の学部であった。当時なんて理由をつけて勧められたか思い出そうとしたけれど、全く覚えていない。

なんだか空気が先程とは違う気がしてそわそわしてきた。嫌な感覚を誤魔化すようにしてソファに座り直す。それはどういう意味で、と問いかける前に、彼が口を開いた。

「彼氏、欲しいとは思ってる?」
「…お、思ってる、けど、」
「じゃあ、俺にしません?」
「、は」




「なん、なんで」
「なんでもなにも、彼氏欲しいんでしょ?俺、なかなか優良物件だと思いますよ。知っての通りスペックは高いので」
「いや、そういうことじゃなくて」

じゃあどういうこと?と聞かれて、うまく言葉が出てこない。必死に考えつつ黙っていると、その暇も与えられないように矢継ぎ早に次が飛んでくる。いつもは、わたしのレスポンスが遅くても待ってくれているのに。

「俺のことをそういうふうに見たこと、ないですか?」
「そういう、ふうに」
「そんなことないですよね?誘えば二つ返事で応じてくれるのも、昔から同年代の友達より俺を優先してくれるのも、ただ俺が幼馴染だからってだけじゃないはずですよ」
「……」
「彼氏いないって言っても、なにも機会がまるでなかったわけじゃないでしょ?告白されても付き合う気にならなかっただけですよね」

それって、俺のせいですか?伏目がちに微笑む商人くんは、全て見透かすようにして淡々と語る。ごくりと己の喉が鳴る音が、やけに大きく脳に響いた。

今まで当たり前だと思って気にしたことこそなかったけれど、言われてみればわたしは彼になら基本なんでもしてあげていたような気がする。かわいい弟分、と言えばそれまでの話だと思う一方、彼が言うように誰かに言い寄られても商人くんの顔が浮かんでしまうのは事実であった。
これって、そういうことだったのだろうか。頭のいい彼にうまく言いくるめられてしまっているような、そうでもないような。上がっていく体温と共に汗が背中を伝うのを感じて、こちらを見つめる彼から目を逸らす。なんとなく、このまま流されるのは良くない気がした。

「わ、わかんない、けど!そもそも商人くん、まだ十五歳じゃん。未成年とは付き合えないよ。これでも一応わたし、大人だし」
「そっちだってつい最近まで未成年だったでしょ。なにが問題なんですか?」
「いやあ、ほら、周りの目とかさ」

社会的な立場を考えて欲しい、というところで反論してみる。私は彼と四つ違いであるから今は十九歳だけれど、あと少しで二十歳である。それでなくてももう成人であるのだから、未成年と付き合うのは頂けないだろう。ふとそう考えつくと、早鐘を打っていた心臓は幾分が落ち着いてきた。今回は、確実にこちらが正論のはず。

それに仮に付き合ったとして、大学で「高校生と付き合ってます」だなんて口が裂けても言えない。四年差であるためにぎりぎり彼が入学する頃にわたしが卒業してしまうのも、ますます言い訳できない。そう必死に伝えれば、商人くんはふむ、となにやら考え込み始めた。思考に浸っている時にななめ上を見るのは、彼の昔からのくせである。

「でも義務教育は終えましたよ。もう社会に出ようと思えば出られるし、そういう意味ではある程度対等でしょう?」
「…その理論で納得してくれる人、多分あんまりいないって。年下を誑かしてるとは思われたくないの」
「……」
「そ、そもそも、わたしのこと好きなの?今まで全然そんな素振りなかったじゃん」

そう、彼は「わたしのことが好き」だなんて友愛の意味ですら口にしたことがない。割とこちらが一方的に可愛がって、あちらが享受しているのが常である。商人くんが誰かを恋愛的な意味で好きになる様なんて、全然想像できなかった。人間関係には、すごくドライな子なので。

からかうのやめてよ、と全部冗談にしたくて口に出した。笑いまじりに言った言葉は肯定されるかと思っていたのだけれど、なかなか返事は返ってこない。わたしのマグカップの中身はいつのまにか無くなっていた。

「……連絡絶やさないようにしてるだけでも十分『そんな素振り』でしょ。そういうところ見逃してるから彼氏できないんですよ」
「は」
「恋愛感情に関してはまだよく分からないですけど、貴方が離れていくのは不快なんです。恋人になれば少なくとも、なまえさんの中の俺の優先順位は保たれたままになるだろうと思って」

恥ずかしげもなく、ただ解説文を読み上げるように商人くんは話す。彼の頬はわたしとは違って一切の赤みなく冷めているけれども、感じる視線だけはじっとりと湿り気を帯びた温度を持っていた。
そんな重たい目で、かわいいことを言わないで欲しい。もうわたしは彼を以前と同じ目で見られないようだった。落ち着いたと思っていた動悸はまた冷静さを失おうとしている。

「なまえさんがまだ目の届く範囲にいたうちは、関係に名前なんて必要ないと思ってたんですけどね。距離が離れた今では、やっぱり具体的に明示した方が好都合だと考え直しました」
「…つまり、その、好きってこと?」
「そう解釈してもらっても構いませんよ」

なまえさんは幼馴染のこんなに純真な気持ちを無視するんですか?彼が腰を浮かせて、拳ひとつ分座る間隔が狭まった。ソファに放り出していた右手に、商人くんのそれが重なる。
少し前まではふっくらとしていたその手は、すっぽりとわたしの手を覆い隠してしまった。何度も触れたことがあるはずなのに、少しの変化でこんなに違う感じ方になるだなんて。

「まあでも、貴方が拒否することは大体予想はついてました」

どきどきとし始めたところですぐに、ぱっと手の重みが退けられる。降参です、とでもいうように両手をあげて肩をすくめる様は、側から見たら話が終わる前兆に見えるのだろうけれど、きっと彼は終わらせる気など全くない。むしろなにか隠し持っているような、まだネタ切れではないという余裕さえ感じられた。
重しはないのに動かせない手のひらは、まるで金縛りにあっているようである。想像通り、商人くんは続けて口を開いた。

「そこで考えたんですけど。俺との恋人試し期間を設けてください。その上で不都合が多ければ元通り、全て無かったことにしましょう」
「…それもやだって言ったら?」
「受け入れてくれないなら大学に『高校生を誑かしてる』って噂を流しますよ」
「え、はあっ!?」
「っふ、どうします?そう思われるの、嫌なんですよね?」

楽しそうに目を細める商人くん。彼がかわいいだなんて先程は思ってしまったけれど、とんでもない。まるで悪魔である。というか、なんでわたしの大学に噂を流せるほどの伝手があるんだ。

「ちゃんと俺に向き合ってくれるなら、誰にも公言しませんよ。その後付き合うことになったとしても秘密にします。恋人がいることだけ話して、年齢を隠しておけば何も問題ありませんよね」
「そ、うだけどお………」
「じゃあ決まりですね」

勝手に決めないで欲しい。期間は三週間くらいでいいですか?なんてトントン拍子で決めていってしまう彼に、もうこれはわたしでは止めることは不可能だと悟った。やる気になっている商人くんのやることなす事を、わたしは今まで一度も遮れたことがない。

「……わかった」
「!」
「でもこっちからも条件出させて。商人くんが高校生のうちは、身体的な接触はなし。お試し期間終わってもし続いてても、だめだからね」

わたしとて犯罪者にはなりたくない。幼馴染のお願いごとを叶えるにも、ここだけは譲れないラインである。わたしの固い意志を汲み取ったのか、存外彼は特に文句も言わず、すんなり首を縦に振った。

「分かりました、それでいいです。今は」
「…ずっとだよ?」
「はいはい」

聞いているのかいないのか。のらりくらりとしている彼に咎めるように睨みつければ、怖くないですよ、と生意気な一言が返ってくる。

商人くんは、やけに機嫌が良さそうに口角を上げていた。こんなにうきうきとした彼の表情はなかなか見れたものではなく、なんだか気恥ずかしい気分になる。はあ、とひとつ頑固な彼にため息をついた。好きだって自覚させられてしまったら、もうそのことしか考えられないじゃないか。

「末長く、よろしくお願いしますね…?」

彼に昔から勝てないのは、策士かつ図々しい男であるからである。その言葉の意味を受け取るに、お試しだと言いながらもその後逃すつもりなどさらさらないのだろう。そして、きっと多分彼の思った通りに事は進んでしまう。

うまく顔を合わせられなくて、顔を逸らして小さく返事をする。視界に入ったあちらのマグカップも、いつのまにか殆ど中身がなくなっていて、先程まで映されていた彼の顔は見ることができなかった。

「いつまでこっちにいるんですか?」
「今春休みだし、帰るのいつでも良いんだよね。まだ決めてない」
「じゃあ、明日も来ていいですか?」

いつのまにか大人に近付いていたらしい商人くんは、おねだりと共にその背丈を分からせるようにぐうっとこちらに寄りかかってくる。想像以上の重さにぐえ、と酷い声が出た。果たしてこれは身体的接触には入らないのだろうか。
すぐ上から聞こえる含み笑いに、わたしはあと何回「しかたないなあ」と言うのだろう。それこそ末長く、なのだろうとふと思って、お試しなんて意味がないことに今更気がついた。

top / buck