緩やかに蟻地獄

「お、おかえり!」

家の鍵につけた鈴のストラップがしゃらりと音を立てる。金属のドアノブを掴んで玄関の扉を開けると、そこには待ち構えたようにグレーの毛を携えた生き物が立っていた。

すっかり慣れた出迎えに、外の寒さで冷えた手がじんわり暖かくなるのを感じる。自然と笑みが溢れたのが自分でも分かって、なんだか気恥ずかしくなった。
その恥ずかしさがバレないように、努めて明るい声で返事をする。

「ただいま、パウバートくん。気付くの早いね」
「はは、足音が聞こえたからなまえが帰ってきたってすぐ分かったんだ。あ、鞄持つよ。上着も」
「わ、ありがとう。ご飯すぐ作るからちょっと待ってて」

うちはそこまで壁が薄いわけではないのだけれど、それでも外の人の足音が聞こえるとは驚きである。やはりその大きな耳は人間よりもずっと繊細に機能するのだなと、持ってくれた荷物を抱えて忙しなく動く彼を見て思った。



パウバートくんは喋る猫である。

正確に言えばオオヤマネコ(彼は自分の種族に拘りがあるようで、猫と一括りに言うとムッとした顔をする)という猫科の動物だ。
彼はどうやら、わたしたちの世界とは全く別の、動物が人間のように生活をする場所から来たらしい。

御伽話の中みたいな話である。でも、目の前で現実として起こっていることを冗談や嘘には当然できずに、わたしは夢の中みたいな気分で彼を受け入れていた。
とんでもないことが起きていても、案外適応して過ごしていけるものである。

帰り道に彼と出会って、ぼろぼろだったために一時的に保護しようと拾ってきたのは数ヶ月前。一時の不思議体験で終わるかと思っていたのに、ここまで長い付き合いになるだなんて。
行く当てがないと困っているパウバートくんに、一人暮らしは寂しいからと居候を提案した時の彼の顔が忘れられない。きょとんとして、次第に困惑の表情に染まる様子は、明らかにわたしを不審に思っていた。

「上着、クローゼットに仕舞ったよ。鞄も」
「っわ、びっくりした」
「あ……ご、ごめん。驚かせるつもりはなかったんだけど」

そんなことを考えながらキッチンに立つと、荷物を置いてきてくれたパウバートくんがいつのまにかわたしの隣に来ていた。こちらを覗き込む瞳、くっつきそうな肩は警戒心のかけらもない。最初の頃とは大違いである。

こんなにやすやすと近くに来てくれるほど心を許してくれたのが嬉しくてまた口角が上がってしまう。
彼はそんなわたしを見て不思議そうに名前を呼んだ。なんでもないとあわてて誤魔化して、片付けをしてくれたお礼を言う。

「今日のディナーは何?」
「焼き鮭だよ! 安かったんだ」

ディナー、だなんて。パウバートくんは、時折畏まったおしゃれな言い回しをすることがあった。
特に意識してやっているわけでもなく、ごく自然にそれが出てきているみたいである。もしかしたら、裕福なご家庭で育ったのかもしれない。

わたしの作るものはそんなふうになんて呼べるほど豪華なものではないのだけれど、特に文句も言わずに食べてくれるからありがたかった。

「シャケ……ああ、塩でサーモンを焼いたやつか。この前つけてあったスープも作るの?」
「作るよ。お味噌汁ね……あ、豆腐買うの忘れた。ごめん、具が少なくなっちゃう」

がさがさと冷蔵庫を漁っても、白いパックは見当たらない。この前買い物に行った時に、確かに書き忘れたような気がする。
しまったな、と苦い顔をすると、励ますように彼がわたしの背中を叩いた。にやりと彼の犬歯が光る。

「きみって、意外と抜けてるよね」
「……」
「ご、ごめん、ただの冗談だろ?睨まないでよ……」

居候のくせになんてえらそうな。拗ねたふりをして軽く睨むと、彼が慌てて謝った。
ここ最近、彼は会話の中に冗談を少しだけ交えてくれる。そのことも、気を許してくれているようで心がぽかぽかと高鳴った。
気まずそうに目を逸らす彼を見て耐えきれずに笑うと、パウバートくんは安心したように息をつく。こほんと軽く咳払いをして、彼は話題を変えるために口を開いた。

「なまえはなんでも作れてすごいよね」
「えー? ご機嫌取ろうとしてる?」
「え、ちが……本心だよ。僕は料理できないし」
「あはは、ありがとう。でも一人暮らしだからってだけだよ。パウバートくんもやってみたらそのうち出来るようになると思うけどな」
「え……そ、そうかな」

パウバートくんは、私の言葉を聞いてそわそわと目を泳がせた。その様子はどことなく嬉しそうに見えて、キッチンでお母さんのお手伝いをする子供みたいである。
今度のお休みに一緒にやってみようか、と誘うと、彼は少し迷った後に小さな声で肯定を示した。





「家族と離れて一人で暮らすって、どんな感じ?」

食事中。ふと思ったことをなまえに問いかけると、彼女は皿の方に向けていた意識をこちらに戻して、黒い瞳で僕を見る。
真っ黒と少し茶色の入ったなまえの目は、元の色が暗いせいで反射する自分の顔がよく映った。「人間」とは全然違う姿形。
己がこの場所でどれほど異物感を放っているのかが、彼女の目を通してまざまざと感じさせられる。

ここでは、僕は誰一人として仲間のいない『独りぼっち』だった。途方もない孤独感、家族や知り合いさえいない世界。

早くうちに帰らなければ。そう思わない日は一日たりとも無い。
けれど、どうすれば帰れるのか、もっと言えばどうやってここに来たのかも分からない状況では身動きすらまともに取れなくて、数ヶ月八方塞がりのまま時を無為に過ごしていた。

唯一幸運だったのは、一番初めに出会った生き物が信じられないほどお人好しだったということ。なまえは、この世界においては得体の知れない動物である僕のことを家に匿って、そこそこに快適な生活を与えてくれている。

「どんな……? うーん、自由ではあるかなあ。なにしても何時に帰っても怒られないし」
「なまえは自由が欲しくて家を出たのかい?」
「そういうわけじゃないけど。一人暮らしの一番楽しいところはそこかなって」

だって、一人暮らしじゃなきゃパウバートくんと一緒に住むのだって無理だったよ。
彼女が白米を口に運ぶ。器用に二本の棒だけで食事をするなまえの手捌きは、いつ見てもどうやっているのかよく分からない。

「不安になったりしないの?」

僕はずっと不安だった。なにも分からない世界で、頼れる家族もいない。
手を差し伸べてくれる謎の生き物だって、信用できるかなんて判断がつかなかった。今では、当たり前のようにその厚意を受け入れてしまっているのだけれど。

僕は、なまえのことがそれなりに好きだった。
こちらにたくさん言葉をかけてくれるし、僕に向ける笑顔は緩み切っていてかわいいし、近付けば陽だまりのような落ち着く香りがする。
それになまえは弱くて、数日共に過ごしただけで僕ならいつでもねじ伏せられることが分かった。だから、警戒の必要性もあまり感じていない。

それでも未だに、僕は彼女が潔白だとは信じきれていなかった。だって、いくらなんでも優しすぎる。

「不安?」
「うん。あとは寂しくなったりとか。だって家族にも滅多に会えないんだろう?」

僕は、なまえがどうしてこれまで一人で生きてこられたのかが不思議だった。
のんびりしていて少し抜けていて、それにずっと僕に優しい彼女は、僕がこの世界で独りぼっちになっている期間よりもずっと長くこの家で一人で生活をしていたらしい。
どうして、そんなことができるんだろう。今の生活を体験しても尚、僕には全く出来そうにない。

ズートピアにも、もちろん家族と離れて生活をしている動物は山ほどいたのだろうと思う。でも、僕はそんな彼らと関わる機会なんてなかった。
一人で過ごすこと、それがどんな感覚なのか。僕はずっと誰かに聞いてみたかったのだ。

なまえは僕の質問を聞いて、もぐもぐと急いで口を動かした。口の中にものがあるから喋れないのだろう。
そのうちにこくりと小さな喉を動かして、満を持して口を開く。なんてことのないような雰囲気で、ぽつりと。

「不安だし、寂しいよ。もちろん」
「…え、嘘だろ? なのに一人でいるんだ」

意外だった。不安にならないから、こうして暮らせているのかと思っていたのだけれど。

驚く僕に、なまえは小さく笑った。不安にならないわけないでしょ、人間なんだから。
眉尻を下げてそう言われるけれど、人間のことなんてよく知らないから分からない。

「必要だからしてるだけ。やっぱり家族に会いたくなるし、寂しくもなるよ」
「……」
「嫌なことがあった日とかは不安で眠れなくなったりもするし、そういうときに一人だと心細い。世界に自分一人だけで、皆に置いていかれてるような気分になったりして」

なまえの目線が落ちる。追いかけるように僕も彼女の動きを目で追うと、テーブルの隅に置かれたスマホが見えた。
なまえはたまに、自分のスマホで家族とやりとりをしている。表向きに置かれた画面は真っ黒だった。

彼女の話すことは、痛いほどよく理解できる。家族と離れている苦しさ、寂しさ、それに、不安。
ここに来てから、「もしかしたら僕の存在などもうとっくの昔に皆に忘れ去られているかもしれない」と、ふとした瞬間に考えて眠れなくなることがあった。

戻って、僕のことを覚えてくれていなかったらどうしよう。「戻って来ない方が良かったのに」と言われたら、どうしよう。
そう考え始めてしまうと、不安はどんどん大きくなっていく。家族が僕を抱きしめて「心配した」と言ってくれる光景は、残念ながら全く鮮明に思い描くことができない。

もう少し若かったらそんな幻想を見れたかもしれないけれど、今となってはこれまでの蓄積が脳裏を掠めてノイズをかけてしまっていた。
自分が必要とされていないことを、僕は骨の髄まで理解している。

「でも、最近はさ」
「……」
「パウバートくんがいてくれるから、大丈夫なんだ」
「……え?」

きゅうっと、なまえの瞳が細められる。その目に映る僕の顔は、綺麗に整えられた睫毛が陰になってこちらからは見ることができなかった。
食事をする手はとっくに止まっている。せっかく作ってくれたご飯が冷めてしまうというのに、身体がうまく動いてくれない。

「帰ったら誰か待ってくれてるのって、すごく嬉しくてさ。なんか家族が増えたって感じ」
「……」
「あ、ごめん、パウバートくんはそう思ってないかもしれないけど。でも少なくともわたしは、パウバートくんがいてくれるおかげでもうあんまり寂しくないの」

反応のない僕に、向こうが気を遣ってフォローを入れる。なまえの言う通り、僕は彼女を家族だと思ったことなんて一度もなかった。だって僕らは見た目も性格も全然違うし、僕は何一つとして彼女の役に立てていなかったから。

だからこそ、なぜ僕を家に置いてくれているのかずっと疑問だった。利益を産まない、ただそこにいるだけの存在なのに。

「うちにいてくれて、ありがとね」

花が咲いたような笑顔だった。
ひどくあたたかくて、春が始まったばかりの、雪が降ってもすぐに溶けてしまいそうな季節が思い浮かぶ。ツンドラタウンには春はないから、完全に想像でしかないけれど。

僕はすっかり彼女に目を奪われてしまっていた。どきどきと鳴る心臓だって意識できない程で、持っていたフォークが皿に当たって軽い音を立てる。

なまえの言葉には、今まで頭の中で繰り返した疑問の答えが含まれているような気がした。僕はここにいるだけで、なまえの役に立っている。寂しさを紛らわすことができるという利点ただ一つで、僕を家族と認めてくれる。
こんな簡単でいいのだろうか。人間とは、随分単純な生き物らしい。

返事はすぐに出て来なかった。なんて返したらいいか分からなくて黙ってしまうと、そんな僕の様子を見てなまえはまた慌てて口を開く。

「ああでも、一番はパウバートくんが家に帰れることだよ。行っちゃう時は声かけてほしいな、心配になるから」

ぽそぽそと、彼女は言い訳するように言葉を連ねた。俯いて小さく呟くさまを見ると、きっと寂しいのだろうと容易に分かる。
この子は、よく感情が顔に出る。それに、やたらと僕の状況や心情に気を遣う。数ヶ月彼女のことを観察して知ったことのひとつだった。

「……分かった。もし帰れるようになっても、必ず行く前に挨拶するよ。これまでのお礼もしたいしね」

もし帰れるようになったら、だなんて。そんな日がいつか訪れるのだろうか。僕の世界もこの世界も、暮らす生き物が違うだけでどちらも酷く現実的だった。

こんな夢みたいな、奇跡とも呼べる災いが二度も起こるだなんて思えない。思えないのに、僕はいつか家に帰る日を期待しなければならなかった。
家族が大切だから、家族の元に帰りたい。それは紛れもない本心のはずなのだけれど。

「……うん、ありがとう」

いっそ、もうお前は帰れないのだと誰かに言って欲しかった。そうすれば、なまえの寂しさをずっと埋めてあげられるのに。なまえが、僕のたりないところに収まってくれるのに。

「パウバートくんにもできる」だなんて、言われたのはいつぶりだっただろう。そこにいるだけで嬉しいだなんて、これまで言われたことなどあっただろうか。

この世界はとても狭くて、窮屈で、不安だらけだけれど、こんな弱い生き物に包まれて眠ることができるくらいには甘やかで都合が良い。

「ねえ、お礼はなにしてくれるの?」
「え、なんだろう……ああ、なまえに教えてもらった料理でも披露しようかな?そのころには上手くなってるかも」
「ほんとに?じゃあちゃんと教えないと」

楽しみだね、と。適当に思いついた提案を口に出せば、なまえは嬉しそうに笑って近い未来を語る。
教えてもらっても上手くできなくて、期待を裏切ってしまうかもしれない。先程まで頭にちらついていた想定は、今では微塵も心配にならなかった。だって彼女は、僕が何もできなくても家族として認めてくれる。

出来立てだった料理たちは生ぬるくなっていた。茶色に濁ったスープを口に含む。少し時間の経ったそれは、僕の舌には丁度いいくらいの温度になっていて飲みやすかった。

なまえの作るものはうちで食べていたような複雑な味や風味はしないけれど、素朴であたたかな素敵な味がする。
僕の家族は、この味を知ったらなんて言うだろう。安っぽいと笑うだろうか、口当たりが良くないと怒るだろうか。

僕がもし、彼女の作るものを真似したとして。目の前で笑うこの世界での家族は、どんな出来でも「美味しいよ」と笑って褒めてくれるような気がした。

top / buck