旅行用の大きな鞄にさえ、荷物は全て入り切らなかった。
手放せないもの、思い出深いものを入れすぎたのかもしれない。ぎゅう、と体重をかけて溢れる物を詰め込むと、ぎりぎりチャックが閉まりそうなところまで圧縮された。
押し付けた片腕に、無理やり入れた本の角が刺さって痛む。そのまま、空いた片手でなんとかぱっかりと開いた口を閉じた。
「疲れた……」
思いの外重しの乗るような疲労が襲って、膨れ上がった鞄にもたれかかる。荷造りをするだけでこんなにも苦労するとは。
こんなことで一息ついているようでは、これからの生活はどうなるのだろう。思い浮かぶ言葉はどれも不安を煽るものばかりなのに、不思議と怖くはなかった。
「……やっとだ」
やっと、準備が整った。
息苦しいこの部屋から、屋敷から抜け出す時が、もう目前に迫っている。
彼らと同じ高貴な血は、この身体に一滴たりとも流れてはいなくて。だからこそわたしはいつだってここでは異物でしかなかった。
窓の外では、相も変わらず吹雪が視界を遮っている。
今夜、わたしはリンクスリーを辞める。
▽
「あ」
「……お兄さま」
その日の朝は、普段より少しだけ遅く始まった。
支度を終えて部屋を出ると、珍しくお兄さま、正確に言えば二人いるうちの下の方の兄であるパウバート兄さまと鉢合わせる。ぱちくりとこちらを見る彼は頭部に少しだけ跳ねた毛を携えてわたしを見つめていた。
「おはよう」
「おは………」
彼は返事をしかけて、途中でぴたりと口を閉じる。気まずそうに目が逸らされるのと同時に、控えめに咳払いが小さく聞こえた。ちくりと胸が痛む。
こういう対応をされるようになってからどれほどの年月が経っただろう。とっくに慣れたと思っていたのに、彼からの拒絶となると毎回言い表せない寂しさが込み上げてきてしまう。
昔はこうじゃなかったのに。ふと頭に過った。今更考えてもしかたのないことだと分かっていても、過去が頭について離れない。
「ええと……今日は父さんが仕事の話するって言ってたから食事に出ないと。なまえもだよ」
「……うん、分かってる」
「あ…そ、そう。じゃあ、せいぜい遅れないようにね」
お兄さまはそう言って、逃げるようにその場を離れた。丸まった背中が見えなくなるまで、ぼうっと廊下に立ち尽くす。きっとお兄さまはわたしと一緒にダイニングには行きたくないだろうから。
隣の部屋なのにすっかり会わなくなったのは、単純に生活リズムが合わないからなのか、敢えて会わないような時間帯を彼が選んでいるからなのかはわからない。
わからないけれど、唯一確かなのは昔のように手を繋いで歩いてくれる彼はもういないということだ。たわいもない話をしたり、抱きしめてもらったり、くっついて本を読んでもらうことももうあり得ない。
彼も、紛れもなくリンクスリーの血縁であるということだろう。とっくに理解しているのに、ずっと優しいお兄さまの面影を探して、そのあたたかさを切望してしまう自分が、酷く鬱陶しかった。
▽
わたしは養子として迎え入れられた子供である。
といっても、引き取られた当時の記憶はわたしには無い。それほどまでに幼い頃からこの家で暮らしていて、ここに来る以前のことは何一つとして覚えていなかった。
我が家の家業や取り巻く環境を考えると、恐らくは闇オークションかなにかで落札したのだろう。
詳しくは知らないが、どうやらわたしの種族は数が少ない希少種らしい。進化の過程としてもオオヤマネコともそこまで遠くない位置に属していて子を成しやすいことを考えると、いずれは希少種の血を交えて子孫を残すつもりだったのかもしれない。
そんな経緯で「リンクスリー」の姓を貰ったわたしであったが、お父さまの思惑は見事に空回りしたようであった。要因はただひとつ、わたしが何事においても不出来であったことである。
「この前のような失態は許されないぞ」
ぎろりと睨まれ、動かしていたナイフとフォークがぴたりと止まる。はい、と手短に返事をすれば、お父さまは黙って食事を再開した。お姉さまと、上の方の兄であるキャトリック兄さまがくすくすと笑う。
この前の失態というのは、取引先の相手に下手に出てしまったことである。あの時は相手方からわたしの姿が見たいとの要望で出席した食事会だった。
このような場では相手を不快にさせず、かつ己の立場も誇示しながら話を進めなければならない。
わたしはそもそも取引先との会合についていくことが少なく、身の振り方に慣れていなかった。あの時はひどく怒られて、数日部屋から出るのが恐ろしくてたまらなかったことを覚えている。
「相手の興味を引けるのはいいけど、対応があれじゃあ、ね」
キャトリック兄さまはそう言ってにんまりと口角を上げた。お姉さまが釣られてさらに笑みを深める。
時に、希少種は物珍しさに交流の場を生み出すことがあり、それ故にわたしはこの家にいることを許されている。逆に言えば、それ以外は利用価値がないということだ。むしろ、不出来であるという意味では害とも言えるかもしれない。
「あはは、あの時の父さんの怒りよう、すごかったもんね」
上擦った声が響く。パウバート兄さまはわたしの方を見ず、その時の光景を思い出して耐えきれないというように笑った。その表情を見ていたくなくて、手元に目を落とす。
目の前の皿に乗っているのは最高級の食材ばかりのはずなのに、大して味がしなくて半分も減っていなかった。
「……パウバート、お前もだ。良い加減相手に媚び諂うのを辞めろ」
「あ……う、うん、分かってるよ。ごめん」
食事の時間が苦手だ。自分がいらない存在なのだと確認させられるから。お父さまの視線が恐ろしいから。お兄さまとお姉さまとの違いをまざまざと感じるから。
そしてなにより、パウバート兄さまが愛すことのできる妹になれなかったことを突きつけられるから。
他の三人は皆、最初からわたしとは距離があったけれど、お兄さまはそうじゃなかったのだ。お前は途中で見放されたのだと、ナイフに映る己が囁く。
ああ、しかしながらそう責め立てるのも今日で最後なのだ。銀食器の自分を睨めば幾分か気が晴れたような感じがする。
そんなわたしを、お兄さまはぼんやりと見つめていた。
▽
新しく買った最低限の服と、自分で稼いだお金。スマホは置いていくからいらなくて、偽造パスポートはボディバックに入っている。
「よし…」
時刻は深夜三時を回ったところ。今日は朝に集まりもあったし、さすがに皆ベッドに入った頃だろう。
生活必需品と捨てられなかったものたちが入った、重たくて大きい鞄を持ち上げる。重心が崩れて一瞬バランスを崩したけれど、気を取り直して背負い直せば問題なく歩くことができそうだった。
今日、わたしはこの家を出る。
全く別の誰かになって、リンクスリーとは関係のない者として生きていくのだ。出来損ないだと笑われるのも、じくじくと痛む心臓を抑えるのももうおしまい。
ズートピアを出て、例えば暑い地域の田舎なんかに行けば見つかることはまずないだろう。そもそも、彼らがわたしを探しに来るかも分からない。
鉢合わせない場所にさえ行けば、自由が手に入れられるはず。そういう算段だった。
「……」
そっと、部屋を出る。荷物が多いから壁にぶつけて音を鳴らさないように注意しなくてはならなかった。
そろり、そろりと歩けば、外の吹雪の音と上質な絨毯のおかげで足音も聞かれることなく外に出ることができる。
見慣れた廊下を進む。ここを歩くのも最後かと思うと、名残惜しいような気持ちもあるような気がした。しかし、ここで止まるわけにはいかない。
数々の肖像画、アンティークの時計にうっすらと灯る間接照明。そのうちに見えてくるのは玄関である。
外に繋がるドアの前に立つと、扉が随分と大きく感じられた。これを開けたら、もう二度と戻ることはない。
「…さよなら」
小さく、せめてもの礼儀として呟く。どんな扱いであれ、ここまで育ててくれたのはこの家だった。そして、冷たいドアノブに手をかける。
▽
「いってきます、だろ?」
「……っ!」
ぐっと、首根っこが掴まれる感覚。持っていた鞄は衝撃で玄関の隅に飛んで行った。耳元で囁かれる声は聞き慣れた柔らかい声、しかし記憶よりも音が低い。
「おにいさ、ま」
「こんな夜中にどこに行くのかな。危ないよ。なまえは僕たちと違って寒さにも強くないのに、あんな大きな荷物も持ってさ」
「な、なんでここに」
「……きみって隠すの下手だよね。父さんが落胆するのも分かるよ。僕にもバレバレだったもの」
気付かれていた。一体いつから?お兄さま以外も知ってきたのだろうか。暗い玄関で、ちかちかとか細く光る照明が目に痛い。
お兄さまの表情は、首を掴まれて体が動かせない状態であるせいで見ることができなかった。どくどくと嫌な音が身体中に響いている。
「父さんは気付いてたと思うよ。兄さんと姉さんは……分からないけど。二人はなまえに興味がないからね」
はっと嘲るような笑い声が響いた。お兄さまは子猫を下ろすようにわたしを玄関の絨毯の上に落として、そのまま体重をかけて首に手を回す。
彼の手は大きいから、わたしの首など簡単に覆い隠してしまえた。お兄さまはまだその手に力は込めない。生まれて初めて、彼を恐ろしいと感じる。
苦しくはない。だけれども、この家で生きてきたわたしはこの行為が「いつでも首を締めることができる」という脅しであることを知っていた。
「でも、父さんたちは放っておいてた。きみがいなくなっても別に良いみたいだ……残念だね」
残念でも、なんでもない。放置してくれるのであればそれほど都合のいいことはなかった。
床に押さえつけられて、必死に逃れようと足や腕に力を入れても到底抜け出せそうにない。あと少しなのに。どうにか抜け出してあの扉にさえ手をかければ、そして逃げ切れば。
ちらりと彼の後ろの玄関を見ると、その視線に気づいたお兄さまがわたしの目を塞いだ。久しぶりにお兄さまの柔らかい毛に触れる。懐かしい匂いがした。
「は、離して」
「どうして?」
「家を出るから。邪魔者がいなくなるし、お父さまたちも追う気がないなら別にいいでしょう。リンクスリーに不利益は無い!」
そう、そのはず。だからこそ、逃げ切れると思っていた。だって本気でリンクスリーに追われたら、絶対に撒くことなんでできっこないのだから。
「……そうだね、その通りだ。でも、僕は違う」
「…え?」
お兄さまは静かに呟く。はたと首に触れる手が随分と冷たいことに気がついて、いつからわたしが出ていくのを待っていたのだろうと驚いた。
一体どこにいたのか。部屋の中で待っていたのだったらそこまで大変でもないけれど、そういえば廊下で他の部屋のドアが開く音はしていなかったことを思い出す。そこまでして、なぜわたしなんかを引き留めるのか。
馬乗りにされているせいで、お腹の辺りに大きな重さがかかっている。昔彼にじゃれついたときお仕置きと笑いながら同じ体制になったときには、ここまでの重さはなかったのに。
成長したからか、抑えられると一瞬たりとも動かすことができない。
お兄さまは、わたしがもう動けないことがようやく分かって安心したようだった。先程よりも少しばかり柔らかい目元が、彼の手の隙間から垣間見える。ちらりと見えた眼光は変わらず鋭く、お父さまの顔が目に浮かんだ。
「きみがいなくなったら、僕の居場所はどうなる?」
「居場所?」
意味が分からず、思わず聞き返す。どことなく震えているように聞こえる声で、彼は続けた。
「一族の出来損ないがこの家で息をするには、なまえみたいなもっとひどい除け者が必要なんだ。なまえがいるときだけ、僕は『リンクスリーの血が流れる者』として皆の仲間になれる」
「は、」
「はは、軽蔑した?僕のこと、嫌いになったかな……もうとっくに好きじゃないか」
そんなことない。咄嗟に思い浮かんだのはその言葉で、自分で自分を疑う。
あんなに辛い思いをしたのに、あんなに胸を痛めたのに、まさに今もこんなに酷い役割を押し付けられているのに、まだわたしはこのひとを愛しているのだろうか。
いつのまにか目にかかっていた手は頬に落ちて、お兄さまの顔が見えるようになる。彼の表情は今にも泣き出してしまいそうだった。
「お願いだ、行かないで」
「お兄さま、」
「なまえがここにいてくれるならなんだってする。父さんたちがいないところだったら、抱きしめたり本を読んだり、一緒に布団に入ったって良い。きみが望むならね」
わたしの返事を待たずに、お兄さまは矢継ぎ早に言葉を続ける。鼻と鼻が控えめに当たって、肩がびくりと揺れたのが見えた。
「……そんな」
彼は正しく「リンクスリー」であるためにわたしを遠ざけていた。
わたしが嫌いなんじゃない、わたしが出来損ないだから離れたんじゃない。だって、わたしが昔彼にせがんだものたちを、今もはっきりと覚えている。
ドアの向こう側で、風が大きく唸った。吹雪はさらに激しく勢いを増しているようで、オオヤマネコとは違うわたしの身体ではこれから外に出るのは難しいかもしれない。
わたしはもうとっくに、彼の下から逃げ出すことを手放そうとしていた。
「僕にはなまえが必要なんだ」
一番、欲しかった言葉だ。
お兄さまの話すことは、随分と身勝手で、利己的で、わたしのことなど考えていないのは明白である。しかしながら、わたしはそんな不健全な肯定を喉から手が出るほど欲していた。欲していたのだと、今気がついた。
くたりと、体を絨毯に投げ出す。息をつくと、部屋を出てからずっと緊張していたことが分かった。急に無抵抗になったわたしに、お兄さまが驚いて小さく声を漏らすのが聞こえる。
どきどきと、心のうちを溢すことに脳が揺れていた。この選択は間違っているような気がして止まないが、目の前に吊るされた餌を前に衝動はどうにもできなかった。
わたしはずっと、彼に愛して欲しかったのだ。
「……一緒に、寝て欲しい」
「……!も、勿論。何回でも部屋に来ればいいよ」
「……ぎゅう、して」
「え、ま、マジで…?って、あれ、泣いて……」
喉が震える。少しだけ漏れた涙が頬を濡らした。添えてくれているお兄さまの手も濡れてしまう。
離れようと身を捩ると、弱まっていた抑える力がまた強くなった。今度は、お兄さまの腕がわたしの背中に回っている。ふわふわの頬の毛が、わたしの涙で湿っていく。
「ごめんね、愛してるよ」
その言葉は、寒い玄関に静かに響いた。抱きしめられる温もりは寒さを和らげるのに丁度良くて。
きっと、わたしはもう二度とこのドアに手をかけることはないのだと悟った。
▽
初めて会った時、まるで天使のような子だと思った。
「……ふ、なにこの偽名。ださ…」
先程、なまえのボディバックから掠め取った偽造パスポートを眺める。証明写真に写る妹はぎこちない笑顔で、見たことのない服を着ていた。恐らく、あの身体に対して負担が大きすぎる鞄の中に同じものが入っているのだろう。
一体こんなもの、どのルートから手に入れたのか。多分彼女は父さんたちが思うほど馬鹿でもなくて、ただ情に弱く優しいだけなのだ。まあ、それこそがリンクスリーとしては致命的なのだけれども。
隣でゆったりと息をして眠る彼女に目をやる。僕とは違う毛の色、目の色。それだけで僕よりも下に位置付けられてしまうのだから、なんて不憫なんだろう。
顔をよく見ると泣いた後で目の下の皮膚が乾燥していた。もしかしたら、明日は目が腫れているかもしれない。
「……まだ、一緒に寝てくれるんだ」
あんなに邪険にしていたのに。己のためになまえを蔑ろにした自覚はあった。さすがに、ここまでお人好しだと兄として心配になる。
どの口が言うんだ、と怒られるだろうか。でもこの子は、そんなことではなにも言わないような気がした。
なまえは、いつも僕を愛してくれていた。なにもしてあげられなくても、無条件に「お兄さま」を慕って、よくくっついて来た。
それかどうにも可愛らしくて、もっと好きだと言って欲しくて、色々手を尽くしたことは今でも鮮明に思い出せる。怖がっていたのか、兄さんや姉さんには近寄らなかったのも優越感に浸る要因になった。僕だけを見てくれているのだと。
見る限り、本当は二人もなまえと関わりたいと思っていたはずだった。
あの日突如として現れた義理の妹は、僕にとって愛を運んでくれた天使だったのだ。
そして、リンクスリーであることを優先したその先の僕にとっても、家族の仲間である承認を与えてくれる彼女の存在は同じく天使のようなものだった。
「……」
まさか、こんなに簡単に留まってくれるとは思っていなかった。
もっと色々な脅しが必要かも、とか、偽造パスポートは早々に取り上げた方がいい、とか。色々考えたプランの大多数は日の目を見ることなく収まった。
なぜこんなにすんなりと従ったのか理解できないけれど、今目の前にある現実だけで僕には十分である。あとは、また同じことが起こらないように注意するだけだ。
▽
天使の風切羽は、もうとっくの昔に切られていた。吹雪の中で、飛べない彼女は分け与えられる温もりに縋るしかない。
鋭い爪で羽を切り取ったオオヤマネコは、天使を自分の腕の中に閉じ込めて、安心して目を閉じた。