ずっと、昔の恋人を引きずっている。
その人はわたしの幼馴染で、どうにも自分に自信のない男の子だった。その分言葉が柔らかくて、穏やかで。手先が器用で几帳面だったから、お菓子作りも上手にこなして見せていた。
彼の作るカップケーキにはかわいい絵が描かれていたり、小器用に文字が載せられていたりして、見る度に驚いて褒めちぎったのを覚えている。彼は恥ずかしそうに、でも嬉しそうに頬を掻いて、出来立てを食べさせてくれた。
「俺、ほら、ロアーに入ったしさ。なまえの隣に並んでも恥ずかしい思いはさせないくらいにはなったと思うんだ」
同じ大学に二人で上がって、しばらく経った頃。彼はそう理由付けて、わたしの手を取った。まるくふにふにとした手に触れるのはかなり久しぶりで、どくどくとわたしの中の血がよく巡っていたように思う。きっと、彼に負けないくらいに顔は赤くなっていたはずだ。
「……俺と付き合ってくれない?」
不安げに揺れる緑色は、その奥の奥に確かな期待を含んでいて。ずっと彼が好きだったわたしは、二つ返事でそれを了承した。
その日はそのまま手を繋いで、普段と変わらないたわいもない話をして歩いたような気がする。別れる時に彼がなかなか手を離そうとしないから思わず吹き出してしまって、ふたりで笑い合った記憶が、今でもありありと思い出せた。その後すぐに、なかなか会えなくなって関係が途絶えるとは思いもせず、あの瞬間は幸せな時を過ごしていたのだ。
「何飲む」
「え、ええと、じゃあ、コーヒーで」
「ん」
なぜ大学時代の恋人の話を思い出したのかと言うと、ちょうど当の本人が目の前でこちらを見据えているからである。
ランドール・ボッグス。モンスターズインクに務める怖がらせ屋で、代々優秀と名高い一家のジェームズ・P・サリバンに次いで好成績を納めているエリートである。そして、わたしの幼馴染。元彼、と言ってもいいだろう。
今わたしは、そんな彼と人気のない社内の自販機の前で二人きりになっていた。図られたかのようにすっと無から姿を現したランドールは、数年ぶりの再会だと言うのに開口一番「時間ある?」とだけ端的に聞いて、肯定を確認すればそそくさと前を歩いて行った。口を挟む間もなく、流されるままについていけば二言目に冒頭の台詞。
なにか他に言うことないのか、と思わなくもないけれど、そういえばこの人は昔から人付き合いが苦手なのだと思い出す。指摘したら落ち込んでしまうかも、なんて思いついたら文句なんて言えなくて、素直に答えてしまった。
ゆらりと揺れる尻尾の色が、昔よりも落ち着いた色合いに変わっているように見える。会わないうちに、何回脱皮を重ねたのだろうか。
「ほら」
「あ、ありがとう」
がたん、と自販機から缶が落ちた音がして、彼の下の方の手がそれを取った。ぶっきらぼうに渡されるそれを受け取って、促されるままに近くに設置された休憩スペースの椅子に座る。奥まった場所にあるのと時間が遅いのもあって、そこには誰もいなかった。しんと冷たい空気が頬を撫でる。
彼の反対の手に握られているのはエナジードリンクで、そんなものを好んで飲むような人ではなかったような気がしたけれど、なんて少し心配になった。やはりわたしのような事務職員とは違って、怖がらせ屋というものは過酷な労働なのだろう。
わたしは大学でもそんなに成績が良かったわけではなく、学部も違ったために進路は彼と別の道を選んだ。ランドールの活躍は噂には聞いていたが、彼が有名になってからわたしは一度も直接会っていない。
そんな中わたしは、色々あって新卒で入った会社を辞めて、ついこの間モンスターズインクに入社した。もしかしたら会えるかも、とは思っていたけれど、こんなに早い再会になるとは。
顔つきが少しやつれたことと、目の悪さに起因した人相の悪さによって随分受ける印象は違う。それでも、遠くから一瞬見えただけで彼だと分かった。
物珍しくてまじまじと見つめていると、ぎろりと鋭く緑色がこちらに向いた。慌てて目を逸らして、手元の缶コーヒーを握り直す。つまみに指を引っ掛けて開けると、かちりとアルミが擦れる音がした。一口口をつける。
別にブラックでも良かったのだけれど、彼が選んだのはカフェオレだった。薄い茶色のパッケージ、まろやかなミルクの甘みが舌に広がる。
「……あの、ええと、久しぶりだね」
「……」
「会えて嬉しいよ。元気だった?」
「別に。お前は最近来たんでしょ。配属は?」
どうして知っているんだろう、と思いつつ、部署の名前を答える。怖がらせの仕事とはあんまり関わりのないところだから、あんまり接点はないと思うのだけれど。慣れないとげとげしい態度にひやひやしてして、落ち着きなくもう一度コーヒーを喉に流し込んだ。会わないうちに、接し方が分からなくなってしまったのだと悟る。
彼と別れたのは自然消滅だった。大学の怖がらせ大会の後、めっきり連絡が少なくなった彼はそのうちに顔も見せなくなって、最後に送った心配するメッセージには、『ごめん、放っておいて』と、ひとつ送られたきり。
わたしは大会での顛末は人伝にしか聞いていなかったけれど、タイミング的にきっとなにかしらそこで心境の変化があったのだろう。悲しかったけれど、不思議なことに彼のことは変わらずに好きなままだった。
結局大学在学中に一度も彼の姿は見ることがなく、恐らくはわたしの前では姿を消していたのだろうと推察する。彼は隠れるのかめっぽう得意であったし、それこそが怖がらせ屋、ランドール・ボッグスの最大の武器であった。
「その……なにか用事?急だったけど」
世間話をしても大した反応が得られないことが分かったので、早々に本題を促す。今まで話に聞く彼とわたしの記憶とが違うことを気にしていたけれど、やはり彼は随分と見た目も性格も変わったのだと身をもって体感した。
まるで別人に接するような、そんな緊張感が常に神経に張り巡らされる。大学の一件から一目見ることさえ出来なかったために、彼が何を経てここまで変化したのか全く想像することができなかった。
わたしの問いかけに、ランドールは少しの間黙ったままこちらを見つめる。どぎまぎとしながら彼の言葉を待てば、じっとりと口が開かれた。昔と発声が異なっていて、辺りを這い回るかのような声質にお腹の辺りがぞわぞわする。
「俺、今ランキング二位なんだよね」
何を言い出すかと思えば、そんなこと?
咄嗟に思った言葉は、間抜けにぽかんと半開きにされた口から出て行くことはなかった。はく、と空気が抜けていく。彼の順位なんて、社員はおろか外部のモンスターだって、この業界に興味のある者であれば皆知っていることだ。
「知ってる、けど」
「あっそ」
きゅうっと不機嫌そうに、元々少ししか開いていない目がさらに細まる。何で機嫌を損ねたのだろう。前までなら手に取るように分かった彼のことは、今となってはなにも分からない。足元に落ちる尻尾がゆらりと揺れたのが見えた。
彼の緑の目はまっすぐに前を向いて、わたしを映していなかった。ぐっと握られた缶がぎらりと電球を反射して光って、自然と背筋が伸びる。
「近々サリバンを引き摺り下ろしてトップになる。こんな優秀な怖がらせ屋、なかなかいないだろ?」
「……そう、だね。うん、すごいね」
にや、と口角が上がる。自慢げにそう話す彼だけれど、大学時代に嬉しそうに話す姿よりも数段不健康な笑みに思えた。相変わらず、こちらに顔は向けてくれない。横からぎざぎざした歯が垣間見える。返事は自分の耳にも辿々しく聞こえた。
トップになる、だなんて、昔の彼だったら間違っても口に出さなかっただろう。「俺なんて」が口癖だった彼の困り顔を思い出す。ランドールは告白するときですら、自分を低く見積もっていた。
「今の俺は昔とは違う」
静かに呟かれた言葉は、小さいながらにきちんとわたしの耳に届く。自分の考えていたことが、そのまま音になって現れたことに目を見開いた。今の彼はあの頃と全く違う。虚空を睨みつけるその目は、一体なにをそこに見ているのだろう。
空調の音がやけに大きく響いている。機械音の中に、生き物の唸る声が小さく混じったような気がした。
「なにが、言いたいの?」
なにがあったの、と聞こうかと口を開いたけれど、半分のところで躊躇って、違う言葉を口にした。放っておいて、と送られたあの文章は、今でもなお継続されたもののように感じられて。
昔と違う彼は、その心のやわらかさまでも変化したのだろうか。外から見ただけでは、そこまで深いところのことは分からない。
「……俺たち、昔付き合ってただろ」
「…う、うん」
「………復縁する気、ない?」
「え?」
じとりと、彼の緑色にわたしが映った。
「なん、なんで、急に」
「……」
ずず、と彼が缶に口をつける。焦るわたしとは対照的に、ランドールの方は至極冷静なようだった。黙ったままこちらを見ている様子に、疑問符しか浮かばない。
復縁など、絶対にしないのだと思っていた。昔の彼ならば断られることを恐れてよりを戻すなど言い出しもしないだろうし、今の彼ではわたしと復縁する必要性も見出さないだろう。
一体、何のために。そもそも、彼はわたしのことをまだ好きでいてくれているのだろうか。わたしは過去に縋ったままだけれど、彼はとっくにもう前に進んで、だからこその立場と成功なのだと思っていたのに。
「お前にとっても悪い話じゃないと思うけど。名門大学出身のエリート怖がらせ屋を彼氏にできるんだから。前よりもずっと箔がつくよね?」
「は」
「自慢し放題。収入もそこらの平社員よりずうっと良い。大した優良物件だろ」
また、彼のするどい歯が見える。わたしはなんにもまともに答えられていないのに、あちらからはつらつらと言葉が並べられた。彼から発される誘い文句に、既視感を覚える。
「……」
よく聞けば、ランドールが選ぶ言葉は全て体裁だとか地位だとか、名前がついていて誰が見ても分かりやすく計れるものばかりだった。
先程までどこか遠くを睨みつけていた目は、今はまっすぐこちらに向かっている。じっと見つめ返していると、僅かにその緑の円が揺れているのが分かった。昔、ゆらゆらと合わない視線と共に、似たような理由をつけて手を伸ばした彼を思い出す。
わたしは、ずっと前からきちんと好きだったのだ。いつ告白されても喜んで受けたというのに、彼は必要のない意味を並べた。今も、同じことだ。
わたしは貴方がなにも持っていなくたって、そばに居たいと思うのに。ずっと伝えていると思っていたことは、なにも届いていなかったのだと初めて知って、少し心臓の奥が痛んだ。
昔とは違う、と彼は言う。けれど、変化に覆い隠されて分かりづらいだけで、根っこの部分はなにも変わっていないのかもしれない。染まるのが上手だからって、姿形ががらりと変わるわけではないのだ。
「……なんか言えよ、嫌なの?」
「嫌じゃ、ない」
反射的に出た声に、思わず口を押さえる。恐る恐るあちらを見ると、ランドールもきゅっと口を結んで、間髪入れずの返答に驚いていたようだった。ずっと細められていた重たい瞼が少しだけ開く。丸い目が顕になると、途端に昔の印象と変わらなくなるな、なんて頭の片隅で思った。
「なんでなまえも驚いてんの?」
「ご、ごめん、口に出ると思ってなくて」
「はあ?」
かち、と彼の持つ缶が鳴る。ランドールが指先で側面を叩く音だ。忙しく指を動かす動作には見覚えがある。
「あの」
「…なに」
「……ずっと前から好きだよ」
この一言で伝わるとは到底思えなかった。あのとき散々投げかけた数々は彼に少しも染み込んでいなくて、通り抜けていったのだから。それでも、ずっと臆病で周りを気にする彼に、変わらない自分の気持ちを伝えたい。
「………あ、そ。じゃあ、付き合う?」
「う、うん」
前に比べると、あっさりとしたものだった。繋ぐ手もなく、ただ隣に並んで、大した会話もせずに。それでも静かな彼の隣はどうにも心地が良くて、ぶっきらぼうになっても声の温度は同じように思える。
そんなことを考えていると、彼が下の方の手でごそごそとなにかしているのが見えた。なんだろうと思いながら眺めていると、その手がすっとこちらに向けられる。
指先に挟まれているのはメモのようなもので、ボールペンで文字が書かれていた。
「これ」
「…なに?」
「連絡先。大学の時と変わったから」
「あ、ありがとう」
受け取って、文面を見る。文字は相変わらず細々としていて、几帳面さが滲み出ていた。
紙面の大きさに対して占める文字の範囲が小さい。以前雑誌か何かで見たサインはきれいに収まり良く書けていたと思ったのだけれど。
「……なに?その顔」
「えっ、あ、いや、なんでもない」
「…そう?」
まあいいけど。そう言ってランドールは立ち上がった。しゅるりと空気の隙間を抜けるような見のこなしで、いつのまにかわたしの前を通過している。
振り向くとさっきの自販機のところまでもう進んでいて、慌ててわたしも腰を浮かせた。けれど、目が合った彼は指先を下に向ける。そのままでいい、という意味だろうか。
「話はそれだけだから」
「あ、えっと、うん」
「……連絡して」
くるりと素早く踵を返して、廊下を抜けていく紫色の尻尾。それが消えるまでわたしはそこに立ち尽くして、去っていく彼のさまを眺めていた。返事、今度はちゃんと来るのだろうか。ぐっと握った缶のせいで、同じ手に持っていたメモに少しだけ皺が寄った。