望みとあらばなんなりと

最近、部屋の空気がやたらと澄んでいる。

ふとそう気がついたのは数週間前のことである。その日はいつものように学校から帰って、上がらない気分で自室のドアを開けた。ちょうどめんどくさそうなレポートが出された直後で、スカリーくんに愚痴ろう、なんて迷惑なことを考えていたのを覚えている。

普段通り中に入ろうとして、ふと違和感に気が付き足が止まった。考え事は全てほっぽり出され、目線は室内をきょろきょろと動くが、なにが違うのか分からない。

『なまえさん。おかえりなさいませ』

特になにも変わっていないはずの部屋と、奥に鎮座するラジオから聞こえるスカリーくんの声。ぐるりと何度見渡しても差異に気付けずフリーズするわたしに、彼は心配そうに再度声をかけた。

「どうかされましたか?」と聞こえるラジオにふと目を向けて、はたと気がつく。埃がひとつも落ちていない。

「なんか、綺麗になった? この部屋」
『おや、気付いていただけましたか? 実は我輩、近頃掃除に精を出しておりまして』
「掃除」

幽霊が掃除とは、不思議なこともあるものだ、と思ったけれども、考えてみれば学校の食堂だってゴーストたちが運営しているのだった。この世界では、死して尚家事を行う存在がいることは大して珍しいことではないのかもしれない。





彼が随分と世話焼きな性格だと知ったのは、出会ってから一週間ほど経ってからである。

朝のモーニングコールから始まり、お風呂上がりのドライヤー、翌日の授業の荷物の準備まで。スカリーくんは逐一わたしに「こうですよね?」と確認を取りながら先回りしていく。
そんな様子に、わたしは最初少しだけ恐怖を覚えていた。きっとわたしがこの部屋で暮らし始めてからずっと見守っていたのだろうから、知っていて当然と言えば当然である。けれども、これまで認識していなかった者に全てを知られているのはなかなかに居心地が悪かった。

『そ、そんな、ご迷惑でしたか? でも……』

そう率直に伝えると、彼は大層狼狽えた様子で音声が大幅に乱れた。なんと言っているかわからなくて聞き返すと、ごほん、とひとつ咳払いの音が乗せられて、つらつらと言葉を並び立てられる。

『と、いうことなのです』
「…なるほど?」

内容を要約すると、「これまで散々我慢してきたのだから、どうか受け入れて欲しい」とのこと。どうやら彼は、存在も知らない相手にあれこれされるのはさぞ恐ろしいだろうと思って、面識のないうちは手を出すのを控えていたようだった。
意外とそういう配慮ができるのだな、と失礼ながら驚く。彼はその柔和な対応の割に、自分のしたいことは曲げない節があるように思っていたので。

『貴方を怖がらせるのは本意ではなかったのです。ここでの生活が嫌になってしまわれては困りますしね』

しかし、その我慢の分やきもきとしていた時間も長く、今こうしてわたしに世話を焼けるのが楽しくて仕方ない、と彼は語った。どういう楽しみ方をしているのか、ゴーストの考えることはよく分からない。

『我輩は貴方のお役に立ちたくてたまらないのです。死者の我輩にできることなど数える程度しかございませんし、一人で永遠にも思える年月をこの寮で過ごして、正直なところ飽き飽きしている現状で……』
「要するに、暇ってこと?」
『んん、まあ、そうとも言いますが。なまえさんの生活を支えることを楽しみに死後ここに留まっているのです。どうか我輩にお手伝いをするお許しをくださいませんか…?』

どうにも不自然なほどにそう懇願する彼にだめだというのも憚られて、肯定の返事をしたのは記憶に新しい。
あれよあれよと身の回りの物や事が整備され、わたしの生活はかなり快適に、便利に作り上げられていった。ロボットなどなくても勝手に掃除がされているこの現実こそ、それの最たる物である。

「マメだよね、スカリーくんって」
『いいえ、そんな! 異世界から来て大変な思いをされている貴方が、せめて家となる寮の中だけでもより過ごしやすくなるようにと願っているだけでございます』
「あ、ありがとう……優しいね」
『なまえさんの幸せが我輩の幸せですから』

そこまでわたしに優しくしてくれるのはどうしてなのだろう。わたしの幸せが己のそれだと意気揚々と言う彼が、なぜそれほどまでにわたしを案じてくれているのかが理解できなかった。
繋がる赤い糸が示す運命といえど、出会ったのはつい最近、わたしがこの世界に来たのはまだ一年も満たない。それにしては、好感度が高すぎるように思う。なにが彼をそこまで言わせるのか、怪訝に思うわたしに彼は気が付いていたのだろうか。





ペンを走らせる指がうまく動かない。ほとんど意識が持たない状態で机に向かっているのは、よく分からないからとずっと後回しにしていた明後日提出のミニレポートが全く終わりそうにないからである。

時刻はもう深夜一時過ぎ。さすがに寝たいけれど、文章は目標字数の半分もいっていなかった。内容をきちんと理解できていないために、普通のこの世界の人であればものの数時間で終わる作業が、わたしには数日かかる。常識が分からないとはこういうことなのか、と月日が経つごとにつくづくと感じた。

『……なまえさん。もうお休みになられては?』

そんな状態では進むものも進まないでしょう。咎めるように優しくそう声をかける彼の声は、どことなく暖かくてよりわたしの眠気を誘う。

ぽつり、「我輩が教えられたらよかったのですが」と申し訳なさそうに呟く声が流れた。今回のレポートはどうやら最近の技術を使ったもののようで、彼にはさっぱり分からない内容らしい。スカリーくんは一体どれくらい前の人なのだろう。

「そうだよね……寝ようかな……」
『ええ、それがよろしいかと。電気を消すのと、姿見に布を掛けておきますね』
「…布?」
『ほら、丁度ベッドが映ってしまうでしょう? 寝ている姿が鏡に映るのはあまりよくないと言われております。ご存知ではありませんか?』

知らなかった。思えば、元の世界の自室では昔ベッドの脇に鏡が置かれていた。だからといってなにかあったわけではなかったと思うけど、あれは良くなかったのか。

ふわりとレースの布が掛けられるさまを、布団の準備をしながら眺める。彼の動作は見えないけれども、布のはためき方やその柔らかな動きを見たらきっと優雅な所作をするのだろうな、と漠然と思った。

「……んん」

布団に滑り込むようにして横になると、一気に眠気が襲ってくる。さっきまで考えていたことが全て消えてしまうような感覚。寝そう、と思うと、彼がスピーカーからなにか喋っていた。きゅっと目に力を入れて、意識を保とうとする。

『実は、これだけはなまえさんがこちらを知る前にもしていたのです』
「……そうなの?」
『はい。貴方が寝てから掛けて、起きる直前に外していたのでお気付きにはなられなかったと思いますが。我輩の唯一の楽しみだったのですよ』
「へえ……」

ふふ、もう寝てしまいそうですね、と遠くの方で声が聞こえる。うまく相槌が打てている気がしない。ちゃんと返事がしたいのに、遠のいていく意識に抗えずに目を閉じた。そんなにずっと、わたしに目をかけてくれているというのか。ぼんやりとした頭で、ふっと思う。

どこか覚えのある、ひんやりとした冷気を顔に感じる。なにかが頭を掠める感覚がしたような、しなかったような。小指から伸びる赤い糸がわたしの頭上へと引かれるのを知らぬまま、わたしは深く眠りについた。





「なんでスカリーくんは、わたしにこんなに良くしてくれるの?」
『え?』

すう、と深呼吸をしても、もう埃っぽい匂いはしない。むしろいつのまにか置かれている名前もわからないお花のおかげで、甘い良い香りが控えめに漂っていた。
どこから持ってくるのやら、この部屋には物が増えたり、逆に片付けられて減ったりしている。全て彼の思うままだ。

わたしがこの部屋には住み始めてからずっと行われていたという細やかな気遣い。甲斐甲斐しい声かけに、彼が動くたびに左右に動く赤い糸。
「なぜこんなにも」と疑問は日々募るばかりで、ついに口をついて出て行った。わたしの疑問に、スカリーくんはええと、と困惑したように言葉を続ける。

『急にどうしてそんなことを? 我輩、なにかおかしかったでしょうか』
「いや……ほら、昨晩言ってたでしょう。わたしがスカリーくんに気付いていない時も、ずっとバレないようにやってたって」
『そうですが……それがなにか?』
「話もしたことなかったのに、なんでそんなに気にかけてくれてたのかなって」

思ったことは素直に聞いてみるのが吉である、とは我が監督生ユウちゃんの一言である。なんでもずばっと鋭い一言を残す彼女からは学ぶことがたくさんある。

今回はそれに倣って、わたしも素直に聞いてみることにした。彼は聞いたことは大抵丁寧に答えてくれるので、安心して疑問を口に出すことができる。
実際、思った通りスカリーくんはすんなりと答えを口にした。至極当たり前のことのように、なんのためらいもなく、あっさりと。

『それはもちろん、なまえさんを愛しているからに他なりませんよ』
「……愛してる?」
『ええ、今更何を。あれ、言葉で伝えたことはありませんでしたっけ?』

どうだっただろう。聞いたような、聞いていないような。彼は息をするように大袈裟にものを語り、キザに言葉を選ぶので全て冗談かと思っていた。そういえば、すっかり馴染んで忘れてしまっていたけれど、彼はわたしの運命の人なのである。

果たして、運命とはあり得るのだろうか。正直、未だにわたしは信じきれていなかった。しかしこんなにも迷いなくはっきりと愛を伝えられてしまうと、返す言葉もなくただただ黙りこくってしまう。

『では改めて、我輩の運命の貴方。出会った時からお慕い申し上げております』
「……え、っと」

妙な空気感と彼の言葉に、心臓は密かに早鐘を打っていた。今わたしは彼をどう思っているのだろう、と自問自答してみる。
ちらりと小指の赤い糸に目を向けた。鮮やかに目に入るそれは、ゆるやかに弧を描いて向こうへと繋がっているらしい。

『照れていらっしゃるのですか? 可愛らしい』

ふふふ、と笑い声が聞こえる。本気でそう言っているのか、それにしては淡々としすぎているような気もした。ラジオ越しの音声だけでは、彼の表情もその声のトーンも正確に推し量ることはできない。

あまりに簡単に伝えられるので、彼の言うことはわたしの内にうまく浸透していかなかった。なぜ、こんなに好かれているのだろう。
なにかした覚えも、なにかされた覚えもない。ただこの部屋に住んで、ただ糸が繋がっているだけである。

「あ、愛してるって、なんで? わたしがスカリーくんの、その、運命のひとだから?」
『……そうですねえ、なんと申し上げたら良いのでしょう』

先程から質問責めにしてしまっていることには気が付いていたものの、聞かずにはいられなかった。しんとした部屋にラジオの機械の音だけが響く。

しばらくの無言の末、彼はゆったりと話し出した。

『例えば、やわらかく笑うその愛らしいお声だとか、何事にも真面目に取り組む姿勢だとか。なまえさんが気付いていない間にも、我輩は貴方と共にいて、いろいろな魅力を知ったのです』
「……」
『なまえさんは我輩と出会ったばかりだと仰っておりますが、実のところはそうでもないのですよ。ずっと貴方を求めておりました。恋慕を抱くには申し分ない期間があったかと』

我輩はずっと一人でしたから、余計ね。静かに彼は音声を乗せる。糸の曲線がより顕著になって、彼がわたしに近付いたのが分かった。ぞくぞくと体内から這い上がる感覚がする。
彼に嫌悪を抱いているわけでは決してないのに、近付いたときに感じるこの悪寒はいつまで経っても治らなかった。これは死者と生者の差によるものなのだと、前にスカリーくんが言っていたのを思い出す。

『我輩は、運命はなるべくしてなるものだと考えております。運命だから惹かれるのではなく、惹かれたから運命なのです』
「……熱烈だ、ね」
『ええ! 我輩には夢がありまして。いつかはなまえさんからも、同じほどの熱を向けられたいと願っております。今はまだなまえさんの運命は我輩ではないのでしょう?』

ぎくり。わたしの表情が強張ったことに彼は気付いただろうか。運命を、糸を信じていないこと、すでにバレているとは思わなかった。
しかしながら彼は気分を害したわけではないようであった。いつもの声で、晴々と高らかに語る。

『今のままでも十分すぎるほどの幸福ではありますが、我輩も闇の鏡に選ばれる器らしく強欲なのです。想いを返していただけるように、少しずつ我輩のことも知って頂きたい。そのための準備もしているのですよ』
「準備って、なにを?」
『それは後のお楽しみでございます! サプライズより心高鳴るものはないでしょう?』

我輩、驚きと恐怖に身を捧げた人生でしたので、こういったものに目がないのです。そう言う彼に、どういう人生だったのか、と聞こうかと迷った。
けれども、わたしが口にするより先にあちらの方が早く言葉を選ぶ。スカリーくんは口がよく回るので。

『……貴方の驚く顔が見られたら良いのですが』

その声は先程までとは打って変わって、まるで懇願するかのような、低い温度をはらんでいた。わたしには、彼の表情を見ることはできない。
布のかかっていない姿見を見ても彼の姿はないし、唯一の手がかりの赤い糸も動きは無かった。向こうはわたしの様子がわかるのにこちらからはわからないのは、すごく寂しいことのような気がする。

「スカリーくん」
『ん? どうされました?』

なんとなく、ぞわぞわとする方に手を伸ばす。きいんと部屋をつん裂く機械音が響いた。指先はどことなくひんやりとして、己の勘がうまく働いたことを悟る。

『わ、わわ』
「耳が痛い…」
『ああ、申し訳ありません! でもだって、なまえさんが急に触れるから、というかどうして位置が』
「なんとなく?」
『れ、霊感は無いのに…? 恐ろしい方ですね』

ゴーストに恐ろしいと言われるだなんて心外である。伸ばした指先は周囲より幾分か冷たい空気と、第六感のようなもので感じられる異物感に触れることはできるものの、実態としての感触はなにひとつとして無かった。
これでは、彼がどんな姿形をしているのかさえわからない。そう考えていたらふと思いついたことがあって、口を開く。

「あのね、サプライズも楽しみなんだけど」
『はい』
「リクエストもしていい?」
『…! ええ、勿論!』

どうぞ?と弾む声に、少し安心する。普段朗々として、人生、いや、ゴースト生を楽しんでいるように振る舞う彼が、さっきのような寂し気な雰囲気を纏っているのは落ち着かなかったので。
彼がいつもの調子に戻ったところで、本題に入る。

「スカリーくんの顔が見たいな」

わたしは彼のことを何も知らない。見た目も過去もなにも知らないけれど、せめてどういう顔で笑うのかくらいは知りたかった。
今どんな表情でわたしと居るのか、それを少しでも想像できるようになれば、自分が彼をどう思っているのかもおのずと分かってくる気がする。

例えば、この触れる場所が例えば手であるならば、彼の顔はどのあたりにあるのだろう。上の方を見上げる。
そこにはただ古いランプがあるだけに見えるけれど、こうしていたらいつか目が合うのだろうか。それか、もしかしたら全然見当違いのところを見つめているのかも。

『…顔』
「ゴーストのスカリーくんは見えないからさ。なんか、写真とか絵とか、あったら」

昔のオンボロ寮生の集合写真などが残っていたりしないだろうか。あるいは心霊写真として写れるのなら、今から撮ってみてもいいかもしれない。ユウちゃんが確か、ぴったりの名前のカメラを持っていたはずだ。

「どんな人なのか、見てみたいの」
『……ええ、ええ! 承知しました。丁度心当たりがあります。いつになるかは分かりませんが、必ずやお約束致しましょう』

一際大きく、部屋に音が響く。もう一度きいんと嫌な音がして顔を歪めると、抜けた「あっ」という呟きが聞こえた。
どうやら、驚きだけでなく喜びでも音声は乱れてしまうものらしい。見たこともないのに、黙った彼が今どういう顔をしているのかが手に取るようにわかるような気がした。

top / buck