運命は魔法薬にて

『もし、素敵な貴方。起きてくださいまし』

壊れかけの古いラジオから聞こえる彼のモーニングコールは、いつもゆったりと始まる。ガガガ、なんて不穏な稼働音のわりに、紡ぎ出される音はなめらかなものである。

カーテンの隙間から注ぐ光が眩しくて顔を歪めてしまうと、穏やかな笑い声と「そんな顔しないで」なんて優しい声がした。開けづらい目を頑張って開くけれども、声の主はどこにも見当たらない。代わりに、目の前にちらりと赤い線が揺れる。

「おはよう、スカリーくん」
『おはようございます、なまえさん。今日も学校で?』
「今日はお休みだよ」
『おや、そうでしたか。ならばまだ寝られますか?』
「ううん、起きる。課題あるから」

毎朝きちんと時刻通りに起こしてくれる彼、スカリーくんは、この寮に住んでいるらしいゴーストである。らしい、というのは、わたしが実際に彼の姿を見たことがないからだ。
彼の存在が分かるものといえば、その機械越しに伝えられる言葉と、わたしの小指に絡んだ赤い糸が、どこか空虚に消えていく様のみである。





「運命の赤い糸が見える、魔法薬」
「ああ全く、なにをどう間違えたらこんな魔法薬になるんだ? Bad Boy!」

俺が指定したのは「物を透明にする魔法薬」で、本来見えない物を見えるようにしろなんて一言も言っていないだろう! そう怒鳴りつけるクルーウェル先生は、いつにも増して声量に迫力があった。

同じクラスのお叱りを受けている彼らはすっかり萎縮してしまって、縮こまって尻尾を内側に丸めてしまっている。話したことないけどなんかかわいそうだな、とのんびり思った。
いいや、本当ならばのんびりしている場合ではないのだけれど。びっしょりと濡れた制服の袖を見て思い出す。

「はあ……よりにもよって失敗した魔法薬を被るだなんて気の毒だったな。体調に変化はないか?」
「特に、大丈夫です。さっき言った通り、『これ』が見える以外には」
「……やっぱり見えるのか。まあ、命に関わらない効果であっただけマシだろう。運が良かったと言うべきか…」

魔法薬学の実験。魔法も使えなければユウちゃんのようにグリムと一緒にいるわけでもないわたしは、実技授業のときはいつも道具の準備などの雑用をクルーウェル先生の指示で行っている。
実験の代わりに見学をした上でのレポートの提出と、他の生徒よりも少し量の多いテストが義務付けられているので、今日もやっていたことを忘れないために班の机を行ったり来たりして様子を眺めたり、指示されるままに足りない道具を持ってきたりしていた。どこの班もなかなか順調で、特に問題なく一時間が終えられそうなものであったのだけれど、事は授業の終盤で起こるものである。

出来事を端的に言えば、わたしの立っていたすぐそばの班ができあがった魔法薬を派手に溢して、それが自身の身体に盛大にかかった。

異世界から迷い込むなどというトンデモ体験に巻き込まれたのは決して伊達じゃなく、この身体は不運も降りかかれば魔法薬も降りかかる。オーバーブロット、なる大事件に巻き込まれ続けているユウちゃんに比べれば、全然大したことはない不運だけれど。

「正確には、『かかった身体の部位によって本来見えないものが見えるようになる』魔法薬だ。お前は主に手にかかったから、所謂運命の赤い糸というやつが見えているんだろう」
「はあ」
「本来ならば呪いの可視化などに使われたりするものだが……他になにも見えるようにすべき要素が無かったんだな。誰にも呪われていなくて良かったじゃないか」

まだ一年もここにいないのに、既に誰かに呪われていたなら相当問題である。咄嗟にそう思ったけれど、さっきまで激怒していた先生に言い返すのもどうかと思って開きかけた口を閉じた。
手持ち無沙汰にびしょびしょの袖を見れば、先生がああ、と思い出したようにマジカルペンを一振りする。

「あ、」
「これでいいだろう。他に濡れているところはないか?」
「ありがとうございます、大丈夫です。これしか制服ないから助かりました」
「……今度学園長に着替えくらいは用意させよう」

すっかり先生の魔法で乾いた制服には、魔法薬の染みひとつない。なんとも便利なものだな、と思ってしげしげと眺めていると、先生の大きな手がわたしの頭を荒らす。わしゃわしゃ、と撫でる様はまるで飼い犬にするような。

「身体に少しでも異変が起きたらすぐに言え。今日はもう戻っていい」
「わかりました。ご迷惑おかけしました」
「迷惑なのはあの駄犬で、お前じゃない。気にするな」




と、このような経緯で、わたしはわたしの赤い糸が見えるようになった。あの後聞いた話によると、この魔法薬の効果はなかなかに長いようで、大体三ヶ月程度は持つものらしい。
本来であれば解毒できるはずなのだけれど、失敗作故にそこらへんの組み合わせが上手くいっておらず、治すために飲まされた薬は効いてくれなかった。効果が切れるのを待つしかないようだ。

あの出来事から数日経ち、この赤い糸にも見慣れてきて、ひとつ湧いてきた疑問がある。このどこまでも続いていきそうな赤い糸は、いったいどこに繋がっているのか、ということだ。
赤い糸が見えるとのわたしの証言を先生が聞いて思い当たった逸話が「運命の赤い糸」であったというだけで、本当にこの糸が運命の人を指し示しているのかは正直定かではない。けれどもやはり、伸びていく糸があれば追いたくなるのが人の性格というものであろう。
どこか遠くに続いていく糸はなかなか終わりが見えず、細く長くずうっと先へと繋がっている。

「気になるなら、辿ってみたらいいんじゃない?」

とは、うちの寮の監督生ユウちゃんのお言葉だ。運命だなんて素敵、誰なんだろうね? なんて、にこにことわたしの小指を触るその人は、当の本人よりもよっぽど楽しそうだった。さすがはトラブルに居合わせがち代表である。

ユウちゃんは、小指を触っても糸の感覚は全く無いと言っていた。不思議なことに、それは実体が見えているわたしにとっても同じである。繋がれた赤い糸見えはするけれど、自分に結ばっている輪っかもそこから垂れる長い線も、手を伸ばしたとて触れることはできない。すか、と空中を切るばかりである。

だからこそ、「繋がる先を確認するために糸の方を手繰り寄せる」という行為はできそうになかった。どこまで続いているのかもわからないこれを追って歩くのは些か骨が折れるように感じたが、こうなってはしかたない。

「……歩くかあ」

つう、と滑らかに弧を描いている糸は、放課後だけではなかなか辿り終わりそうになかった。今日は休日、とくに用事もなく、課題も平日の間に先生に縋り付いてなんとか終わったのでフリーである。今日こそ、これの一番先を見つけるにふさわしい日だ。
まずは自分の部屋から、と、赤い線を目で追いながら一歩踏み出す。





「……全然、オンボロ寮から出れない…」

あれから早三十分。辿りに辿ったその先はまだ見えていないけれど、糸はただぐるぐると室内を巡るのみで一向にドアの外に行こうとはしていないようだった。
これはどういうことなのだろう。正しく糸を辿る、ということさえできているか怪しい。

オンボロ寮には物が多い。わたしたちの使う生活スペース以外は全然片付けられていないから、なにに使うか分からない大きい道具や小物、埃をかぶった家具などがそこかしこに散乱している。
そんな中を糸の進むままにうろうろしていたから、想定以上に体力を消耗してしまった。疲れて、へたりと座り込む。隅に溜まった白い埃が少しだけ舞った。掃除をしなくては。

「もう、諦めようかな…」

どうせ運命かも分からないのだ。気になるといっても、辿り着けなくては仕方がないし、ここで捜索を諦めてしまおうかと自分の小指を眺める。ユウちゃんもグリムもこの寮にいない今、この赤い糸が外に出ないということは少なくとも誰かに繋がっているわけでもなさそうだ。

そもそも、元はこの世界の住人でないわたしの運命の人がこちらにいるならば、わたしは永遠に運命の人とは一緒になれない。

「…ん?」

なんて考えていたら、視界の端でちらりと赤色が動くのが見えた。なんだろうとそちらに意識を向けると、今までゆるりとたわんでいただけだった糸が、ぴん、と直線を描いている。
時折くいくいと誰かに引っ張られるように緩んだり張ったりする動きを繰り返すさまは、まるでこっちだとわたしを誘導するようであった。ただ、糸が動くのは見えても小指に引っ張られる感覚は全くない。

「…よし」

足に力を入れて、地べたに根を張っていた自分の身体を持ち上げた。また埃が舞って、ひとつくしゃみが出る。
格好がつかないなあ、と思いながら引っ張られる方向に進むと、途中で糸が右の方に引かれた。ふむ、道案内はばっちりのようである。

暫く糸の向きに導かれるままに移動していく。先程よりも片付いた道が多くて、随分と歩きやすかった。いつも歩いている廊下や部屋を抜けて、ずうっと指示のままに進んでいくと、わたしが自室として使っている部屋のドアの前につく。糸は閉めたドアの下の隙間から、部屋の中の方へと続いていた。

「戻ってきちゃったよ…?」

自分の小指にそう聞いてみるけど、もちろん返事なんて返ってくるはずもなく。無駄足だったか?と思いながらも、仕方なくドアを開けてみる。

部屋を見渡して赤い線が続く先を探すと、ぐるぐると塊で赤が見える箇所があった。さっきまでは一本線のみで、どこかに巻き付いていることなんてなかったのに。

なにに巻き付いているのだろう。まさか物が運命だなんてことはないよな、と不安になりながらそこに近づく。よく見るとそれは古びたラジオで、私がここに来たときから置いてあった物だった。どかすにも他に置く場所がなく、生活に支障もないから放置していたのである。
そんなラジオにわたしの赤い糸はしつこいくらい巻き付いていた。ぐるぐる巻きにされた一番端っこは途切れることなく何処かへと繋がっているから、これが運命の人というわけではないないようである。

ラジオはよくよく見るとなかなかつくりが凝られていて、年代物らしい静かで優雅な雰囲気を纏っている様に感じた。いつかはここで生活に音の彩を与えていたのだろうか。というか、どれくらい前に使われていたものなのだろう。

「……このラジオって、まだつくのかなあ」

ふと、気になって糸はそのままにラジオを手に取る。案の定埃が積もっていたので軽く払って、電源ボタンを探した。糸に隠されてよく見えないけれど、スライド式のそれらしいスイッチが目視できる。
触るには糸の感触はなくすり抜けるので、指を当てると案外すんなりと電源が入った。オレンジ色のランプが、ぼんやりと灯る。

「…ついたけど、流れはしないか…」

軽く本体を揺らしたり、スピーカーの穴の隙間を覗いたりしてみるけれど、やはり音は流れそうに無かった。ランプはついているから、電波を受信できないだけなのだろうか。大して触ったことがないので、あんまり仕組みがよくわからない。

「…あれ、」

突然、ふるりと手の中のそれが震えた気がした。じんわりと機械特有の熱が指先から少しだけ伝わる。目線まで持ち上げて眺めてみる。変わりはないように見えるけど、と思った途端、それは起こった。

『あ、ああ、ンン、聞こえますか?』
「えっ、あっうわっ」
『おっと、驚かせてしまいましたか? 申し訳ありません、我輩恐怖が専門でして』

急に流れた音声に、びっくりして手に持っていたそれを落としてしまった。壊れてないだろうか、と心配になったけれど、スピーカー部分が伏せられても尚音はくぐもって再生されている。

まるでラジオ自身が喋っているみたいに流れているこれは、わたしの行動を見ているのかと思うほどその場に沿った台詞を流した。これは電波で受信されているものなのか、元々入ってきた録音か何かか、それともまた別のなにかなのか。
なにこれ、と思わず口に出すと、応えるかのように笑い声が聞こえる。がびがびの音声で聞こえづらいそれが耳に痛い。

『あ、あ、うーん、なかなか上手く乗せるのは難しいですねえ。我輩このようなからくりに乗り移るのはどうにも苦手でして』
「乗り、移る?」
『貴方に話しかけるために色々物色していたところ、これが音声を出すためのものだというところまでは分かったのですが。肝心の作動させる方法が一向に分からなくって』

なので、貴方がしてくださってとても助かりました。ふふ、と笑うそれは、明らかにこちらに話しかけてきていた。ラジオの電源を入れたことを感謝されている。

そう理解した瞬間にぞっと身体の芯が冷えていって、情けない小さな怯えが喉から出た。オンボロ寮にいるゴーストたちには慣れたけれど、こんな手段で話しかけてくる者はこれまで一人たりともいない。

かた、と、ひとりでにラジオが音を立てた。伏せて落ちていたそれが、勝手に浮かび上がってことりと正しい向きで置かれる。己の喉は悲鳴さえ出てくれない。

わざわざこちらにスピーカーを向けるようにして置かれたそれがやたらとおどろおどろしくて、電源を消した方がいいのでは、と思い立ったけれど、近付くのも憚られて震える手は動かなかった。心なしか、部屋の温度も幾分か下がっている気がする。

『ああ、怖がらないで。我輩は貴方と会話できる日をずうっと心待ちにしていたのです』
「ひ、」
『我輩のことは……ご存知ではありませんよね。我輩の名はスカリー・J・グレイブス。この寮に住まうしがないゴーストでございます』





「ご、ゴースト」
『ええ、他の者たちは貴方方にも見えるようですが、我輩は少々事情が特殊でして。認識されないことの方が多いのです』

キイ、と音声が一瞬歪む。失礼、と一言あちらから発されたときには、元の少しノイズがかったそれに戻っていた。どうやら、彼の匙加減で音の安定度合いは変わるようである。

「ず、ずっとここにいたの?」
『ええ。我輩は地縛霊のようなもので、基本はこの寮からは出られないのです。生前はこの部屋を使っていたので、主にここに滞在しておりました』
「……」
『本当はもっと早くにご挨拶を、と思っていたのですが、先ほども申し上げた通りなかなか意思疎通を取ることが難しく……ご無礼をどうかお許しくださいませ。糸を引っ張ったのに気がついていただけて良かった!』

一つ質問をすると、十以上の回答が返ってきた。丁寧な物腰で悪い人ではなさそう、と、先程よりも幾分か冷静になった頭で思う。手の震えはまだ持続しているままで、声も震えているような気がするけれど。

糸、と話に出たので、咄嗟に自分の小指とその先を見やる。わたしは魔法薬のせいでこれが見えるけれど、ゴーストはいつでもこういったものを見ることができるのだろうか。明らかに彼はわたしの糸を認識しているようである。
ぱっとそこに目を向けるといつのまにかラジオに巻かれていた赤はなくなっていて、代わりに空中で途切れてなくなっていた。切れているわけでもなく、薄らと透明になるようにしてグラデーションを作っている。糸の先が、消えている。

『……どうかされましたか?』

動揺して黙ってしまうと、向こうから心配そうに声をかけられた。機械的な音声でも、その気遣いの声色は案外伝わるものである。緊張が少しほぐれて、された問いに答えるべく口を開いた。

「あの、えっと、糸の先が見えなくて」
『おや、見えていませんか? こちらから見ると、我輩の小指にきちんと繋がっているのですが……我輩の姿が見えない影響で、不具合が生じているのかもしれませんねえ』
「繋がってる、って」

まさか、ゴーストに? そう思わず聞き返すと、「ええ、驚かれましたか?」なんて含み笑いと共に返事が返ってくる。姿の見えない幽霊の小指に、わたしの糸の先があるというのか。
あんなにも長く辺りに伸びていた赤い糸は、今や彼と私の間を短く繋ぐだけである。先程までの長さは一体どこにいってしまったのだろう。

『ここに繋がる赤い糸が、我輩たちの命運を示しております。マア、我輩はもうとっくに死んでおりますが』
「……」
『我輩は己の存在、ひいてはこの糸を貴方に認識して頂けたことを、本当に喜ばしく思っているのです。運命の人に気付いて頂けないだなんて、こんな悲劇は他にないでしょう?』

能弁に話す彼の言葉は、あまりうまく頭で処理できなかった。死人がわたしの運命? そんなことがあっていいのだろうか。
目の前に揺れる糸に触れても、やはり自分の指先を通り抜けてしまう。その代わりに恐らくはあちらから、小指の蝶々結びの輪が揺らされた。きっと、すぐ目の前に彼はいる。

『ねえ、愛しい貴方。どうか我輩に、貴方の口から貴方のお名前を教えてくださいませんか?』






「なんか、随分音が綺麗になったよね。ラジオの音声とは思えないくらい」

スカリーくんはこの頃、やたらとなめらかな音声で話すようになった。彼と出会って早一ヶ月弱、ゴーストとの姿の見えない対話にも慣れて、最初の頃のように彼のことを怖いとはもう思わない。

今では「あんなに怖がられて我輩少しショックだったのですよ」なんて、掘り返されて文句を言われることもしばしば。礼儀正しいその言葉選びと芝居がかったその調子とは裏腹に、彼には少し子供っぽいところがある。彼の性格の実態は最近やっと分かってきたところだった。

『我輩はこの音声を伝える仕組みと己の声を連動させるようにして動かしておりますので、慣れてくれば肉声と変わらない音質で届けることができるのですよ』
「……ふうん? なるほどね」
『アッ、その言い方はよく分かっておりませんね? 特に分からなくて困るようなことでもありませんが』

幽霊の憑依の仕組みなど、魔法さえよく分かっていないわたしに分かるわけがなかった。彼もそれは理解しているようで、特に追加で説明を加えられることもない。

『……分からないときに誤魔化す声の上擦り方は、昔から変わらないのですね』
「…え? なにか言った? ごめん、ノイズが」
『いいえ!なんでもございません。それよりも、今日は課題があるのでしょう?』

我輩の知っているところであればお手伝い致しますよ、と。部屋の奥にある本棚の本がひとつ抜かれた。じゃあお願いしようかなあ、なんて言いつつもペンと教科書を出すのは面倒くさくて、ぱたりとまたベッドに横になる。まだ寝起きなのだ、頭なんて働かない。

ふと、ふわりと廊下の方からいい匂いが漂ってきた。きっとユウちゃんが起きてきて、朝ごはんの支度を始めたのだろう。思い出したようにお腹が空いてきて、わたしも一緒にキッチンに行ってご飯の準備をしようかと立ち上がる。ひとつのびをすると、一瞬目を離した隙にぐちゃぐちゃだった掛け布団がきれいに四角に畳まれていた。

「先に朝ご飯食べてきていい?」
『ええ、勿論。ごゆっくりどうぞ』
「ありがとう」

彼のことは、まだ誰にも話していない。彼はいつでもこの部屋にいて、寮の中ならばどこでも動き回れると言う割には部屋の外に出ようとしていなかった。部屋にいる時もわたしが一人でいる時にしか話しかけてこない。なぜなのか、ユウちゃんやグリムに会うのを避けているようである。

わたしの前に現れてくれるのは、わたしが運命の人だからなのだろうか。そもそもこの糸は運命を本当に示しているのか。まだ謎が残るところではあるけれど、この異世界の生活を賑わせてくれる親しい人が一人できたという事実だけあれば、わたしにとっては十分だった。

顔も分からず、触れることさえできない彼は、この赤い糸でのみ存在を知ることができる。いくらでも伸びていくこの糸は、どれだけ離れても彼とわたしを繋いでいた。

ぱたりと自室のドアを閉める。心なしかちらりと見える小指の糸が少しだけ引っ張られているように見えて、なんだかその姿が拗ねている時の彼の声に重なった。すぐ戻るよ、とドア越しに呟くと、次の瞬間にがたんと部屋の中で大きな音が聞こえる。下からユウちゃんが心配そうにこちらへ声を上げた。

top / buck