するり、と流れるように距離を縮めた商人くんに、触れそうになる皮膚を咄嗟に覆い隠した。手の甲に当たるすんでだった彼の唇はぎりぎりのところで止まって、きゅっと驚いたように真一文字に結ばれる。みるみるうちに開かれた目は細まって、全面的に不満が顔に表現されていた。
そんな顔をしたいのはこちらの方である。息遣いすら分かりそうなくらい近い距離に鳴り止まない動悸を、必死に見ないふりをして掌越しに咎める一言を放った。ちょっと、とくぐもった声は、きちんと叱るときの声のトーンになっているだろうか。
「なんですか?」
怪訝そうに眉が顰まる。一向に向こうから退く気はなさそうであったのでこちらから身を引こうと足に力を入れると、逃すまいと言うように腰に手が回った。
いつのまにかだいぶしっかりした腕になっている彼に捕まってしまうと、どうにも抜け出せそうにない。たった二ヶ月といえど、これが運動部男子の実力かと戦慄する。しかたがないので、なんとか顔を逸らして抵抗の意を示した。
「そういうの、だめって言ったじゃん」
「は?キスもだめ?」
だめに決まっているだろう。心外だとばかりにこちらを見下げる商人くんは、めずらしくショックを受けた様子で敬語が外れてしまっている。今でもたまにタメ口のときがあるけれど、思えば昔は敬語など使っていなかったのである。
彼は一体いつから言葉の距離を保つようになったんだったか。記憶には少し寂しく思ったことだけが色濃く残っているのみで、時期についてはもう忘れてしまった。
「…なんで?禁止にするのはセックスだけでいいでしょ」
「せっ………だ、だめ。キスもだめ」
「高校生ならキスくらい普通ですよ。俺の高校時代の恋愛を小学生のする真似事みたいなので終わらせるつもりですか?」
成人済みと未成年が行うから問題なのである。頭のいい彼ならばわたしの言わんとすることはよく理解できているであろうに、商人くんは分からないふりをしてそれらしく理論を並べ立てる。
そんなふうに不満を述べたとて、その道を選んだのはそちらだろう。わたしの方は十分に譲歩したのだから納得して欲しかった。駄々をこねる商人くんは、こちらをつまらなそうに眺めている。
「そういうことしたいなら同年代の子と付き合えば良いじゃん」
「…なまえさんはそれでいいんですか?」
「………」
少しの意地悪を込めて放った一言は見事に返り討ちにされてしまった。すっかり忘れていたけれど、尖った言葉の応酬は彼の方がわたしの何倍も得意なのである。
既に彼のことが好きでたまらなくなってしまっているわたしは、彼が同い年の子を選ぶ想像をしただけでもやもやと嫌な煙が胸にかかってしまっていた。
少し前までこんな独占欲などなかったはずなのに、まんまと彼の作戦に引っかかってしまって単純なものである。いいや、本当に商人くんが同年代の子を好きになったその時には、きっちり身を引こうとは思っているのだけれど。
鋭くこちらを見つめる彼は、なにも言わないわたしに多少気をよくしたのかふっと静かに笑う。
「俺だって、どうでもいい人にキスなんかしたくないですよ」
「……そう」
「拗ねました?この話始めたのはそっちですけど?」
「分かってるよ、ごめんって。意地悪言った」
「ごめんって思ってるなら、キスしてください」
「だーめ」
「チッ」
流されまいと耐えれば、舌打ちとは。こんなことをする子に育てた覚えはないのだけれど、思えば全ての要素においてこんな子に育てた覚えはないのだった。小さい時は変なだけで、もう少しいい子だったんだけどな。親みたいな目線で考えを巡らせていれば、見透かすような目で商人くんはこちらを見る。無意識に背筋が伸びた。
「別に、誰にも見つからなければいいのでは?」
悪魔的な提案。わたしの脳裏には、黒い角と翼を生やしてこちらを唆す商人がちらちらとそこらへんを飛んでいるのが見える。似合いそうだな、なんて現実逃避するように考えた。
こんなにずんずんと迫られるのは居心地が悪くて、彼から目を逸らす。どことなく、その距離の詰め方に違和感があった。
「そんなこと言ったら全部そうじゃん」
「一番証拠が残らないのはキスでしょう?」
「…そんなにしたいの?」
思わず、聞いてしまう。商人くんがそんなに、性的接触に興味があるイメージは無い。多分これはわたしが彼の印象を昔のままアップデートできていないわけではなく、今の彼しか知らない人であっても感じるのではないだろうか。
唐突な問いかけに彼はきゅっと口を閉じて、白目の割合の多い目をやんわり開く。そんなことを聞かれるとは夢にも思ってなかった、と言わんばかりの表情である。
考え込むようにして手を顎に当てるので、わたしがうまく言葉を返せない時に彼がするように、頬杖をついてのんびりと返事を待った。なんだかネットワークが繋がらないときのぐるぐるした表示を見ている気分である。
「したいみたいです」
「…そっかー」
「ちなみにセックスもしたいみたいです。俺もきちんと男子高校生ってことですかね?」
「わたしに聞かれても…」
せっかく待った末に出てきたのはさらりとした一言であった。その自己開示は聞きたくなかったな、と冷静に思う。地味に顔が熱くなってしまうわたしとは対照的に、当の本人はしらっとしているものであった。
本当にしたいと思っているのか?正直疑問だけれど、聞けばどんどんあけすけに掘り下げていきそうなので大人しく口を閉じる。
「外ではしないですよ。それでもだめですか?」
ずい、と顔が近付けられた。しつこいのはいつものことだけれど、「いいでしょ?」の一点張りで、それ以外のアプローチが全くないのはどことなく彼らしくない気がして、先程感じた違和感を思い出す。
事前に怒られると分かっていたのなら、もっと決定的な一手を考えて用意しているのではないだろうか。それならば、今回は本当にキスは大丈夫だと信じてやまなかったようである。
普段は見られない、彼の余裕のない姿。そこまで求められているというのも悪い気はしなくて、年上の守るべき常識も揺らいでしまう。たしかにキスだけでなにか既成事実が発生することはないし、なんて、結局商人くんの口八丁に言いくるめられているような。
「……しかたないなあ」
「っふ、ちょろ、」
「ちょっと、ん」
聞き捨てならない言葉が聞こえたのに、抗議する口は早急に塞がれてしまった。やわやわと合わせられて体温が上がると同時に、とん、と熱いものが唇をノックする。
咄嗟に応えずに彼の肩を押し返すと、案外素直に顔は離れていった。じっとりと、得意げな商人くんを睨みつける。
「…触れるだけのちゅーまでだよ」
「でしょうね。分かってますよ。我慢できなくなっちゃいますもんね?」
「……」
「そんなに睨まないでくださいよ。なまえさんの意見を尊重したいと思ってるから、やめてあげたんでしょ」
今はこれだけでいいですよ、と。彼の親指がわたしの下唇に当てられて、少し形を変えた。
今はというか、あと数年はここから進む気はないのだけれど、彼は少しもそうは思ってなさそうである。
成功体験を与えてしまったことに気がついて、ここで許したのは悪手だったかと後悔の念がじわじわと襲ったけれど、機嫌が良さそうににやりと微笑む姿を見てしまうと、まあいいかと思えてしまって。きっとわたしの弱いところはそこなのである。