夜の帷にて

『おや、寝てしまわれましたか』

話していればいつのまにか目を閉じてしまっていた彼女に、もう一度だけ指先をかざす。さらさらと重力に伴って落ちる髪は真っ白の枕に広がって、そのコントラストが酷く美しかった。
手を伸ばしても透ける己の手、もし触れることができたらどれほど心地よかっただろう、と考えて、たらればをいくら想像しても意味がないことを思い出す。

昔から、なまえさんはいつのまにか眠りに落ちてしまっていた。いいや、本人からしたら夢の中だったのだから、もしかしたら眠ったのではなく、目覚めていたのかもしれない。

返ってきていた返事が聞こえなくなって、おやすみなさいと呟いたあの日。今でも、そうやって夜の挨拶をすればまたいなくなってしまうような気がして、どうにも口から言葉が出てこなくなってしまっていた。







「……誰?」
『えっ?』
「っは、な、なにこれ」

ある日の深夜。ぼんやりと光る姿見、白く濁ったそこには、なにやら人影が映っていた。なんの現象かとあたりを見回すけれども、そこはいつも通りの寮の自室で、鏡以外におかしなところはなにもない。

向こう側から聞こえてきたのは、鈴の鳴るような女性の声だった。甲高い、まだ幼さの残る声。
輪郭がぼやけている影はよく見ると少女のようなかたちをしていて、確実に向こうの誰かとのコンタクトが取れていることを表していた。

『わたし、さっき寝たんだけど……夢の中の人?』
「……い、いえ、我輩は賢者の島の、ナイトレイブンカレッジに通っております、ただの学生で」
『ないと…なに?外国?』

ねぼけたように繰り返す、たどたどしい発音が可愛らしかった。彼女の影がこちらに近づいて、ゆるりと首を傾げたのか分かる。
こちらも恐る恐る近づけば、おお、なんて驚く声が聞こえた。後から聞けば、寝ばけ眼に我輩の黒と白の風貌は目に痛かったのだそうで。

鏡の向こうの友人とは、毎夜と言っていいほど頻繁に顔を合わせることができた。正確に言えば、我輩のほうからは彼女の顔を見ることはできなかったのだけれど、先述したように向こうはその限りではなかったらしい。

『変わったサングラスだね。なんで夜なのに付けてるの?』
「え、ええっと、あの、これは」
『おしゃれ?似合ってるね』

そう言って、ふふふと笑った彼女に。顔も見えない、しかも大して会話も重ねていないのに、どきどきとまだあった心臓が鳴り響いて止まなかったのを今でも鮮明に思い出せる。
人との関わりが少なかったのもあって、素直に向けられる褒め言葉に、まさに「落ちる」ように恋をしたのだ。

夜の鏡越しの逢引。この現象がなんなのかと、昼間は図書館や購入した書籍に目を滑らせた。そしてまた、夜は彼女がいなくなるまで鏡の前で座って会話に耽る。
睡眠時間は短かったけれど、とても甘美な日々であった。

文献によると、鏡には異なる世界を繋ぐ役割があるようである。
学校の鏡のように使用目的が決まっているものもあれば、長い年月大切に扱われた結果、魔力の蓄積した鏡が意図せずどこかへ繋ぐものもごく一部、存在することが分かった。恐らく、今回のケースは後者のパターンであろう。

『ふうん…?』
「……すみません、我輩の言い方が分かりにくかったかも」
『えっ、いや、そんなことないけど……ただ、わたしの世界には魔法なんてないから』

調べた結果を話しても、魔法というものを知らないなまえさんには理解し難い概念だったようだった。誤魔化すように高くなる声には、顔も知らないのに目を逸らして気まずそうにする彼女が目に浮かぶようで。
元より他人との会話に慣れない我輩は自分が喋るよりもなまえさんに話してもらう方がずっと気分が楽で、それきり聞き手に回るように努めた。

今から思えば、あのあっさりとした反応は彼女の通常運転で、別に興味がなかったわけではないのだと分かる。ぺらぺらと我輩が喋っても、見た目よりしっかりと聞いてくれているのが彼女という人だった。







『まさか、こうして貴女の顔を見ることが叶うだなんて、夢にも思っておりませんでした』

彼女が現れなくなってから、一体どれほどの秋が過ぎ去っただろう。孤独に耐え、やがて思い出になって、なんの声も光もない夜に、一人星を眺めた。

我輩がここからいつまで経っても動けない身であるのは、ある本の中で出会った友人たちへの未練と、他でもない彼女への恋慕のせいである。驚くべきことに、つい一年前奇跡的にどちらも叶ってしまったのだけれど。

人を忘れる時に、一番最初に記憶からこぼれ落ちるのは声だと言う。しかしながら、我輩の持つ彼女の記憶はあいにくそれしか存在しない。
死に際に走馬灯で掴んだ記憶さえも薄れかけた頃、久々の客人に無いはずの血液が途端に回り出す感覚が、どれほど感動的だったか。他の誰にだって、分かるはずがない。

「んん……」

目の前で眠るなまえさんが寝返りを打って、古いベッドが小さく悲鳴を上げた。布団が少し捲れて、細い腕がシーツに投げ出される。
すっかり涼しくなったこの頃、寒暖差で風邪をひいてしまっては大変、と腕をしまうように掛け直すと、ひっそりくぐもった声が聞こえた。

なまえさんは、我輩のことを覚えていないようである。当たり前だ、と思った。随分と長い年月が経ったこちらに対して、彼女の成長度合いを見るに時の流れは違うようだけれど、それでも幼い頃の夢の中の記憶などずっと覚えている方が驚きである。

少しばかり残念に思う気持ちと、もしかしたら思い出してくれるかも、という淡い期待がこれまでずっと身を焦がしていた。今日の一件でやっと諦めがついたと思える。
具体的に状況を伝えてもぴんと来ないのなら、あの夜の記憶はすっかり頭の中から消えてしまったのだろう。

詳しい会話の内容を話すのを控えて結末を有耶無耶にしたのは、忘れてしまった彼女への少しの仕返し。それに、明確な反応によってまだぎりぎり推測だと思えるものが、認めざる得ない事実になってしまうことが恐ろしかったからである。

恐怖を愛した人生、それでも尚恐ろしいものがあるとは、なんて罪深い人なのだろう。

『……ええ、別に良いのです。貴女が今、手の届くところにいてくれる。それだけで』

本来ならば、姿を見ることも叶わなかった。たまたま魔法薬をなまえさんが被らなければ、しかもその薬が失敗していなければ、こうして話すことさえできなかった。
十分な奇跡を、我輩は掴み取ったのだ。これさえもう二度と手放さなければ、忘れられた記憶など些細なものである。

そっと、規則正しい寝息を立てる彼女の頬に口を寄せる。感覚も触れた音も無いけれど、確かな充足感が心を満たした。
素敵な貴女、良い夢を。ぽつり呟いて、やはり「おやすみなさい」は喉を通っていかずに腹の中へ落ちて行った。

top / buck