「特に問題はなさそうだな。体調もその後変化はないか?」
「はい。糸が見えなくなっただけです」
「そうか。なら良かった」
もう定期診断はいらないだろう。なにかおかしなことがあればすぐに来るように。
今日はクルーウェル先生による診察の日だった。診察といっても、魔法薬による身体的、精神的な異変はないかを見るだけのもので、基本的にはヒアリングのみで終わる。今回も例によって放課後に数分、魔法薬学室に残るような形だった。
今日は、効果が切れてから初めての診察である。当然だが、やはりあれから糸が再度見えることはない。
体調面も普段とさして変わらず、あの三ヶ月間が夢の中の出来事のようであった。まあ、寮に戻れば夢の続きのように、騒がしいゴーストが出迎えてくれるのだけれど。
「ああ、そういえば。お前には関係ないとは思うんだが、一応」
「…なんですか?」
「『縁切り鋏』と呼ばれる魔法道具を知っているか?」
ぱたぱた、と先生の机の上が片付いていく。魔法というのはすこく便利で、触れなくてもこうして一瞬で整理されるものだから、ついつい毎度目が離せなくなってしまう。
はさみ、と聞いてすぐに思い浮かぶのは、やはりスカリーくんの怯えようである。あの一件から、わたしは彼の前で刃物を持てなくなってしまった。
少し手を伸ばすとひょいと宙に浮いて、「なにをすれば?」と先回りされてしまう。過保護、と言う他ないのだけど、一度やらかしかけた実績はなかなか拭えないので、おとなしく彼に従っている。
さて、話を戻して、先生の言う魔法道具のことはもちろん知っているはずもなかった。縁切りというからには、普通のはさみでは切れなかった赤い糸でもすっぱりと刃が通るのだろうか。
「知らないです」
「そうか。それらしい鋏を見た覚えは?」
「ない、と思いますけど…」
「そう、だよな。分かった。急に聞いて悪かったな」
「いえ。そのはさみがどうかしたんですか?」
わざわざわたしに聞くと言うことは、なにかしらの意図があるのだろう。
気になって尋ねてみれば、ああ、と先生は困ったように眉を顰めた。面倒ごとがあってな、と一言呟く。
「縁切り鋏は学校所有の魔法道具で、その効果から生徒が勝手に持ち出さないように申請制での貸し出しにしているんだが……この間季節ごとの管理確認をしたときに一つ無くなっていたんだ」
片付けの最後にペンがペン立てにするりと入って、同じところに差し込まれているはさみがかちゃりと揺れた。そのはさみは多分、魔法道具ではない普通のものである。
「えっ、それって大丈夫なんですか」
「大したことではない。その鋏自体の魔力はそこまででもないからな。主に誤って身に余る魔獣と契約してしまった時などに使っている」
親しい友人や家族などの普通に生活していればできる縁は切ることができない。しかし、会ったこともない赤い糸の運命の人くらいなら切れる可能性がある、という程度のものだ。
先生は、あえてわたしの経験に沿った例を挙げる。なるほど、それならば意図して人同士を離すことは難しいのだろう。ただ、だからと言って放置していい理由にはならなそうである。
「今話を聞いて、そういえばお前は『縁』が見えていたんだと思ってな。思いつきで聞いてみただけだ。気にするな」
「ああ、なるほど」
「どうせ学園長あたりがどこかに置きっぱなしにでもしたんだろう。全く……」
先生がまた、ぎゅっと眉を下げて嫌そうに呟いた。折角男前な顔をしているのに、見るたびに彼は不機嫌な顔か、困った顔しかしていない。
苦労人なのだな、と思って、今度魔法薬の一件のお礼にお菓子でも持ってこようかと思いついた。先生は、どんな味が好きなのだろうか。
▽
鼠がちゅうと、小さく声をあげた。オンボロ寮の誰も使っていない一室、その隅に三匹揃って並んでいる。
ひょいと南瓜の皮の部分を細かくして差し出してやれば、彼らは喜んでそれに飛びついた。鼠たちの住処、そこにはぎらりと鈍く銀に光る刃と、独特の飾りのついた持ち手が、レースのカーテンに透けて垣間見える。
『ああ、そろそろそれをお返ししなければなりませんねえ。我輩としたことが、すっかり失念しておりました』
またお願いしても?
小さな友人たちにそう尋ねれば、夢中でオレンジ色の野菜を貪っていた彼らは元気よく一声鳴く。一つ欠片を与えれば、彼らは従順なハロウィーンの王のしもべだった。
一年ほど前。積年の思いが報われたあの日、その小指に伸びる赤い糸を見た。鮮やかな赤は煤けた色の寮の中ではよく映え、彼女の白い肌に結ばれる蝶々結びは酷く愛らしく。
生きている者はそうそう気付くことのない縁の繋がりに、どうしても目が離せなかった。ただ一つ気に入らなかったのは、その糸は決して死者に繋がることがないことである。
己の肖像の裏の紐には、色褪せて彩度を失った赤がある。
霊体の小指に手袋を透けてかかる紐も同じような色で、その先は擦り切れて撚った繊維がぼろぼろと崩れてきていた。到底、なまえさんの鮮やかな赤には繋がりようもない。
しかしながら、今この時目を落として見える赤い糸には、色のずれた歪な蝶々結びがあった。
『やはり、我輩の糸は劣化が激しいですね。ほつれて結び目がほどけてしまわなければいいのですが』
きゅっとつくられた結び目、恐らくは糸が先で枝分かれしてぼろぼろになっていっても、硬く玉を作っているそこで朱と臙脂は繋ぎ止められるはずである。
施した運命は自然にほどけることはない、と確信を抱きつつも、少しは不安に思ってしまうのが己の性で。軟い力でひっそりと糸に触れると、鮮やかな方が怯えたように震えるのは死者の霊気の仕業だろうか。
ナイトレイブンカレッジの魔法道具の保管庫は、最奥の貴重なものを入れた一角以外はそこまでセキュリティが厳しくない。
特に、縁切り鋏のような使用頻度がそこそこに高く、力もそこまで強くないものに関しては、ドアに鍵こそあるものの道具自体に防犯、あるいは追跡する魔法はかけられていなかった。
通気口から入り込める鼠からしたら、鍵などあってないようなもの。この寮から出ることが叶わない身体でも、なにか食べ物でも与えてやれば彼らを使って簡単に鋏を借りることができた。
鼠たちは、次の仕事を与えられるのを待っている。見上げる赤い目に応えるように、そっとカーテンを退けて件の鋏を手に取った。なんでも鮮明に映しそうなほど丁寧に磨かれた表面に、己の微笑みが見えることはない。
『この袋に入れて持っていってくださいませ。ああ、なにかお礼の品も。そうですねえ、ヤモリの尻尾を十三本ほどでいいでしょうか。授業でも使いますしね』
この鋏を手に取ったあの日は、清々しい晴れた夜だった。ベッドの中で眠る愛しい人が、まるで図ったかのように布団の隙間から左手だけを覗かせていたのを、よく覚えている。
小さな怪盗たちが届けてくれたそれで、肌に触れないように注意を払って刃を入れれば、驚くほど簡単にはらりと糸の先が落ちた。
指先で受け止めた片方と自分のそれを片手で結ぶのは少々骨が折れたが、歪でも繋がりさえすればそれで良い。自分が動くたび、彼女が動くたびに揺れる糸、これさえあればなまえさんがどこにいても見つけ出すことができる。
『では、こちらを。どうぞお気をつけて』
物を詰めた麻袋を軋む床に置く。彼らは開け口を閉めた縄をその口に咥えて、音も立てず足元を文字通りすり抜けていった。建物の隙間に入り込み姿が見えなくなったさまは、ゴーストの身体が消えていくようになめらかである。
糸を結び直してから数ヶ月が経ち、まもなくなまえさんが自身の赤い糸を認識するようになった。これこそまさに運命、と言わざる得ない。
世界は我輩と彼女が縁を結ぶことを肯定している。色の違う結び目について言及されたら、と思い言い訳もいくつか用意してはいたが、こちらの方まで糸が見えなかったことで心配は杞憂に終わった。
なまえさんの中で我輩は完璧に運命のゴースト。事実として、彼女をこの世、あの世の誰よりも愛しているのだから、そう認識されてもなにも問題はない。
ハロウィーンの王の前にしては、一般的な生者の倫理も道徳も大して意味をなさなかった。愛しいあの人が誰と結ばれるのか最も幸福かなど、死者でさえ分からない。
当人が運命だと思いさえすれば、例え作為的なものであっても運命。あったかもしれない生者同時の健全な関係への罪悪感など、身体を手放した際に共に置いてきてしまった。
がちゃん、と下の方でドアの開く音がする。振動と同時に揺れた糸に、彼女が戻ってきたことを知った。
壁を通り抜けて、もはや定位置となった肖像画に入り込めば、姿見に幸せに笑う絵の中の自分が映る。
「ただいま、スカリーくん」
『おかえりなさいませ、愛しい貴女。今日はどんな日でしたか?』