深淵を覗く時

※夢女バレネタ


「へえ、こういうのが好きなんですね」
「え?」

ぱ、と振り向いた先には、わたしのスマホを手にし椅子でふんぞり返る恋人の姿があった。いつの間に、と思うと同時に、「こういうの」とは一体なんだろうと背筋に悪寒が走る。
伊能くんの様子は普段と変わらず薄ら笑いを浮かべているけれども、その笑みになにやら不穏な愉悦が含められているのが直感的に分かった。

なにを言えばいいのかと思案しながら黙って見つめていると、わたしよりも彼の方が先に動く。すっと差し出されたスマホの画面にはわたしのSNSのブックマーク欄が表示されていた。縦に並ぶのは数多の二次創作、文に絵、ネタのみを発信している呟き。
彼が何を見て「こういうの」と言ったのかを理解した瞬間、声にならない叫びがわたしの喉につかえる。心臓は脳までばくばくと揺らして、一気に上の方に血が昇る感覚があった。
伊能くんは、そんなわたしを見てククク、と楽しそうに笑いを溢す。この厨二病め、と言いたいところだったけれど、今そんなことを口にしたら反撃になにを言われるか分かったものではない。

「最近のお気に入りの彼氏はこの人なんですか?えーっと、名前は……」
「い、言わなくていい、黙って!」
「そんなに恥ずかしがらなくても」

俺となまえさんの仲じゃないですか。そう言ってスマホを眺める彼に、どうにか取り返せないものかと手を伸ばすけれども、伊能くんのいなし方の方が一枚上手であった。

彼は椅子の背もたれを抱えるようにして逃れて、最大限わたしを避けるように腕を伸ばす。身長差による腕の長さの違いも大きく、手を伸ばしてもこの腕ではぎりぎり伊能くんの手の中には届かない。
どれだけ頑張ってもわたしではただただ彼に体重をかけることしかできなかった。にやにやとした顔が近くでよく見える。

疲れてきたので腕を下ろして諦めると、ぎしりと椅子が軋む音がした。さっき少しだけ触れた伊能くんの身体がやけに冷たく感じるのは、多分わたしが火照っているせいである。

「夢小説?って言うんでしたっけ。これって本当に本名入れて読むんすか?」
「いや、人による……じゃなくて、なんでそんなの知ってんの?」
「昔どっかで見かけたんですよね。世の中には俺の知らない珍妙な物が沢山あるんだなと思ってたんですけど、まさかここで繋がってくるとは。人生において何事も無駄なことなんて一つもないんですよ」

こんなことで人生の格言を言わないでほしかった。うう、なんて言葉にならない苦しみが口から溢れ出る。果たして中身はどれほど読まれただろうか。今すぐに自害したい気分である。
彼の顔をもう一度よくよく見るけれど、なにを考えているのかはよく分からなかった。スマホの画面がまたスクロールされている。こちらから内容は見えない。もうやめてくれ。

「いつから読んでるんですか?」
「い、言わない」
「じゃあ相当前ってことですね」

図星である。辛い。彼の察しの良さとよく回る頭に、ここまで悔しさを覚えることがあるとは思わなかった。容赦なく検索履歴まで開き出す彼にもう何も言う気になれない。

「……」

ふと考える。夢女であることがバレた時点でこの関係は続けられないものになったのではないか、と。きっと普通の感覚を持つ人であれば、恋人がアニメや漫画のキャラに恋に似類した感情を持っているなど、気持ち悪くて耐えられないのではと思う。
というか、先程彼は易々と「今のお気に入りの彼氏は」と聞いたけれど、そういう認識のひとが自分以外にもいるということに何も思わないのだろうか。わたしからしたら三次元と二次元では抱く恋慕の種類は別だし、求めているものも別だけれど、一見したらその違いなど第三者からは分からないだろう。

その上でなにも感じないのなら、それはそれで少し複雑な気持ちである。飄々とにんまり笑う彼の表情からは、本当はどう思っているかなど感じ取れる筈もない。

「あの……わ、別れる……?」
「なんで?別れませんよ」

なにも言わないという選択肢も取れず、おずおずとお伺いを立てると、彼はさも心外だと言わんばかりに首を振った。はっきり告げられた否定の言葉に、無意識にほっと息をつく。
ちらりとこちらを見る彼の様子は先の問いかけの理由を求めているようで、わたしの次に続く言葉を待っていた。画面を触る手はなかなか止まらない。

「いや、ほら、彼女がこんなんじゃ気持ち悪いかと思って…」
「まあ思わないこともないけど、別れるまででもありません」
「そ、そう……」

やっぱり思わないこともないんだ。許容範囲であったことは不幸中の幸いではあるが、当然少し落ち込む。許してくれているのになんて我儘なのだろう、と自分で思ってさらに落ち込んだ。つらい。
羞恥と罪悪感と悲しみとその他諸々の負の感情が脳を渦巻いて、くたりと項垂れる。上の方から、色んな愛の形がありますしね、なんて似合わない慰めの台詞が飛び出た。思ってもないくせに。

「あ、一つ疑問なんですけど」
「な、なに?」

ずっとスマホを眺めていた伊能くんは、ぱっと思い出したようにこちらに顔が向けた。今は何を聞かれても怖い。彼の止めどない好奇心は、一体どこまでわたしの柔らかいところを掘り進めていくのだろう。
もう既に、絶対に知られたくなかった一番の秘密は明け渡してしまった。これ以上進んでも、副産物の恥しか見せられるものはない。一刻も早く興味を失って、わたしの深淵から出ていって欲しいものである。

「リアルで彼氏できても読むのやめたりしないんですね」
「……どういうこと?」
「俺、恋人がいない寂しさを埋めるためにこういうものがあるんだと思ってたんです。でもまだ読んでるってことはそうじゃないんでしょ?それとも俺じゃ物足りないからこれで補ってるんですか?」

心底不思議そうに述べる伊能くんに、やはりそこは混同されて考えるのだな、と自分の推測が間違っていなかったことを知る。単に興味があるだけなのだろう、彼の疑問には好奇心以外の感情は乗せられていなかった。

「うーん…」

現実と創作は違う。ヤンデレもツンデレも、現実で実際にいたらただの変な人である。創作物でしか味わえない良さがこの世には確かに存在するのだ。言うなれば、恋愛小説や少女漫画を読む時の感覚に近い、とでも言おうか。
しかし、それでいて相手に思う気持ちは恋と変わらずどきどきするのだから、なんと形容するのが適切かが分からない。

伊能くんであればきっと、分かりやすく伝わるぴったりの表現を思いつくのだろうけれど、わたしにはそこまでの語彙も頭の良さも無かった。わたしは彼と違ってとても説明が下手なのである。

「なんというか、寂しいとか物足りないとかじゃなくて……」
「……」
「伊能くんはそのキャラじゃないでしょ?別に恋愛したくて読むんじゃなくて、そのキャラが好きだから読むっていうか……そこにしかない良さがあるっていうか……」

だから、自身の恋人の有無とは無関係なのだと。そうたどたどしく説明してみる。なんだか恥ずかしくなってきて、首を丸めるようにして俯く。こんなことを他人に話したことなど人生で一度もない。

うまく伝わった気は全然しなくて頭を悩ませていると、少し時間を置いてへー…と一言興味なさげな返事が返ってきた。こっちが恥を忍んで必死に伝えているというのに、なんだその反応は。

「なるほど。ある程度理解しました」
「ほんとに?」
「なまえさんの言いたいことは分かりましたよ。あんまり納得はいってませんけど」

そう言って、彼はのんびりと頬杖をついた。つまらなそうな顔をする彼に文句のひとつでも言いたくなる。どうしてひっそりと行っていたささやかな趣味を、伊能くんに納得できるように解説しなければならないのだろう。そっとしておいてほしい。
そもそも、ひとのスマホを勝手に見ること自体不誠実である。伊能くんに暴かれるまではきちんと隠そうとしていたのだし、わたしはそんなに悪くない、と思う。

「も、もういいでしょ。スマホ返してよ」
「……うーん、どうしようかな」
「まだなにかあるの?」

もう本当に終わりにしてほしい、と項垂れるわたしを見て、彼は鼻で笑って肩を竦めた。黒黒とした三白眼がこちらを向く。

「今の聞いてて思ったんですけど」
「……」
「それって浮気じゃないですか?」
「……え?」

浮気。そんなことを言われるとは夢にも思っておらず、気の抜けた声が出た。不貞を疑っているとは思えないくらい冷静に淡々と述べられて、意外と焦りは込み上げてこない。
果たして、夢小説は浮気に入るだろうか。確かにそう感じてもおかしくないものではあるけれど、まさか伊能くんからそんな台詞が出るとは意外である。

「ええと、ちゃんと分けて考えてるつもりだよ…?その、ガチ恋みたいな、そういうのじゃないし」
「浮気は相手が浮気だって思ったらそうなんですよ。なまえさんは俺以外の男のことも好きなんだって言いましたよね?立派な二股ですよ」

ああ、二つじゃ済まないか……なんて、斜め上に黒目が動くのが見える。その後じとりとこちらに向けられる視線。口達者な彼はどうやら詰める気満々のようである。これはそこまで責められるようなことでもないと思うのだけれど。冷や汗が背中を伝う。

今、彼はさながら犯人を問い詰める探偵だ。もしくは、判決のために弁を尽くす検事。怒っているようには決して見えないが、きっと逃げ道は塞がれていた。
ハの字に下がった眉がやけにわざとらしく見える。大きくつかれたため息は、空気を作る為だと察してはいるのにこちらに後ろめたさを感じさせた。

「あー、残念です。こんなに俺は貴方に尽くしてるのに、そっちは他の男に夢中だなんて」
「ご、ごめん…」
「いいえ!いいんですよ。俺は恋人の趣味に口を出すような小さい人間じゃありませんから、どうぞ続けていただいて」

彼は声高らかに、芝居がかった口調で喋る。さっきまで散々文句を並べ立ておいて、どの口が言っているのだろう。生き生きとしている彼の黒目の奥で、きらりとなにか輝いている気がした。

今この状況は、彼にとってどんな意味を持つのだろう。知らない趣味趣向を研究するチャンス?それとも、恋人が不義理を働いた時のシュミレーション?
なにを考えても、いつだって予想を裏切る彼の前では無意味であった。彼は口元にスマホを被せるようにして、目の前に立つわたしを見定めるように視線を注ぐ。

「しかし、柔らかな男子高校生の純情が傷ついたのも事実です。なにかお詫びが必要だとは思いませんか?」
「……お詫び」

にやり。スマホの背面の奥にある口元が歪むのが見えた。これが狙いか。間違いなく、わたしは脅されている。言うことを聞かなければ夢女子であることを言いふらすと、暗に言われている。
頭のいい彼は、どうやら脅しの文句にこれを使うという選択肢を取ったようであった。恋人であるかそうでないかには関係なく、とんでもない人に秘密がばれてしまったのかもしれない。

彼のこの言い方を見るに、絶対に傷ついてなんかいないし気にしてもいないのだろう。良い口実ができたとしか考えていないはずだ。

「お詫び、って、具体的にはなに?」

知りたくないような気もするけれど、聞かないわけにはいかなかった。なにが要求されているのか。物やお金、謝罪の態度、思いつくどれも彼らしくない。
そんなものよりもっと、興味のそそられる一つがあるはずである。そうでなければ、こんなふうに切り出したりしない。

ひとしきり中身を漁って満足したのか、彼の手に持つスマホがこちらに差し出される。受け取ると機械の熱がそのまま指先に伝わった。まるで今のわたしのような熱さである。
ちらりと黒い画面に自分の顔が映った。一向に合わせることのできないわたしの目線に、彼はなにを思っているのだろう。そう聞かれるのを待っていました、と言わんばかりに、薄く唇が開かれる。

「俺のを書いてください」
「…え?」
「貴方の手で、俺の夢小説、書いてみてくださいよ」






絶句。そう表すのにこれほどまでに合った顔が未だかつてあっただろうか。先程までの下ばかり見ていた目線は、大きく開かれる瞳と共にこちらをしっかり映している。俺はどんな彼女より、俺にかき乱されて平静を失っているなまえさんの表情を気に入っていた。

「な、なな、な」
「俺も一回読んでみたいんですよね。でも知らない人の読んでも仕方ないんで」
「じ、自分のも面白くないでしょ!?きっと読んでて怖くなるよ、そんなの。ていうかわたし書けないし」
「なまえさんが俺のことどう思ってるのか気になるんですよ。文章の中で俺を動かすんだから、作者の思考がモロに出るでしょ?それに、その程度で恐怖を覚えるような柔な男じゃありません」

無茶な要求をしているのは重々承知である。まさか、思い通りに彼女が持って来るとも思っていない。期待なんてしていないけれど、口に出す言葉は全て本心であった。
なまえさんが俺に何を求めているのか、どういう人間だと思っているのか、文章を読めば全て分かるのならこんなに便利なものはない。

先程見た彼女が好んで保存しているものから推測することもできるが、「キャラと俺は違う」とはっきり宣言したところを見るに、そこから得られる予測と多少のずれがあるのだろうと感じた。見当違いな予想を立てるのは無駄でしかなく、余計なことに労力を割くのは御免だ。

「なまえさんがしてほしいこと、書いてくれれば再現できるかもしれませんよ。悪い話じゃないでしょ?」
「全然悪いよ!恥ずかしくて死んじゃうよ」
「それくらいで人が死ぬことなんてありません」

恋人に秘密を暴かれ、おちょくられるように脅されている彼女は、もう半ば泣きそうであった。さすがに酷だったか、と少し反省する。意外な一面と彼女の感情の行き場を目の当たりにして、案外俺も冷静ではなかったのかもしれない。

平面の男に求めて俺には望まれないものとは一体なんなのだろう。俺が完璧になまえさんの理想となれば、画面に心を高鳴らせることもなくなるのだろうか。
彼女の理論から言えばそれはない、ということになるのだろうけれど、いまいち俺は納得がいかない。普段から彼女が俺を分からないと言うように、俺も彼女のことなど結局よく分からないのである。

「ほら、俺将来執筆で一山当てる予定なんですよ。知識として入れておけば、貴方みたいな層にもウケる文を書けるかもしれないでしょう」
「そんな、参考になるわけないよ。うう、もう……」

恋人は、耳まで朱色に染まって蚊の鳴くような声で憔悴し切っていた。そんな様子を見ていたら、もう切り上げてあげてもいいだろう、なんてふと思う。このまま引き伸ばしたとしても、向こうが折れることなんて不可能だろう。分からないことは、これからゆっくり理解していけばいい。

ぐだぐだと拒否の言葉を絞り出すさまと、その羞恥に濡れた表情を眺めるのもやぶさかでもないが、俺は良くてもなまえさんの方がもう既に限界である。
今後も引っ張り出せば弱みとして使えることだし、ここでさっぱり消化させてしまうのは惜しいネタでもあった。

「読むのやめるから、勘弁してよ…」
「しかたないですね。今回は許してあげます」
「本当に…?」
「はい。あ、でも読むのやめなくていいですよ。最新のお気に入りを定期的にラインで共有してください」
「ぜったい、やだ……」

top / buck