隠し事はアルコールに溶かして

「……お酒、飲んでるんですか?」
「ん? あれ、商人くんだあ」
「商人くんだ、って。そっちが呼んだんでしょう」

久々に来たなまえさんの自宅は、前よりも少し散らかっている印象を受けた。奥に座る恋人の手にはお酒の缶、甘くて度数が低いものである。にも関わらず彼女の頬は染まってにこにことしていた。酒に強いタイプではないのかもしれない、と漠然と思う。

期末テストも終わって時間に余裕ができたので、「近々会えますか?」とメッセージを送ったのが数時間前。すぐについた既読と、それにしてはなかなか返事が遅いと不審に思った時、返ってきた返事は「いえにいるよ」の一言であった。

普段しっかりとした文面でやりとりをする彼女に珍しく、変換なしの平仮名で要領の得ない言葉であったからまさかとは思ったけれど、本当に酔っているとは。
居場所を伝えたのは来いということかと推測して来てみて正解であったかもしれない。俺が来るのを知ってか知らずか、玄関の鍵はかかっていなかった。不用心にも程がある。

「鍵、ちゃんと閉めてくださいよ。大人でしょ」
「ふふ、ほんとに来てくれたんだ。嬉しい」
「……聞いてます?」

ふわふわと。いつもの彼女より何倍も素直で、阿呆そうである。ストレートに嬉しい、だなんて微笑まれることなどないので拍子抜けしてしまった。
なるほど、酒が入るとこの人はぼんやりとするのか。これはいい情報を得た。随分と長く彼女を見ているが、何気にお酒を飲んでいる彼女を見るのは初めてのことである。

「珍しいですね。お酒好きなんですか?」
「ん、別に。たまたまだよ」
「ふうん」
「レポートね、全部終わったんだ〜」

えらいでしょう、とこちらを見上げる。彼女は随分と機嫌が良さそうだった。適当に相槌を打って、床に座る彼女の側に荷物を置く。今日はテストで部活もない日だったので、通学鞄のみで身軽だった。

「手、洗ってきます」
「いってらっしゃい」





外が暑いからか、洗面所で出る水はあまり冷たくなかった。ここに置いてあるハンドソープは、彼女の実家にあるものと同じメーカーである。ポンプを押すと、しゅぷ、と空気の抜ける音と共に適正量より少なめの泡が出た。中身がもうないのだろう。気にせず手に纏わせる。
ふと横を見れば、一月ほど前に泊まったときに置いて行った歯ブラシが目に入った。ご丁寧に、俺用に新しく買ったのであろうスタンドに立てられている。わざわざ律儀なものだ。

そそくさと手を洗い終えて部屋に戻ると、なまえさんはじっと俺の鞄を見つめていた。どうしたんですか、と声をかけながら彼女の隣に座れば、眠たそうな目がこちらを捉える。とろんとしたそれは光を入れず暗く見えて、幾分か彼女が大人っぽく見えた。

「重そう」
「そうでもないですよ。ほとんど教科書入ってませんし」
「テストだったのに?」
「ここに全部入ってますから」

にやりと口角を上げて己の頭を指すと、いやそうな顔をされる。これだから秀才は、なんて苦言を呈す彼女であるけれども、まだ大学は夏休みに入ったばかりだと言うのに既にレポートを提出し終えている彼女も大概なのではないだろうか。
大学のレポートの提出日は大抵の場合、授業が全て終わってからであると聞く。昔から、彼女は夏休みの宿題を早々に終わらせるタイプであった。

「出来はどうなの?」
「心配する必要はないですよ」
「さすがあ。中学のときも過去問なんて要らなかったか」
「あれはあれで役に立ちましたよ。なまえさんの代からずっといる先生も多かったですし、楽に内申取れましたから。ありがたかったです」

中学時代は、彼女が四年間も持っていてくれたテストの過去問をいちいちもらっていた。商人くんのためにとっといたんだよ、と誇らしげにドヤ顔をする彼女の顔が忘れられない。あれはなかなかに憎たらしかったので。

「ならよかった」

彼女はそう笑ってグラスに入れられた酒に口をつける。これでお酒終わりにするから、と言いながら傾けるグラスの中身は言葉の割になかなか減っていかない。

「お酒って美味しいんですか?」
「うーん、そんなに? これはジュースと変わんない味」
「ビールとかは?」
「わたし好きじゃなかった」

子供舌なのかなあ。拗ねたように言う姿はたしかに、先程とは一変して子供っぽく見える。彼女はやたらと年上ぶるけれども、正直言って精神年齢は俺と大して差異はないように思えた。
彼女が低いのか、俺が高すぎるのか。恐らくは両方であろうけれども、そう口に出せば彼女が文句を言うことは分かっているので、心の内にしまっておく。

お酒で体温が上昇しているようで、彼女の頬は赤く染まっていた。いつか、言いくるめて唇を奪ったときのことを思い出す。舌を這わせたのを咎める一言こそ冷静に聞こえたものの、その表情からは確かな甘さを感じた。

「……俺もお酒、飲んでみたいんだけど」
「えー、だめだよ」

グラスがひょいと持ち上げられる。俺に遠ざけるようにして移動されようとしているその手を取って、上から覆うようにして己の指先を添えた。中の液体が揺れるのが、二人分の指の隙間から見える。
ゆったりと彼女の顔が上がった。アルコールに浮かされてはっきりしない頭ではすぐに状況把握はできないようで、きょとんとこちらを見上げている。

「そっちじゃなくて」
「、え」

驚きに開いた口をそのまま呑み込むようにして唇を押し付ければ、くぐもった声が小さく漏れる。
この前とは違って中に舌を捩じ込めるくらいの隙はあったものの、「お利口な恋人」であるために入口を少し味見する程度で我慢した。果物の甘い香りに混じって酒独特の匂いがして、ぐっと眉間に皺が寄るのが分かる。

「酒くさ……」
「な、なに急に! 危ないじゃん」
「危なくないように支えてあげましたよ」

溢さなかったでしょ、と、手の中にある彼女の指先を撫でる。それくらいは予想しているに決まっているだろう、俺を誰だと思っているのやら。

突然の出来事に、先程までとろんとしていた彼女の目はすっかり元通りに開いていた。酔いは覚めただろうか。
もう少し使い物にならない彼女の様子を見ていたかった気もするけれど、きっといくらでもこれから機会はあるだろう。案外、その場の衝動に任せて動くのは気分が良い。

「…勝手にひとにキスしといて、酒臭いとか言わないでくれる?」
「だって事実でしょ」
「ぐ……どうせ商人くんには大人の味なんて分かんないもんね」

じとりと睨んで、彼女の身体がこちらに傾く。「お酒臭いの移したげる」なんて嫌がらせのつもりか、ぐりぐりと頭が押し付けられるけれども、特になにも思わなかった。その程度で俺が不快になると思っているのなら、とんだ勘違いである。
彼女はどんな相手にもあまり自分から接触を図る人ではないので、あちらからこうして近づいて来るのは珍しいことであった。予想に反して、どうやらまだ酔いは覚めていないようだ。

もたれかかるなまえさんの重みは、昔に比べて全然大したことがなかった。幼い頃はじゃれつかれて潰されかけていたものだけれど、今ではその面影もない。きっと、こちらがその気になればどうにでもできてしまう。

「ねえ」
「なあに」
「こっち向いて」

驚くほど素直に顔が上がる。そのままさっきと同じように再度キスをすれば、今度は分かっていたかのようにきゅうっと目を閉じた。
午前中は学校に行っていたのだろう、瞼の上できらきらとラメが光る。そういえば、彼女と住む場所が離れてから、日中に化粧をしていない彼女の素の顔を見ることはなかなか少なくなったのだった。

何回か柔らかなそれを食んで、そっと離れる。グラスはとっくに机の上に置かれていた。不満気な表情が揺れる水面に映る。グラスの中ではぱちぱちと炭酸が弾けていた。

「…いやなんじゃないの?」
「いやとは言ってません。口、開けてくださいよ」
「開けないってば、ん」

こういう雰囲気になるたびに、どうにか流されないかと引っ掛けようとしているのだけれど、彼女の意思は固かった。どれだけ見た目が変わっても頑固なところは昔のままである。
ちゅう、と音が鳴るように吸い付けば、視界の端でぴくりと指先が動くのが見えた。逃げるように彼女の身体がのけぞる。合わさった唇はあっさりとまた離れた。

「も、苦しい、なに? 酔ってる?」
「酔ってるのはそっちだけでしょ」

彼女は考えていることが分かりやすい割に、こちらに性欲を持つそぶりを見せたことは一度たりともない。今だって逃げて呆れたようにこちらを見るだけで、少しも続きを求める気はないようだった。
年下では欲情しないのだろうか、今はそれでも一向に構わないけれども、二十歳を過ぎてもそういうことに付き合ってもらえないとしたら些か不満である。色欲は手中に収まる程度で支配されるほどでもない。しかし、全く興味がないかと言われるとそうでもなかった。

「俺に大人の味ってやつ、教えてくださいよ」

アルコールの回った今ならば、とダメ元で離れた体を近付ける。一体、あちらから向けられる熱とはどんなふうなのだろう。昔から向けられる慈愛の他に、まだ知らない彼女の激情を受け取ってみたかった。触れた彼女は酒にあてられて体温が上がっている。
落としていた視線を顔の方に目を向けると、やけに冴えた目がこちらを見据えていた。確かな意思を持って、細い手が俺を押し返す。

「…だめ」
「……やっぱり、流されてはくれないんですね」
「当たり前でしょう」

く、と彼女がグラスを煽る。いつのまにか中身は空になっていた。おしまい!とテーブルの隅に缶を追いやるのを眺めていると、先程まで触れていた手がまた俺の手を取る。ぴとりと頬に持って行かれて、やわらかい感触がした。

「冷たいね」
「なまえさんが熱いんですよ」
「そっかあ」

指と指の間に、自分のものよりもほっそりとしたそれが入り込む。ゆるやかに握られる手は、体温の差さえあるものの先程よりも大分落ち着いた温度になっているような気がした。
心なしか言葉の発音もしっかりとしてきて、甘えて身を寄せるほど酔いはもう回っていないのでは、なんて確信に迫る仮説が浮かぶ。

「ねえ、ずっと生殺しで可哀想だとは思わないんですか?」
「……ほんとに生殺しだって思ってるの?」

思ってもいないのにふっと頭に浮かんだ言葉をなんとなく口に出してみると、すぐに一蹴される。全然そんなふうに見えないけど、と笑う彼女はさすがに長年の付き合いなだけあって俺のことをよく分かっているようであった。ぱ、と繋いだ手が離される。

あえて否定も肯定もせず黙っていれば、彼女はつまらなそうに頬杖をついた。傾いた首と、こちらを見上げる目が、どこかいつもと様子が違うことに気がつく。
アルコールによるものとも、いつもの優しいそれとも違うそれは、じっとりと俺を捉えて逸らさない。

「わたしだってかわいそう。あと四年も待たなきゃいけないんだよ?」
「……は?」
「ふふ、我慢強いからべつにいいけどね」

がた、と彼女が立ち上がる。これ置いてくるね、と両手にグラスと缶を持ってキッチンの方へ向かう彼女に、俺は不覚にも一拍遅れて動き出した。

top / buck