トントン、と控えめに鳴らされるノックの音。ほとんど毎夜、必ず二十二時過ぎに聞こえてくるそれは、今夜も例に漏れずにやってきた。
「……今日も来たの?」
ふ、と思わず笑いが漏れる。ドアを開ければ俯く妹の姿、ちらりと見える瞳は迷いに揺れていた。
もう一ヶ月もこの生活リズムで時間を共に過ごしているのに、まだ昔のようにはいかないらしい。
なまえが家を出ようとしたあの日、引き留めるために提案した条件。その中のひとつである「一緒に寝る」を、彼女は意外にもずっと続けている。
こんなもので抑止になんてならないと踏んで、ダメ元で口にした一言であったのに、なまえにとっては随分と魅力的に映ったようだった。
「ご、ごめんなさい、嫌なら……」
しかしながら今のなまえを見ると、求める割にはどうしても不安が勝るのだろうと推測できる。
僕が打ち捨てた信頼とは随分大きなものだったんだな、なんて他人事のように思った。空いた距離は一見埋まったように見えて、実際はそこまででもないのである。
「ああ、待って。冗談だよ。ほら、誰かに見られる前に入って」
「…う、うん」
断りの言葉に怯えたように縮こまる彼女を見ると、ますます気分が良くなるような感覚があった。すぐに隣の部屋に戻ってしまいそうな勢いであったので慌てて制止して、自室に招き入れる。
なまえは言われるがままに足を踏み入れて、すれ違いざまに見た顔はほっとしているようだった。なんて分かりやすいんだろう。こんなことでは、悪い奴にすぐに騙されてしまう。
僕の些細な一言でここまで表情を変えるのはこの子くらいのものだった。
それほどまでに彼女にとって僕の影響力は大きく、だからこそ「リンクスリーの末っ子」は未だ健在なのである。
「映画でも観る?えっと、前言ってたやつとか。最近配信されてたんだ」
「え、そうなんだ。……よく覚えてたね」
「覚えてるに決まってる。きみのことなんだから」
だってそういうのが嬉しいんだろう?心の中で、冷めた自分がそう呟いた。
夜を共に過ごして少し優しくしてやれば、僕はこの家の最底辺の仲間外れからは逃れられる。こんなに簡単で美味しい話はそうそうない。
僕の妹が単純でかわいい子猫で良かったと、心から嬉しく思う。
「……そ、そっか」
ふい、となまえが僕から目を逸らした。少しだけ、気まずそうに笑う口元が目に入る。
ああ、今のはちょっとやりすぎたか。確かにこれまで突き放していた妹に対する態度としては、距離が近すぎたのかもしれない。気をつけないと。
▽
お兄さまの目覚まし時計の音はすごく大きい。これは、一ヶ月前久しぶりに彼のベットで寝た時に知ったことだ。
理由は簡単、「それくらいじゃないと起きられないから」。
聞けば当たり前のようにすぐに返ってきた答えに、思わず笑いそうになったのを堪えたのは記憶に新しい。
日々寝起きに彼を観察していれば、その騒音にも負けずに布団を被って唸りながら睡眠に戻ろうとするさまが見られた。その図太さには目を見張るものがある。
「お兄さま、朝だよ」
「ん……?眠い……」
ぐ、と眉間に皺が寄っている。昨日は映画に付き合ってくれて、少し夜更かしをしてしまったから余計辛いのだろう。
お兄さまの代わりに目覚ましを止めてあげると、先程よりも幾分か表情の険しさが和らいだ。
「今、何時…?」
「7時過ぎくらい」
「はあ?マジか………起きなきゃ……」
寝起きのお兄さまが好きだ。一番無防備で、一番わたしに取り繕わない瞬間だから。
あの日から彼は、わたしという妹を手放さないためにありとあらゆる手を尽くして最大限優しくあろうと努めているようであった。それはもう不自然なほどに。
望んだのはわたしであったはずなのに、いざ実際に体験すると全然落ち着かなくて、無理しなくても良いのに、と勝手ながら思ってしまっている。
そんなに気を遣わなくても、「必要だ」と縋られてしまうだけでわたしはここから動けない。
そのことをお兄さまはよく分かっていないようであった。
「んん…」
くわ、と大きく口を開けて、彼があくびをする。その瞬間に顔を出す牙は恐ろしいほど鋭く見えた。
わたしの持つそれは、彼のものほど切れ味が良くない。
わたしがじっと見ていることに気がついて、お兄さまが眠たげな瞳をこちらに向けた。
とろんとした目と、愛想笑いのない無表情。今の彼の「素」はこれなのだろうと、毎朝思い知らされる。
頭が回っていないのか、暫く無言で見つめ合う状態が続いた。よく見ると、頭のてっぺんがちょこんと跳ねている。
「寝癖、ついてる」
思わず、手が伸びた。少し動けばすぐに届く距離、しかし長い間その間を詰めることはなかったのだと、触れてから気がつく。
久しぶりに指先に触れた柔らかな毛先は、わたしの肉球には馴染まずに血の巡りを速くさせた。
やってしまった、と思った瞬間に、お兄さまの目が丸く見開かれるのが視界に入る。
「え」
「ご、ごめんなさい!つい、その、」
自然体の彼に釣られて、気が緩んでしまった。慌てて手を離すと、幼い頃と違いのない温度はすぐに消えて無くなっていく。
今までは、敢えて自分からは触れないようにしていた。彼は自分の立場のためにわたしを引き留めたのであって、わたし自身を求めているわけではないからだ。
余計なことをして、今度こそ心の底から嫌われてしまうのは嫌だった。妹でいることを許されなくなるのが、怖かった。だから、気をつけていたのに。
「……」
彼は黙ったままである。どきどきと冷えた音を鳴らす心臓を抑えてお兄さま、と呼びかけると、はっと気がついたように体が揺れた。
こちらを映す目には、もう眠気は見られない。
「ご、ごめんごめん、びっくりしちゃって……ありがとう」
困ったように、へらりと笑う。また気を遣われてしまった。なかなか、お兄さまにとって良い妹にはなれない。
彼は、誤魔化すように大きく咳払いをした。寝起きにも関わらずぴんと立った耳は緊張の証、思考を巡らせている裏付けである。
こういうことばかり気がついてしまう、長年の蓄積が嫌になる。
「ええっと……なまえは今日は出かけるって言ってたよね?」
「う、うん。お父さまについていかないといけなくて」
「そう。気をつけて」
その言葉には「今朝の分はもうおしまい」の合図が込められているような気がした。上体を起こした彼に合わせて、わたしも布団から出る。
暖かかったベッドの中とは対照的に、足に触れたフローリングは氷のように冷たかった。
▽
夕食を食べて、自室に戻る。今日は何もない日だったからやっている途中のゲームをクリアしてしまおうかと思ったのに、全然集中できなくて大して進まなかった。
あれもこれも、全て今朝の妹のせいである。
部屋に備え付けられている鏡に、自分の姿を映す。そこに映る自分の頭はきれいに整えられていて、乱れ一つ見当たらなかった。
大抵は使用人に指摘されて直しているのだけれど、今日ばかりはそうではない。
「久しぶりに、触られた……」
僕のものよりも、二回りほど小さな手。柔らかくて暖かなそれが、あちらから意思を持って触れたのは何年振りだっただろう。
前までは僕が寝癖を直す側だったのに、「仕方ないなあ」なんて思っていそうな穏やかな顔で見下ろされるとなまえが昔とは変わったことがよく分かった。それに、僕が変わっていないことも。
「……あー…困るな」
家族の除け者である妹に触れられても、鬱陶しいだなんて到底思えなかった。
「パウバート・リンクスリー」は、不出来な妹に対してなんの感情も抱かず、ただ利用できる存在として扱うべきだ。
それなのに、優しく手を伸ばされて、無防備に近付かれて、こんなにも舞い上がってしまうだなんて。
まるで、己がリンクスリーに相応しくないと言われているようであった。父さんの顔が浮かぶ。
夜は苦手だ。嫌な思考がぐるぐると回るから。
ずっと一人でベッドに潜って眠れない夜を過ごすのは辛かった。
この感覚は丁度一ヵ月ぶりくらいで、今までなかった分じくじくと更に胸が痛む。
「……あ」
そう、一ヵ月ぶり。なぜなら、その頃からなまえが部屋に来るようになったから。
反射的に時計を見る。現在時刻は二十二時半。
いつもならとっくにノックの音が鳴って、申し訳なさそうな顔をした妹がそろりと部屋に入る頃である。なのに、今日は。
「……どうしたんだろう」
もしかして、具合が悪いとか。あるいは今朝のやり取りで来るのが億劫になっているのだろうか。
ベットから立ち上がって、うろうろと部屋を歩く。落ち着かない。隣の部屋からは、なんの音もしない。
来ないのならそれでいい。そう思っているはずだった。僕は彼女が家に留まるだけで十分なのに、足は自然とドアの前に止まっている。
廊下に出て、隣をノックすれば全てが明らかになってすっきりする。数歩出るだけ。
優しい兄としては、普段と違う妹を気にするのは自然なこと。
「……ちょっと確認するだけだ」
そう自分に言い聞かせて、ドアを開ける。廊下に溢れた部屋の光は、やけに目に痛く感じた。
▽
隣の部屋には、誰もいなかった。
「……なんで」
ノックをしても一向に聞こえない返事。痺れを切らして入るよ、と声をかけてドアノブに目を向けた時、足元に見える隙間から部屋の中の電気は漏れ出ていなかった。
ドアを開ければ真っ暗な部屋、いくら探してももぬけの殻である。
まさか、また逃げたのだろうか。今朝のあれは僕を油断させるための演技で、本当は気を許したわけではなかったのかも。
「……でも、あれが演技なんてことありえる…?」
柔らかく微笑む表情、その後に焦って落ち込むさまを思い出す。
僕に縋られただけで着々と準備していたものを全て手放してしまう人の良い彼女が、あれほど小器用に演技をするとは考えにくい。
さらに言えば、なまえがしてくれたことが全て嘘だなんて思いたくない、なんて感じてしまっている自分もいて。
『おかけになった電話番号は…』
スマホからアナウンスが鳴る。繋がらない。
いらいらしながら通話を終了すると、スマホに爪が当たってかちりと音を立てた。
静かな廊下では小さな音もよく響く。しかしながらそれも気にせず、僕はどんどんと足を進めていた。
廊下は暗いけれど、オオヤマネコの目には大した問題ではない。早足で、思い当たる場所を探す。
帰りが遅くなって今シャワーを浴びているのかも。父さんとまだなにか話しているのかも。確認すれど、彼女の尻尾の端さえ見えることはない。
忙しなく屋敷を歩き回っていると、一点明かりが灯る部屋があった。使用人控え室である。
彼らは交代制で夜までうちに勤務していて、いつも誰かしらはその部屋に待機していた。
使用人ならば、なまえの所在を知っているかもしれない。
軽くノックをして、迷いなくドアを開けた。中には見覚えのある顔が一人いるのみである。
彼は急に入って来た僕を見て驚いていた。「どうかされましたか、パウバート様」と、ゆったりと問いかけられる。
「ねえ、なまえ知らない?用事があったんだけど、部屋にいないんだ」
極めて、ここは冷静に。あくまでも仕方なく探しているふうを装う。
彼は疑う素振りも見せず、ごく普通に言葉を返した。
「なまえ様ですか?今朝は旦那様と出かけてらっしゃいましたが。そういえば、お帰りになられたところを見ていないかもしれません」
「……あー、父さんと帰って来たんじゃ…?」
「旦那様はお一人で戻られたのです。詳しい事情は存じ上げませんが、なにか予定があって分かれたのかと」
まだ帰って来てない。父さんと一緒じゃないとは想定外だった。予定があったとして、なぜこんなに遅くまで?
なまえは外部の知り合いが極端に少ない。夜が更けるまで遊び回る必要はない筈だった。
なにか、あったんじゃ。心臓が冷えていく心地がする。今日の取引先、どこだっけ。
「……」
記憶が確かなら、彼らが出向いたのはIT系の大企業だったような気がする。
都心に女の子一人で迷子。なにがあってもおかしくない。
なぜそんなに焦っているのかと、俯瞰して見ているもう一人の自分がいた。
「パウバート様?」
心配そうに、声をかけられる。しまった、黙り込むのは不自然だった。
慌てて声を作って、お礼を伝える。
「分かった、ありがとう。じゃあもう少し待ってみるよ」
「左様ですか。夜も遅いですし、無理なさらずに」
全くもって思ってもいないことを、するりと口に出した。控え室から素早く退出する。
恐らく怪しまれてはいない、と思う。
「……迎えに行かないと」
咄嗟に思ったのはその一言であった。オートバイはあるし、サイドカーもついてるから連れて帰れる。
記憶が確かなら、会社はそう遠くない場所にあった。今からでもバイクならすぐに着くはずだ。
多分、冷静ではなかった。
部屋に戻ってバイクの鍵を掴んで、そこらにかけてあったマフラーを取る。僕らと違ってあの子は寒がりだから。
それに、服もどうにかしなければとクローゼットを漁る。
寝巻きで出るのはまずいけど、着替えるのも煩わしくて上からいつものニットを被った。かなり不格好だったが、外は暗いしバレないだろう。
あらかたの準備が整ったら、忘れ物の確認もせずに部屋を飛び出す。
色々考えながら動いていると、いつのまにか玄関までたどり着いていた。
まだ家の中のはずなのに、すでに吐く息は白くなっている。勢いのままに外に出ると、びゅう、と冷たい風が吹いた。
と、同時に、風の音の隙間に聞き慣れた声がする。
「あれ、お兄さまどこ行くの?」
その瞬間、丸い瞳と目が合った。
▽
家に帰ると、丁度お兄さまが玄関を出たところだった。
お兄さまは鉢合わせたわたしを見て、信じられないものを見たような顔で大きく目を見開いていた。
よく見ると片手にマフラーを持っている。
彼にはいらないと思うのだけれど、ここよりも寒いところに行くつもりなのだろうか。
ツンドラタウンよりも気温の低い場所だなんて思いつかなくて首を捻る。その間お兄さまは黙ったままだった。
「あの……お兄さま?」
呼びかけると、我に返ったように肩が上がった。なにか言いたそうに口を開けて、閉めて、でも声は出ていない。
なにをそんなに焦っているのかとぽかんとしてしまう。
「……ど、」
「ど?」
「どこ行ってたんだよ…!」
「えっ」
絞り出すような声。それと同時にぐっと肩を掴まれる。
体幹を崩されたせいで彼の方へ倒れ込むと、そのまま肩にあった手が首の後ろに回された。
彼のニットが頬に擦れる。丁度抱きしめるような体制になっていたけれど、ハグと呼ぶにはあまりに早急で粗雑だった。
どこに行っていたのか。
いきなりのことに、答えるのを思わず忘れて黙ってしまっているとますます締める力が強くなる。このままでは苦しい、と危機感を覚えて慌てて口を開いた。
「どこって、その、お父さまと」
「それは知ってる。その後なにをしてこんな遅くになったのか聞いてるんだ」
「ええと、買い物してて、お腹すいたからご飯食べて、ちょっと道に迷って……」
「……」
お兄さまがまた黙り込む。分厚いコート越しだから気のせいかもしれないけれど、触れる大きな手が少しだけ震えているような気がした。
強い力で押さえ込まれているせいで、彼の顔は見えない。
玄関の目の前といえど外は寒かった。
わたしはなぜ彼がそんなに取り乱しているのか分からなくて、ただお兄さまの体温にすり寄ることしかできない。
「あのさ」
彼が口を開いた。責めるような声のトーン、明らかにお兄さまは怒っている。
「きみが部屋にいなくて、僕がどんな思いでいたか分かる?」
「……え、と」
「背筋が凍ったよ。寒くて寒くて仕方なかった。どこに行ったんだろうって、家中探し回ってさ」
いくら探しても、きみはいなかったけど。
そう話す彼の声はやはり震えていた。一ヶ月前の夜のようだ、と思った。
あの時も、お兄さまは泣きそうになりながらわたしに言葉をかけていて。
「あ、の」
「……なに?」
話を聞いて、先程まで検討もつかなかった彼の怒りの理由に心当たりがあることに気がつく。
今まで、ずっと言い出せなかった言葉だった。でも、彼が不安に思っているのはきっとこのことである。
苛立った様子で返事をしたお兄さまを安心させるように、わたしはゆっくりと口を開いた。
「そ、そんなに心配しなくても、もう逃げたりしないよ……?」
「………は?」
お兄さまが、わたしの言葉を聞いて低く声を漏らした。
わたしはといえば、ずっと明かすことのできなかった秘密を舌に乗せて、ばくばくと煩いくらい心臓が鳴っている。この震えはもしかしたら、寒さのせいかもしれないけれど。
言葉にするには抵抗があると、これまで二の足を踏んでいた。言ってしまえば、彼がまたわたしに無関心になってしまう気がして。
でも、お兄さまのこの有様を前にして、伝えない選択肢など取れない。
彼が苦しそうにしているのを見るのは、わたしにとって耐えがたいことだった。
少し口を開けば、案外簡単に伝えることができて驚く。
間も無く、「彼が無理していることが分かった時にきちんと伝えなければならなかったのに」と後悔の念が募った。そうしたら、こんなことにならずに、
「はあ!?ふざけないでくれるかな」
「……あ、え?」
急に大きな声がして思考が止まる。びくりと自分の身体が跳ねたのが分かった。
そんなわたしに構わず、彼は言葉を続ける。
「僕が言いたいのは、きみが危ない目に遭ってないかとか、怖い思いをしていないかとかそういうこと!なまえが僕から逃げないことなんてとっくに分かってる……っ」
がっと肩を押されて、体が離れた。珍しく声を荒げるお兄さまからは白い息が出て、ひんやりとした雪に声が吸収されていく。
言葉の意味が、うまく頭に入ってこない。
自分で叫んだというのに、彼は反響して聞こえる声に耳をピンと立てていた。目の瞳孔が少しだけ小さくなる。
それが目に入るのと同時に言われたことがだんだんと飲み込めてきて、どくりと脳に血が回る感覚があった。
つまりは、わたしがいなくなることじゃなくて、危険に晒されることに対して心配してくれている、ということ?
「……う」
かあ、と頬が熱くなっているような気がした。お兄さまの顔がまともに見れなくて、思わず目を逸らす。
お兄さまが、あんなふうに声を荒げてわたしを思ってくれた。
今までのわざとらしい甘やかさじゃなく、激情を伴って発されたものたちは濁流のような勢いを持ってわたしを揺さぶっている。本音、のように感じられた。
もしかすると、わたしの思い違いかもしれない。でも、それでもどうしようもなく嬉しかった。
こんな風に思ってしまっては心配してくれたお兄さまに失礼かと不安になるが、気持ちはうまく隠せそうにない。
逸らした目を戻してちらりと彼の方を確認すると、先程の剣幕とは打って変わって呆然としているように見えた。
目はどこか虚空を見つめて、忙しなく瞳が揺れる。どことなく動揺しているのではないかと感じた。
怒鳴り慣れてないからだろうか。おずおずと見上げて、声をかける。
「あの、大丈夫…?」
「……あー、大丈夫、大丈夫……今のは忘れてくれ」
こほん、と気を取り直すように。声をかけるとすぐにこちらに意識を戻した彼は、軽く頭を押さえつつ咳払いをした。
先程までの、混乱した様子はすぐに振り払われる。
彼の発言について詳しく追求したかったけれど、「忘れてくれ」の一言でその道は断たれた。
怒っているお兄さまに対して敢えてそれを話題に出すのも躊躇われて、大人しく口を閉じる。
彼は今度こそしっかりとこちらの目を見て、はっきりとした口調で話し出した。
「とにかく、女の子がこんな夜遅くまで一人で出歩くなんて普通ありえない。ましてやきみはリンクスリーなんだから、出掛ける時は御付きの一人くらいつけないと」
肩に置いた手はそのままに、小さい子に言い聞かせるみたいにお兄さまは言った。
わたしたちは昔の方がよっぽどきちんとした兄妹のようだったけれど、今の彼は昔よりもずっと「兄」らしく見える。
「ご、ごめんなさい。でも、お兄さまだって一人で家を出る時あるでしょ?たまにバイクで……」
「僕は良いんだよ。男だし、何かあっても自分でどうにか出来る。きみはそうじゃないだろ、現に迷子になってるんだから」
言い訳のように言葉を重ねると、被せるようにしてまた彼が大きな声をあげた。むっと眉間に寄った皺も深くなる。
彼の言うことはまさに正論であった。怒られているのに、今日は落ち着いてそれを受け入れることができる。
以前まではその顔を見るたびに「機嫌を損ねた」と怯えていたのに、不思議と今日は焦ることがなかった。
もしかしたら、お兄さまの本当のやさしい場所に触れて調子に乗っているのかもしれない。
「ごめんなさい」
「……何笑ってるんだよ。僕の話ちゃんと聞いてた?」
「き、きひてた。ごへんなさい」
大きい手に、頬が引っ張られる。嬉しさに、無意識に口角が上がってしまっているようだった。
頑張って口に力を入れようとするけれど、引っ張られているせいでうまくいかない。
寒さにひりひりとしていたせいで麻痺しているのか痛みはあまり感じなかった。
うまく喋れなくて間抜けな発音になってしまったのを聞いて、お兄さまが鼻で笑う。
彼の肉球がわたしの毛の下の皮膚に触れると、その血の巡りがとても熱く感じた。
向こうはきっと真逆に感じたのだろう、引っ張っていたのが離されると数度ぺたぺたと頬を触って、小さくため息をつかれる。
「…すごい冷えてる」
「べ、別に大丈夫だよ。慣れてるし」
「………ごめん。早く入ろう」
重苦しい玄関の扉を彼が開く。中はいつも外と変わらないくらい冷え切っているのに、そこでは白い息がかからないような気がした。
▽
怒りより何より、一番最初に「無事で良かった」と言葉が出そうになったのが、自分でも信じられなかった。
「シャワーは明日の朝でいいよね?もう今日は寝よう、疲れた」
妹の手を引いて自室に戻ったその瞬間、どっと疲れが身体にのし掛かる。
体の重みに任せてセーターも脱がずにベッドに倒れ込むと、手を繋いだままの彼女も体制を崩してシーツに膝をついた。
慌ててそこから降りようとするのを、手を引っ張って阻止する。
上流階級のマナーは僕ほどきちんと教育されていないくせに、変なところでなまえは行儀が良かった。
「だ、だめだよ。今日一日中外にいたし、汚い」
「一日くらい大したことない。シーツだって、明日になったら誰かがすぐ変えるんだから」
「でも」
「あーもう、諦めて従いなよ。こんなに心配させたんだからさ」
恨みがましく今日の件を出せば、なまえはばつが悪そうにすぐに口を噤んだ。
その割に頬は桃色に染まって嬉しそうな顔をするものだから、こちらまで落ち着かない気分になってきてしまう。
そんなに、僕が自分を心配していたことが嬉しかったのか。こんなことで喜ばれるだなんて正直心外だった。
僕だって別に人の心配くらいするし、もっと言えば妹が危険に晒されたら僕の立場だって同時に危うくなるのだから、取り乱すのだって当然である。
そう、己の為を思えば当然のこと、だった。
「…わかった」
するりと、なまえが僕の懐に潜り込む。まだ身体は冷えていて、布団の中で暫く温めてやらなければならなそうだった。
やはり、この子は弱い。きっとすぐに傷付いて、辛い思いをしてしまうように思えた。
僕が今、ここで牙を立てるだけでもひどく怯えて歪んだ表情を見せるのだろう。
今夜のように一人で外にいたのなら、他者に同じような目に遭わされる可能性も十分にあったはずだ。
僕が、守らなければと。そう思うのは決して彼女のためではなくて、なまえが僕にとって揺るぎない利用価値を秘めているからに他ならない。
だから、こうして抱きしめて感じる微々たるぬくもりに安心していることも、なにもおかしいことではないのである。
パウバート・リンクスリーは、きちんと家族の一員としてここに存在できている。そう、自分に言い聞かせた。
「…お兄さま」
なまえの瞼は落ちかけていた。僕も緊張が解けたせいでふっと眠気が襲って、意識がぼんやりとしている。
「ありがとう」
呂律の回らない口で、呟くように発された言葉。それは何に対するお礼なのだろうか。
きみの身を案じたこと?それともこうして隣で寝るのを許していることか。
いずれにしても、僕からしたら見当違いの「ありがとう」だった。全て、自分の身の保身のために行っているだけなのだから。
「……次から遅くなるときは連絡して。迎えに行くから」
それなのに、もっと欲しいと思ってしまうのはなぜなのだろう。
意識せずに出てきてしまった提案は、ちゃんと彼女の耳に入ったか怪しかった。なまえはもう、ほとんど眠ってしまいそうである。
おやすみ、と一言呟くと、なにやら返事のようなものが聞こえたような気がした。僕も、目を閉じる。
服すらそのままで寝るには窮屈なはずなのに、さっきよりもずっと心地よく眠れそうだった。