パウバートくんは、非常に表情が分かりやすい子である。
「……ぐ、また負けた……」
わたしの持つ携帯型ゲーム機のモニターに映し出されるのは「win」の文字。背景には広げられたトランプの画像が配置されていて、一際大きくジョーカーのカードが目立つデザインになっている。
ここ、彼の隠れ家であるテントの中で携帯ゲーム機を持ち寄って遊ぶのは最早恒例となっていた。ここは気候故に少し肌がかさかさするものの、静かでゆったりとしていて居心地がいい。
彼はどこから稼いでくるのか、それともそのお家柄によるものなのか、続々とゲームソフトを買ってきていた。未プレイのソフトが溜まってしまって、消化するのが大変なほどである。
それほど楽しみにしてくれているのなら嬉しい。しかしいい加減やってないのをやらないと、と説得して、今日選んだのは色々なボードゲームが収録されているゲームソフトだった。
トランプやチェス、中には名前も聞いたことのないものまで遊ぶことのできるゲームなのだけれど、今彼が夢中になっているのはババ抜きである。
「ババ抜きじゃないやつやる?」
「……いや、一回ぐらいなまえに勝ちたい。もう一戦やろう」
「ええ…?懲りないなあ」
アナログのカードで二人でやるとすぐにジョーカーが分かってしまうこのトランプ遊び。しかし、ゲーム機のソフトの中でやれば話は別であった。NPCがいる分、ハラハラ感を損なわずに楽しむことができる。
最初だったし、取り敢えずルールも分かるからと適当に選んだゲームだったのだけれど、ここまで長くやることになるとは。
「次は勝てるから!」
なぜこんなありふれたゲームを長時間遊んでいるのかと言うと、答えは単純。パウバートくんがとてつもなく弱いからである。
画面の中で、カードが配られる。揃ったものはゲームの中で勝手に捨ててくれるから眺めるだけで良くて、なかなかに楽ちんである。
ちらりと隣に座る彼の方を見ると、画面を目に映して苦い表情。多分、ババが当たったのだと推測できた。
「……」
「よし、じゃあやろうか?」
「貴方が引く番です」。わたしの方の画面に文字が表示される。はっと顔を上げた彼は、にやりと笑いを作って、余裕そうにこちらを流し目で見やる。なにが彼をそんなに自信満々にさせるのか不思議で仕方がなかった。何回負けたと思っているのだろう。
パウバートくんは、多分わたしがちらちらと表情を伺っていることに気がついていない。諸所でそのあたりの見落としがあるから、ずっと負け続けているのである。
まあ、そんなところも抜けていてかわいい、なんて思ってしまうのだからわたしだって大概ぼんやりとしているとは思うのだけれど。
▽
「やっと勝てた……!」
ぱ、と明るくなる表情。わたしがわざとババを引いたことなど知る由もなく、彼は嬉しそうにこちらに笑いかける。結局その後数戦行って、わたしが折れる形でパウバートくんは勝利を収めた。
その目は「どうだ」とでも言いたそうに内側に光が込められているような気がして、わしゃわしゃと彼を撫で回したくなるのを必死に抑える。
わたしの彼氏はこんなにも素直で分かりやすくて、とっても可愛らしい。こんなに嬉しそうにしてくれるのなら、もっと早くに負けてあげればよかったかな、なんて失礼なことを考えた。こんなこと、口が裂けても言えない。
「よかったね」
「……ちょっと、そんな冷めた反応されると必死になった僕が馬鹿みたいじゃないか。恥ずかしくなってきた……」
「え、なんで落ち込むの。楽しかったよ」
ころころ変わる彼の表情を見るのは飽きない。本心でもあるフォローを入れると、パウバートくんはいまいち納得がいっていなさそうにじっとりとした目でこちらを見た。信じてなさそう。
「ほんとだっ、て…」
突如、スマホが机の上で震える音がした。思わず口を閉じてそちらに目を向けると、彼が慌ててスマホを手に取る。
何年か前のものをずっと使っているわたしとは違って、彼のスマホは最近出たばかりのモデルだった。
「ご、ごめん……家からだ」
「大丈夫。出ていいよ」
「……うん。ありがとう」
さ、と顔が強張るのが見えた。申し訳なさそうにこちらの様子を伺う彼に、できるだけ柔らかな声で返事をする。
パウバートくんは、家族との関係があまりうまくいっていない。詳しくは教えてもらっていないけれど、このオアシスに隠れ家を持ったのも家にいるのが息苦しくなるからだと聞いたことがある。
家族の話をするとき、家族の影がちらつくとき、彼はいつも思い詰めた顔をする。あの有名な「リンクスリー」だと色々複雑な事情があるのだろう。
なぜ彼と一緒にいられているのか疑問が浮かぶほどに、彼の住む世界はわたしとは違っていた。
「……うん、うん、分かった」
眉が、ハの字に下がっている。口は微妙に笑っているけれど、普段のリラックスしたそれとは全く違った弧を描いていた。こんなときでも、彼の表情はあけすけにその内面を語っている。
「……大丈夫?」
彼がスマホを耳から離して、通話を終了するのを見てから声をかける。反射的にこちらに顔を向けたその瞳は、暫く左右を彷徨っていた。ぽとりと目線が落ちて、彼が言いにくそうに口を開く。
「その……話があるから帰ってこいって」
「……そ、っか、仕方ないね」
「ごめん。でも話自体はそんなにかからないらしいんだ。今日もし泊まるなら、こっちにすぐ戻るよ」
「じゃあ、待ってる」
「ありがとう……本当にごめん」
こういうことは珍しくなかった。彼の家庭のことは分からないし、名家の生活がどういうものなのかなんて想像もつかないから、わたしはそれに口を出せない。
寂しいといえばそうだけれど、立場が違うのだから受け入れるべきだと考えて、いつもただ彼の帰りを待っている。
それが正解なのかは分からなかった。でもパウバートくんが帰ってきたときにほっとしたように息をつくのを見ると、一人にしない方が良いような気がして。
「……はあ」
彼の口からため息が溢れる。憂鬱そうな顔、手の中のスマホを見つめる姿は、ありふれた言葉だけれどどう見たって辛そうだった。
彼が、立ち上がる。パウバートくんは出口の方に体を向けて、わたしからは顔が見えなくなった。若干猫背な後ろ姿。落ち込んでいる時は、特に背中が丸まる。
「ま、まって」
「……え?」
咄嗟に、彼のニットの端を掴んでしまった。はっとして慌てて手を離すけれど、自然と出てしまった声と引っ張られた感触に彼が気が付かないわけがなく、こちらを振り向く。
引き止めたのは初めてだった。パウバートくんが大きく目を見開いて、わたしを見つめる。
なにか言わなければ、と思うけれど、なにも言葉が思いつかなくて唾を飲んだ。家に帰ろうとする彼がひどく苦しそうに見えて、つい手を伸ばしてしまっただけだったから。
そんな顔をしてまで行かなければならない用事なの、なんて、彼の境遇を正確に理解できていないわたしが言えることではない。
「……ごめん、嫌だよね。折角のデートなのに、こんな」
「い、いや、ちが」
「いつも本当に申し訳ないと思ってるんだ。必ず埋め合わせはする。だから今だけ、少し我慢してくれる…?」
小さな子供に言い聞かせるように。声は普段よりも数段穏やかに、優しく発せられた。彼の大きな片手がわたしの頬を包む。あたたかかった。
わたしが言いたいのはそういうことじゃないのだけれど、その温度に開きかけた口は閉じてしまって、黙り込む。
「……」
どうしたって、わたしは彼を止めることはできない。いくら辛そうでも、苦しそうでも、わたしではかけられる言葉がない。心配しているということを、伝える術すら持ち合わせていなかった。
育ちが違うとは、こういうことなのだ。共感し得ないなにかがある。分かってあげられないものがある。
それをなんとか飲み込んで、わたしはどう寄り添ってあげればいいのかを導き出さなければならないのだ。
「ごめん、ね。いってらっしゃい」
彼への寄り添い方は、わたしにはまだ分からなかった。だから少しだけ逃げて、もう少し考える時間を確保したい。
分かりやすい彼の表情はわたしの思考をどんどんと急がせるけれど、焦るのだけは良くないと分かっていた。不用意に踏み込んで彼を傷つけるのだけは嫌だったから。
「……すぐ戻るよ。愛してる」
そう言って彼はわたしの輪郭を撫でて、手をそっと離す。
安心させるように笑いかけた彼の笑顔は完璧だったけれど、完璧すぎて違和感があった。
▽
なまえには悪いことをしたな、と。バイクのハンドルを持ちながらぼうっと考える。
いつも呼び出しを食らうたびに我慢させて、それでも穏やかに送り出してくれる彼女のなんておおらかなことか。不満がないわけがないのに、毎回笑って帰りを出迎えてくれる。
僕には勿体無いくらいの、できた子だった。だからこそ、あんなふうに止められるだなんて思ってもみなかったし、その不安げな表情を見て一瞬心臓が大きく鳴ったのだ。
「そりゃそうだよな……」
デートの時に家族からの呼び出しで穴を開ける彼氏だなんて、不快に思うに決まっている。あれくらいで済んでいるのがすごいくらいだ。
僕は普通のカップルがどんな感じなのかはよく知らないけれど、なまえが貸してくれる少女漫画などを見るにビンタをされたって文句は言えないんじゃないかと思った。彼女が優しくて良かったと、心から思う。
今後は、もっと彼女に配慮すべきだろう。勿論、父さんからの呼び出しを無視することなんてできないけれど、なにかしらのお詫びをしなければならない。なまえが僕の譲れないところに耐えかねて、別れを切り出すのだけは避けたかった。
苦労して手に入れた彼女に見限られたら、僕の人生はどこにも居場所がない。
最後にかけた「愛してる」の言葉は、良いパートナーになれそうもない僕を許してくれるなまえへの紛れもない本心だった。
今、なまえはあのテントでなにをしているのだろう。一人プレイのソフトをいくつか置いているから、それで遊んでくれているだろうか。ああでも、一人で遊んでいたら余計寂しく思ってしまったりするのかもしれない。
「……もし、そうなら」
少し嬉しい、だなんて思ってしまう。なまえには申し訳ないけれど。
引き止める彼女の手。控えめに引っ張られた力は少しも僕を遮ることなんてできていなかった。しかし、その少しの動きそのものに大きな意味がある。
聞き分け良く帰りを待ってくれているのもとてもありがたいし、際限なく優しいところが好きだとも思う。
けれど、「行かないでほしい」と意思表示をされたときに感じた高揚は、それとは比べ物にならない感情であった。己が必要とされているのだという喜び、小さな彼女へのいとおしさ。なまえの思いへの、共感。
僕が彼女に対して感じる不安や寂しさを、向こうも持っていたという証明が、なによりも嬉しくて。
思わず笑ってしまわないようにきゅっと口に力を入れなければならなかった。なまえが悲しんでいるのに口角が上がっていては、それこそ嫌われてしまうだろう。
僕は、うまく返答できたのだろうか。安心してほしくて、できるだけ優しい声色にしたつもりだった。頬に触れたのも、嫌だと思っていなければ良いけれど。
この後なにかしら物でも贈れば、少しはなまえの気を晴らすことができるだろうか。
正解なんて分からない。僕の元から去る相手を引き止めた時、優しく宥められたことなんて一度もなかったから。
「……早く済ませないと」
バイクの速度を上げる。砂漠は広くて静かで、誰もいなかった。