暴走リミッター

彼には、優しいキスしかされたことがなかった。

ちゅ、と軽く重ね合わせるだけのキス。近付けば離れて、また近付いてを何度も繰り返すことはあれど、ただそれだけ。
数センチの距離でじっとこちらを見つめて、満足げに低い声で笑うパウバートくんはいつだってわたしには優しくて甘やかだった。

だからわたしは今まで、彼の舌が己のものとは全く別のかたちをしていることを知らなかったのである。

「ん、ぐ」
「…ん、はあ……」
「パウバートく、まって」
「待たない」

早急に重ねられる唇。普段とは違って幾分か雑に押し付けられるそれに身を引こうとすると、頭の後ろに回された大きな手に力が加わる。
頬に当たる、少し巻き気味のひげが押し付けられてくすぐったい。

半ば押さえつけられるような形で行われるキスはどんどんと深いものへと変わっていって、熱くてぬるぬるとしたものが口を割ってわたしの口内へと侵入した。

先程から何度も捩じ込まれている舌。逃げるように自分のそれを動かすけれども、己の口腔の小ささでは彼から逃れられるほどのスペースはない。
簡単に絡め取られて、擦り付けられたところがびりびりと痛む。

「う、え」
「……」

普段のキスならばうっとりと目を閉じているところなのに、今回ばかりはそうもいかずに上から見下ろす彼が視界に入った。
眉間に寄った皺、ぎらりと光る目。明らかに機嫌が悪そうで、なぜこうなってしまったのかと疑問が募る。心当たりは全くと言って良いほど無かった。




事の始まりはわたしが帰宅したときだった。

仕事帰り。今日はかなり忙しい日だったし、帰りの電車も珍しく混んでいて、他人と密着してぎちぎちの状態で移動をしなければならなかった。
すっかり疲れてドアを開けて、見えたグレーの小さな尻尾にきゅんと胸を高鳴らせたのをよく覚えている。

パウバートくんは、わたしを見るなりこちらに駆け寄ってきてくれた。「ただいま」と一声かけて、いつも通り軽くハグをして。
労りの言葉をかけてくれるパウバートくんは見たところ本当に普段と変わらず、彼のふわふわの頬の毛に顔を押し付けても特にお咎めも無かったように思う。

ハグに満足してぱっと離れた時、わたしの動きとは裏腹にパウバートくんは微動だにしなかった。
不思議に思って顔を覗き込むと、きゅっと瞳孔が縮んだ目にわたしが映る。

「……ちょっと、いい?」

気が付けば、彼の力に押さえつけられてされるがままになっていた。




「な、なに、どうしたの……っ」
「ん……?どうもしないけど」

そんなわけないだろう。そう反論したくて口を開くと、すぐさま彼に食べられてしまって声が出ていかない。触れる舌はざらざらとしていて、遠慮なく口内を荒らす。

パウバートくんの舌は、なにやら細かい突起のようなものが付いているみたいだった。当たるたびに、擦るたびにそのとげが表面を傷つけて、ひりひりと熱を放つ。

彼とはそこそこの付き合いだというのに、彼の持つそれが自分のものとは異なることを知ったのは初めてだった。
そういえば、猫科の動物は舌がざらざらしている、というのを聞いたことがあるような気がする。今の今まですっかり忘れていたけれど。

口の中がとても熱かった。痛みによる熱なのか、それとも別の熱さなのか判別がつかないくらいで、じわりと目が潤むのが分かる。
混乱の最中にあるわたしとは対照的に、こちらをじっと冷めた目で見ていたパウバートくんは、そんなわたしの様子を見てゆっくりと舌を引き抜いた。その動作だけでもぴり、と刺激が走る。

「……痛い?」

彼はにやりと口角を上げる。痛がっているのを分かって、舌を入れれば痛いのだと知っていてこの行為に及んだのだろう。

「痛い」
「…はは、そっか」
「そっかじゃないよ。急になに、どうしたの」

彼は普段、わたしに乱暴な事は絶対にしない。手を握ったり腕を掴むのでさえ、その大きな手を縮こまらせて丁寧に触れてくれていた。なにが彼をここまで動かしたのか、わたしには見当もつかない。

パウバートくんは、「やってやった」とでも言いたげな様子で笑った。ふわふわの指先がわたしの口元に当てられる。
少しだけ出した爪が冷たくて、わたしの体温が余計高く感じられた。

「口の中をずたずたにしておけば、痛くて他の男とキスなんて出来ないだろ?」
「……え?」

彼はそう言って、ぐに、と指に力を加える。変形した唇から素っ頓狂な返事が漏れ出て、パウバートくんの大きな耳がぴくりと動いた。眉が訝しげに顰められる。

「誤魔化せるとでも思ったの?ハグした時知らないやつの匂いがした。男物の香水、みたいな。嗅いだ事ある匂いだったから多分ハイブランドのだよね」
「……」
「浮気?僕に飽きたのかな。悪いけど、僕はなまえから離れる気はないから」
「…あの、パウバートくん」
「たとえ僕のこと好きじゃなくなっても、きみは僕のものだ。この事実は変わらな、ン!?」

ぎょっと、彼の目が見開かれるのが至近距離で見える。よく喋る口を今度はこちらから塞ぐと、さっきまで深く攻め立てていたとは思えないほど彼は狼狽えていた。立場は逆転、今度はこちらが不機嫌である。

驚いて口を開けたままの彼に、先ほどの真似をするように舌を入れてみるとびくりとあちらの身体が震えた。
恐る恐るくっつけると、やはりとげが傷ついたところに当たって痛い。顔が歪む。

「っは、な、なにして」
「わたしの言うこと全然聞いてくれなさそうだったから」
「き、キスで誤魔化そうとしてる?そんなことされても僕、許さないし別れる気もないけど」
「……別れないし、浮気もしてない」
「……へ」

「許さない」と言う割に、彼の手に隠された口元の端は上がっていた。数秒前までの圧は何処へ行ったのか、彼はへにゃりと猫背が加速して小さくなっている。

「多分、匂いは電車でついたやつ。今日珍しく混んでたから」
「……」
「パウバートくん以外とキスなんかしないし。ていうか、ずたずたにされたらパウバートくんともキスできないじゃん。今のすごい痛かったもん」
「………」
「絶対赤くなってる。確認して」

べ、と舌を出す。おずおずと口の中を覗き込んだパウバートくんは、表面の状態を確認すると「うわ」と引いたような声を上げた。一体誰のせいだと思っているのだろう。

「あー…爛れたみたいになってる………ごめん……」
「わたし、浮気とかしないから」
「そ、そんなの分からないじゃないか、あ、いや、ごめん、そうだよね……」

空気を読まずに反論しようとする彼を一瞬睨むと、視線に気がついてしょぼしょぼと勢いが失われていく。
どうしてこんなに信用されていないのだろう。疑われることというのはなかなかに傷付くものだということを、彼はよく知らないらしい。

「…不安になったならちゃんと伝えてよ。したら誤解もすぐ解けて、嫌な思いした分いっぱいハグもキスもしてあげるのに」
「……」
「わたし、パウバートくんのことちゃんと好きだよ。だからもっと信じてほしい。疑われたら悲しいし」

乱暴にキスされても、どれだけ痛くても、全然嫌だと思えないくらいには貴方のことが好きなのだ。
どうしてこんなに惚れ込んでいると分かってもらえないのか、愛情表現はしているつもりなのに全然伝わっていなくてもどかしい。

彼は、わたしの言葉を聞いて耳を垂らした。しょんぼりと俯いて、指先は所在無さげに小さく爪を鳴らす。

「……ごめん。僕、間違えちゃって」
「うん」
「きみが誰かと香りが移るくらい近付いたのかと思ったら耐えられなかったんだ。だめだな、なまえのこととなるとすぐ冷静じゃなくなっちゃう」
「……」
「痛くしてごめん。許してくれる…?」

控えめに、彼の手がわたしの手に触れる。毛が手のひらを少しだけ掠めてくすぐったい。そっと指先を絡めると、パウバートくんがほっと息をつくのが小さく聞こえた。

「いいよ。仲直り」

そのまま、あちらに身体を預けて抱きついたような形になる。突然縮まった距離に彼は慌てふためいて、でもわたし程度の重さではちっとも重心は崩れていなかった。
幼い子のような所作と瞳で謝る彼だけれども、しっかりと女一人を受け止める力と身体は持ち合わせているらしい。

実を言えば、容赦のないキスにちょっとだけドキドキしてしまっている自分もいた。でも正直に伝えてしまうのは恥ずかしいし、わたしを意識させる術に磨きをかけられては心臓がもたないので、内緒にしておくつもりである。

彼の体温を感じながらぼんやりとそんなことを考えていると、少し身体の距離が開いてパウバートくんが屈んだ。近付いた顔の距離、ひそひそ話でもするように、彼が小さな声でわたしに問いかける。

「ねえ、おかえりのキス、やり直しても良い…?」

甘さがたっぷりと含まれた視線だった。鼻と鼻が当たりそうなほど近付いて、すぐにキスなんてしてしまえるのにわざわざ許可が降りるのを待っている。

わたしが彼の舌の構造を知らなかったことは、彼がわたしをとても大切にしてくれていることの裏付けだったのだと思う。その優しさが、配慮が、今彼が待ってくれていることにも繋がるような気がした。

ただ、彼がいつも優しくしてくれていることと、今自分の口の中で主張する痛みは全く別の問題である。

「……だめ」

繋いでいた手を離して、わたしのと今にもくっついてしまいそうな彼の口元を抑えるように手を当てる。
甘い雰囲気を纏っていたパウバートくんは、途端にきょとんとこちらを見て瞬きをしていた。

「え」
「今日は身も心も傷付いたから。キスすると痛いし」
「待ってよ、今のはキスする流れじゃ……もう痛くしないから!」

top / buck